16 救出
何かが壊れる音がした。ドンと大きなものがぶつかるような音もしている。俺は必死に瞑っていた目をそっと開けた。……スマホを持っていた男がいない。もう一人もいない。目の前にいた黒と金色の髪の男は後ろを向いていた。
「おまえは紫堂んとこの狂犬、……ぐがっ」
「汚い口を開くな」
「ひっ、な、なんでおまえが……。こんなガキのために、なんでおまえが出てく」
「黙れ」
離れたところにスマホを持っていた男が倒れている。もう一人もその隣で仰向けに転がっていた。俺の顎を掴んでいた男は目の前で顔を蹴られた。何か言おうとしていたけど、口が変なふうに曲がってパクパク動いただけだった。
「遅くなった」
目の前に金髪の人がいる。ボスの後ろにいた人だ。
「静流!」
手足をグルグル巻きにしていたテープを金髪の人が取っていると、壊れたドアのほうから声がした。大好きな声なのに、俺の体はビクッと震えて強張った。
「……外で待っていてくださいと言ったはずですが」
「うるせぇ。ここまで来てんのに待ってられるか」
ズンズン近づいてくるのはテレビで見たときと同じスーツを着た藤也さんだ。その藤也さんが見たことがないくらい怖い顔をしている。怖い顔のまま目の前にしゃがみ込んだ。
(すごく怒ってる)
目がつり上がっているとか怒鳴るとかなくても、見たことがないくらい怒っているのがわかった。
(……俺が部屋を出たからだ)
ボスが来たとき、勝手に部屋を出たことを怒っていた。俺は部屋を出たらダメだったのにまた出てしまった。しかも敵対する事務所に人に捕まってしまった。金髪の人がいるってことは綺麗なボスも俺が捕まったことを知っているということだ。
(藤也さんにもボスにも迷惑をかけた)
役に立たないどころか迷惑をかけてしまった。こんな役立たずの俺のことをみんな怒っているに違いない。
(な、殴られる……!)
ギュウッと目を瞑った。藤也さんに怒られると思ったら、それだけで体の震えが止まらなくなる。ムコウジマに連れて行かれるのと同じくらい、それよりもっと怖くて歯がカタカタし始めた。
(きっと怒られて殴られて……役立たずだからって捨てられるんだ)
そばにいていいって言ってくれたのに俺はまた失敗してしまった。役立たずで失敗ばかりの俺はきっとまた捨てられる。お母さんがそうしたように、また俺は捨てられるんだ。
(怖い、怖い、怖い……!)
腕も足も真冬のときのように冷たくなった。涙も鼻水も出て顔もグチャグチャだ。俺は「ひっ、ひっ」と引きつったような声を出しながら目を瞑った。奥歯を噛まないと、声を出さないように唇も噛まないと……わかっているのに口に力が入らない。「ひっ、ひっ」と変な声も止まらなかった。
藤也さんの手が伸びてきた。殴られると思って目を瞑り、震える体をぎゅうっと小さくする。
「怖かったな」
そう言った藤也さんが頭をポンと撫でた。
「よくがんばった」
またポンポンと頭を撫でてくれる。いつもどおりの藤也さんの声にそっと目を開けた。顔を上げると不思議な色の目はいつものように俺を見ている。
「もう大丈夫だ」
大きな手がギュッと抱きしめてくれた。そうしてポンポンと背中を撫でてくれた。
「……と、や、さん」
「もう大丈夫だ。もう怖くない」
「藤也さん……っ」
「大丈夫だ」
気がついたら俺のほうからギュッと抱きついていた。まだブルブル震えている腕で必死に背中を抱きしめる。怖くて怖くて……ようやくホッとした。
(二度と藤也さんに会えないかと思った)
こんな俺なんか捨てられて当然なのに藤也さんはそうしなかった。それどころかわざわざ迎えに来てくれた。大丈夫だと言ってくれた。藤也さんがいれば、もう何も怖くない。
「後の処理はこちらでしておきます」
「わかった。……蒼、ちょっと待ってろ」
藤也さんが離れていく。温かくて大きな藤也さんの体が離れたらまた怖くなった。
(……大丈夫。藤也さんは待ってろって言ったんだ。だから待っていればいいんだ)
またカタカタ震え出した体を自分で抱きしめる。
「蒼をここに連れて来たのはこいつか」
「三玄茶屋の五番手ですね。ここともう一つを根城にしていたようです」
「なんだ、下っ端じゃねぇか」
「五番手ではありますが会長の愛人の子どもだそうですよ」
「なるほど、ジジィのおかげで好き勝手してたっていう典型的などら息子か」
「藤也さん!」
金髪の人が大きな声を出した。びっくりして藤也さんを見ると、俺の顎を掴んでいた男のお腹をすごい勢いで踏んづけていた。
聞いたことがない音がして、聞いたことがないような声がした。お腹のあと、俺の顎を掴んでいた右手を二回踏んづけた。何かが潰れるような音がして、やっぱり聞いたことがない声がした。それから変な形になった顎をピカピカの靴で蹴った。鈍い音がして、今度は聞いたことがないような声はしなかった。
「藤也さんが直接手を出されると困るんですが」
「うるせぇ。さっさとこいつらを潰せねぇ藤生が悪いんだろうが」
「それはごもっともですが……いえ、これだけで済んだんですからまだマシってことですね」
「紫堂の狂犬が何言ってんだ」
「俺はもう狂犬じゃありませんよ」
「あー、わかってるよ。おまえが狂犬になるのは藤生のためだけだろうからな」
「あなたこそ、ソウくんのためなら昔の片鱗を見せるってことですね」
「片鱗もクソもねぇだろ」
「たしかに。昔のあなたならとっくにこいつらの命はないですね」
「おい、蒼の前で物騒なこと言うな」
少しだけ怒ったような声を出した藤也さんが戻ってきた。必死に自分を抱きしめていた俺の腕ごとまた抱きしめてくれる。それから少しだけ離れて、今度はスーツの上着をかけてくれた。
(……そっか、シャツ、破れたんだった)
真っ白なカーディガンもグチャグチャにされてしまった。思わずカーディガンを見たら「また買ってやる」と藤也さんが言った。
「表も裏も大丈夫だそうですから、いまのうちに出てください」
「わかった。あぁ、そっちに転がってるスマホ、ぶっ壊してデータの行方も壊しとけ。どんな映像でも俺以外の手元にあるのは腹が立つ」
「わかりました。ほかには?」
「その三人、殺すなよ」
「というと?」
「どんな穴でもいいからほしいって輩はどこにでもいる。中東あたりじゃ傭兵の性欲処理用の穴が足りねぇって話だ。売れば昼飯代くらいにはなるだろ」
「わかりました。手配しておきます」
金髪の人と話していた藤也さんが「しっかり捕まってろ」と言って俺を抱き上げた。びっくりした俺は慌てて藤也さんのシャツを掴んだ。
(大人しくしてないとダメだ。ダメだけど……)
シャツを掴んでいた手をそぅっと動かす。そうして藤也さんの首に回すと「いい子だ」と言っておでこにキスをしてくれた。