19 恋人の日常
「さむっ」
マンションの自動ドアが開くと冷たい風がピューッと顔を撫でた。いつも暖かい部屋にいるからか、いまが冬だということを忘れそうになる。マフラーを口元まで引っ張り上げた俺は、もう一度「さむっ」と言ってから自動ドアを出た。
寒いとわかっているのに外に出たのは、どうしても買いたい雑誌があったからだ。もちろん本屋に行くことは藤也さんにも伝えてある。藤也さんが買ってくれたコートを着て、フワフワのマフラーを巻くように言われたからそのとおりにした。コートのポケットには藤也さんにもらったスマホも入っている。右の手首にはピンク色のアクセサリーもちゃんとある。「よし」と口にして歩道を歩いた。
マンションを出て大通りを真っ直ぐ行くと大きな公園がある。その少し先に目的地の大型書店があった。
(あったかい格好してるのに、やっぱり外は寒いなぁ)
この前そんな話をしたら、藤也さんが新しいブーツを買ってきてくれた。中がモコモコだからたしかに温かい。でもブーツだけでもう三足目だ。俺は一人しかいないのに買いすぎだと思う。
(コートだって三つもあるし)
しかも全部かわいい系だ。最近そういう雑誌も見るようになったから“かわいい系”だということに気がついた。「俺、男なんだけどな」と思いながら大通りを歩き続ける。大きな公園に行くには途中で横断歩道を渡らないといけない。赤信号だったから信号機のそばで立ち止まった。
(止まるとやっぱり寒いかも)
手を擦り合わせていたら「ねぇ」と声をかけられた。
「きみ、一人?」
「はい」
一人だから「はい」と答えた。
(誰だろう?)
見たことがない顔だ。声も聞いたことがない。
「きみ、可愛いね。高校生? まさか中学生……じゃあないよね」
「中学生でも高校生でもないです」
中学校は一応卒業したし、高校には行ったことがないから高校生でもない。
「じゃあ大学生かな? 小さくて可愛いから高校生かと思った」
大学にも行っていないから大学生でもない。否定しようとしたけど、俺が口を開く前に「あのさ」と男が話し始めた。
「一人で暇してるなら一緒にカフェ行かない? 今日、寒いよね? あったかいカフェラテ飲もうよ。あ、パンケーキとか食べる? 好きなのなんでも食べていいからさ」
たしかに今日は寒い。だからって知らない人とカフェに行ったりはしない。それに暇でもなかった。「またナンパか」と眉をひそめながら信号機を見る。「早く信号変わらないかな」とつぶやくことも忘れない。そうやってわかりやすく無視をしたっていうのに男はしつこく「ねぇ、行こうよ」と話しかけてくる。
「そこの公園におしゃれなカフェがあるんだ」
公園にあるカフェなら知っている。藤也さんと一緒に何回か行ったことがあるからだ。あのお店のコーヒーは悪くない程度だと藤也さんが話していた。それにパンケーキよりタルトのほうがおいしい。
「ねぇ、一緒に行こうよ。ここじゃ寒いでしょ」
ここは寒いけどカフェに行きたいとは思わない。予定にないことをするわけにはいかないから無視し続けた。
「きみ、可愛いからなんでもおごってあげるよ?」
おごってあげるという言葉に「うわ」と思った。こういう男はとくに注意したほうがいい。そう教えてくれたのも藤也さんだ。
かわいいね、なんて言って近づく男にろくなヤツはいない。飲食を進められたらとくに気をつけたほうがいい。眠くなる薬を混ぜられて、ウトウトしている間にホテルやなんかに連れて行かれる。これも藤也さんが教えてくれたことだ。
(俺、男なんだけどな)
もしかして気づいていないんだろうか。それとも男でもいいってことなんだろうか。無視しているのに話しかけてくるのが鬱陶しくて「行きません」ときっぱり断った。
(俺は本屋に行きたいんだ)
今日は英語と料理の本、それに藤也さんの写真が載っている雑誌を買わなくちゃいけない。早く行かないと売り切れてしまうかもしれない。
「もしかして用事ある? ちょっとくらいいいでしょ? ねぇ、なんでもおごってあげるからさ。あ、もしかしてカラオケのほうがいい? それともゲーセン行く? どこでも連れてってあげるよ?」
「行きません」
「いいじゃん、ちょっとくらい。ねぇ、行こうよ」
「ちょ……っと」
何度も断っているのに腕を掴まれてギョッとした。体がビクッと震えるのと同時にガチッと強張る。思わず出かかった悲鳴を慌てて呑み込んだ。
こうして体のどこかをいきなり掴まれると体が強張ってしまう。サンゲンチャヤとかいう人に捕まってからこうなるようになってしまった。強張るだけならまだマシだ。最悪なのは怖くて動けなくなることだ。
男が掴んでいる手の感触が気持ち悪い。サンゲンチャヤと……あの人のことを思い出して吐き気がしてくる。
「ねぇ、行こうよ」
「行、きま、せん」
気持ち悪くてうまくしゃべれなくなってきた。体がどんどんガチガチになっていく。あまりの気持ち悪さに吐き気までしてきた。
(もしかしてこの人も俺を捕まえようとしてる人だったら……)
体がブルッと震えた。背中を脂汗が落ちていく。早く離れたいのに足が動かない。足まで震え始めたとき、「俺の連れに何か用か?」という声が聞こえてきた。
(藤也さん!)
藤也さんの声が聞こえた途端に体が動いた。思い切り腕を振り払って藤也さんのところに走って行く。
「なんだよ。俺が先に声かけ、て……」
「俺の連れに用があるのかって聞いているんだが?」
「あ、いえ、何も、ないです」
そう答えた男はあっという間にいなくなった。
「ったく、油断も隙もねぇな」
「藤也さん」
「大丈夫か?」
男に掴まれていたところを藤也さんがゆっくり撫でてくれる。それだけで気持ち悪いのも怖いのも消えた。
「ありがとう」
「どういたしまして。可愛い恋人に寄ってくる虫を追っ払うのも俺の役目だからな」
「こ、恋人……」
顔が熱くなった。ドキドキしながら大好きな藤也さんを見る。
相変わらず藤也さんはかっこよかった。朝見たばかりなのに思わず何度も全身を見てしまう。
今日の藤也さんはスーツにコートを羽織っている。スーツだけでも十分かっこいいけど、黒いロングコートを着るとますますかっこよかった。テレビで同じようなコートを着ている国宝級アイドルとかいう人を見たけど、藤也さんのほうが断然かっこいい。
「見惚れてくれるのはうれしいんだが、本屋に行くんだろ?」
「そう、だけど。あの、なんでここにいるの?」
「この時間に本屋に行くって言ってただろ」
「言ったけど、でも、仕事は?」
「高宮なら巻いてきた」
そう言った藤也さんがニヤッと笑った。高宮さんというのは藤也さんの秘書で、藤也さんの仕事のすべてを調整している人だ。何度か会ったことがあるけど、眼鏡をかけているからか最初は怖い人なのかと思った。
(でも全然怖くなかった。っていうよりおもしろい人だよね)
俺と同い年の娘さんがいるとかで、最近流行っているとかいう漫画やゲームなんかを持ってきてくれたりする。どれもすごくおもしろくて、いつか娘さんにも会ってみたいなと思っているところだ。
高宮さんは俺にとても優しい。でも藤也さんには怖い顔をする。たぶんこうやって仕事の途中で抜け出したりするからだ。
(抜け出したら駄目だと思うけど、俺が言うのも変だしな)
それに後で高宮さんに怒られるだろうから、俺までうるさく言わないほうがいい気がする。
(この前も勝手に抜け出して俺の服買ってたって怒られたのになぁ)
藤也さんは社長だから秘書より偉い。それなのに高宮さんのほうが偉く見えるときがある。とくに高宮さんに怒られている藤也さんを見たとき、本当は高宮さんのほうが偉いんじゃないかと思ったくらいだ。
(きっと同級生だからなんだろうなぁ)
藤也さんと高宮さんは中学から大学までずっと一緒だったんだそうだ。それだけ長く一緒にいるから、高宮さんは藤也さんを怒ることができるのかもしれない。
俺はそんな高宮さんを少しだけうらやましいと思っていた。だって、中学生からの藤也さんを近くでずっと見ていたなんてうらやましすぎる。俺だってかっこいい藤也さんをずっと見ていたかった。
(でも、高宮さんに怒られるのはちょっと……)
怒られたことはないけど、怒られたらめちゃくちゃ怖い気がする。藤也さんはあれだけ怒られているのに怖くないんだろうか。
「あの、また怒られるよ?」
一応、言っておくことにした。
「あー、それは面倒くせぇなぁ」
「じゃあ、仕事に戻ったほうが……」
「蒼とデートして、一緒に帰ってからやるさ」
藤也さんが俺の手を握った。そのままコートのポケットに一緒に突っ込む。ポケットの中は暖かくて、藤也さんの手はもっと温かくて顔がにやけた。ドキドキしながら、藤也さんのポケットの中で手を繋いだまま本屋まで歩いた。
すっかり見慣れた本屋では英語と料理の本、最後に雑誌を買った。雑誌を見た藤也さんが「藤生に聞いたのか」と怖い顔をしたけど、これはボスに不満があるときにする顔だ。
「だって、どうしてもほしかったから」
そう答えると、藤也さんはちょっとだけ呆れたような顔で俺を見た。「だって」と口を少しだけ尖らせたら、「ま、いいさ」と言ってポンと頭を撫でてくれた。
三冊とも買ってホクホク顔になりながらマンションまで帰った。藤也さんは本当に会社に戻らないつもりらしく、そのまま一緒に部屋に入る。そうして部屋着に着替えてソファに座った。
「蒼は耳がいいから語学は相当いけると思うんだがな」
そんなことを言いながら藤也さんが俺のスマホをいじっている。
「耳がいい?」
「おまえ、人の声を聞き分けるのが得意だろ。それに読むより聞くほうが覚えがいい」
そうなんだろうか。自分ではよくわからない。
「一度でも声を聞けば覚えられるんだよな?」
「たぶん」
「それに物音にも敏感っぽいからな。おそらく耳がいいんだろう」
それっていいことなんだろうか。もし何かの役に立てるならうれしい。そんなことを考えながら自分の耳を指でスルスル撫でていたら「読み書きは後回しにして、暇なときに聞いてみろ」と言って藤也さんがスマホを差し出した。
「うん」
画面を見ると新しいアイコンが一つ増えている。これはさっき買った英語の本に付いていた付録とかで、本で紹介されている物語を英語と日本語の両方で聞くことができるんだそうだ。どのくらい理解できるかわからないけど、藤也さんが「このほうがおまえにはいいはずだ」と言ってくれたものだからがんばって勉強したい。
スマホをテーブルに置いた俺は、一緒に買ってきた雑誌を手にした。経済誌だから難しい文章ばかりが並んでいる。それを眺めながら一ページずつめくり、藤也さんの顔を探した。
「……あった」
今回は五枚もある。思わずにやにやと笑ってしまった。
「目の前に本物がいるってのに、そんなに写真がほしいか?」
「だって……」
「この前も雑誌、買っただろ? そもそもスマホで何枚も写真撮ってるだろうが」
「それはそうなんだけど……」
また言われてしまった。でも、藤也さんの写真はなんでもほしいんだ。それなのに藤也さんは自分が載る雑誌のことを教えてくれない。代わりにボスが教えてくれるようになった。今回だって二日前に「明後日、藤也が載っている雑誌の発売日だよ」と教えてくれたからこうして買うことができた。
「俺は消えたりしねぇよ」
「わかってる」
たしかに以前は会えなくなっても顔が見られるようにと思って買っていた。でもいまは違う。だって、本物もかっこいいけど写真もかっこいいんだ。だから何枚でもほしくなる。
隣に座っている藤也さんを見てから雑誌を見る。もう一度隣を見て、また雑誌を見た。両方かっこよくて、どっちかだけを見るのは難しい。そんなことをしていたら雑誌を取り上げられてしまった。
「写真は終わりだ。今日は本物のほうを見とけ」
「う、うん」
不思議な色の目がじっと俺を見ている。そんなふうに見られると顔が熱くなってどうしようもなくなる。耳も首も熱くなってどうしていいかわからなくなった。
「蒼」
ドキドキしながら目を閉じた。藤也さんの声がそういう声に聞こえたからだ。
「上出来だ」
そう言った藤也さんがチュッとキスをする。
「ここからは恋人の時間だ」
「でも、まだ昼間だよ」
お昼ご飯を食べたのはついさっきだ。それに藤也さんには仕事が残っている。仕事をしないとまた高宮さんに怒られる。
「高宮のことは気にすんな」
「でも、」
「大丈夫だ。なんだ、それとも一丁前に焦らしプレイか?」
「そ、そんなことしないし」
「それともここでするか?」
「ここ……」
ニットの上から胸のあたりを撫でられて「んっ」とえっちな声が出てしまった。まさかこのままソファの上でするつもりだろうか。
「し、しないから」
「俺はどこでもいいぞ」
「だ、だってここ、ソファだよ?」
「こういうところでするから興奮するんじゃねぇか」
「べ、別にソファじゃなくても興奮するし」
そう答えたら藤也さんがため息をついた。「おまえ、わかってて煽ってんじゃねぇだろうな」と言いながら立ち上がったかと思えば軽々と俺を抱きかかえた。
「と、藤也さん」
「恋人をベッドに運ぶのも俺の役目だ」
「でも、」
「まだまだ軽いな」
そう言われて口を閉じた。藤也さんがまだ俺のことを心配しているのには気づいている。こうやって抱き上げるのは体重を確認するためで、ベッド以外でも体に触るのはどのくらい肉が付いたから調べるためだ。
「ちょっとは太った」
「そうか? たしかに肋は消えたがまだまだだろ」
「……」
「おまえがふくれっ面しても可愛いだけだぞ?」
「いまはちゃんと食べてるし」
「おまえ、まだ魚嫌いだからなぁ」
「もう嫌いじゃない」
「鰻は好きだな」
「……あなごも食べる」
「どっちもタレが好きなだけじゃねぇか」
そう言って藤也さんが笑った。笑っている藤也さんを見るとドキドキするけど安心する。藤也さんにはこうやっていつも笑っていてほしい。
そのためにも俺は早く大人になりたいと思っている。大人になって役に立つために勉強もするようになった。今日買った英語の本もそのためで、ほかにも「大検」というものを取るために高校の勉強を始めたところだ。教えてくれるのは藤也さんと高宮さんで、この前の模試では二人が褒めてくれるくらいの点数を取ることができた。
(早く大人になりたい)
大人になって藤也さんの手助けがしたい。藤也さんの役にたくさん立てるようになりたい。
「タレより藤也さんのほうが好きだし」
なんとか言い訳したくて、ついそんなことを言ってしまった。とんでもないことを言ったことに気づいて顔が熱くなる。
「ほんと、おまえは可愛いよ」
かわいいと言われるのはうれしいけど、やっぱり恥ずかしい。
「さて、熱々になった蒼を美味しくいただくとするか」
寝室に入るとポフンとベッドに転がされた。そうしてかっこいい藤也さんがのし掛かってチュッとキスをする。俺はもっとキスがしたくて大きな体に思い切り抱きついた。