15 絶体絶命
「急に姿消しやがって、探してたんだぞ?」
「……」
「ちょうどタカシの野郎がとっ捕まったときだったからな。誰がチクりやがったんだと思ってたんだが、まさかお前だったとはなぁ」
「……」
「おまえが紫堂の事務所から出て来るのを見てんだよ。大方、チクった礼でももらったんだろ? 紫堂んとこの坊ちゃんは子どもに優しいって話だからなぁ」
「……」
「あれからアパートに戻ってねぇってことは、かくまってもらってたのか? あぁ、そういや紫堂の坊ちゃんはバイだって噂だったな。ってことはイロにでもなったか。そういや高級車に乗せられてたっけか」
「……」
「ハッ! 見た目がいくらお綺麗でも、こんなガキをイロにするなんざただの変態じゃねぇか。紫堂んトコも変態がアタマじゃあお先真っ暗だな」
荷物運びの仕事を教えてくれた男に捕まった。捕まって事務所に連れて来られてしまった。綺麗なボスの事務所と違って三人しかいないけど、たぶん事務所で間違いない。
俺を床に座らせた男はいやな笑い方をしている。後ろにいる二人も同じように笑っていた。
(ボスを馬鹿にしてるってことは敵対する事務所の人なんだ)
俺でもそのくらいのことはわかる。だからボスが馬鹿にされても何も言わなかった。こういうとき何かしゃべれば殴られる。そのことを俺はよく知っていた。それに俺が何か話せば藤也さんにも迷惑がかかる。
(……俺、これからどうなるんだろう)
もしも俺が事務所の人間だったら、殴られて蹴られて最後は川か海に捨てられる。そういうのを見せしめというんだ。もし俺が偉い人ならボコボコにしてからボスの事務所に連れて行くに違いない。そうして俺と何かを交換する。
でも俺は事務所の人間じゃない。偉い人でもない。なんでもない俺はどうなるんだろう。
(怖い……だけど、絶対に何もしゃべるもんか)
しゃべったらボスに、それに藤也さんにも迷惑がかかる。
「オイ、聞いてんのか!」
「……っ」
俺が何も言わないからか男が怒鳴った。近くにあった机をガン! って蹴って、また「聞いてんのかって言ってんだろうが!」と怒鳴る。怒鳴った男の後ろに座っていた二人が立ち上がった。そのまま俺に近づいてきて、お店にいたサングラスの人たちみたいな目で俺を見下ろしながら笑っている。
「痛い目を見ないとわかんねぇようだなぁ」
荷物運びの話をした男がニヤニヤ笑いながらそう言った。その声に別の声が重なった。
――痛い思いをするのはおまえの母親のせいだからな。
そう言いながらあの人は俺を殴った。「痛い」と言ったら「うるせぇ」と言って殴った。「うぅ」と呻いたら、また殴られた。それが毎日毎日続いた。
(また殴られる……また毎日殴られるんだ……怖い、怖い、怖い!)
体がガクガク震え出した。あのときのことを思い出して頭がグルグルする。あの人に殴られたことを思い出して急にあちこちが痛くなってきた。
(嫌だ……もうあんな怖い目に遭うのは嫌だ!)
殴られるのが怖い。それだけじゃない。本当は小さい頃からずっとずっと怖いと思っていた。
お店でサングラスの人たちを見るたびに怖くてたまらなかった。聞こえてくる怒鳴り声が怖かった。誰かを怒鳴る声が聞こえるたびにお皿を洗う手が止まった。悲鳴が聞こえるたびに逃げ出したくてしょうがなかった。
でも、怖いなんて言えなかった。言ってもどうしようもないとわかっていたからだ。だからガマンした。怖いものを見ても聞いても「これは怖くないんだ」と必死に思い込もうとした。何度も何度もそう思って……そのうち怖いのか怖くないのかわからなくなった。あの人に捕まったときもそうだった。怒鳴られても殴られても怖くないと必死に思い込んだ。そうしているうちに、いろんなことがわからなくなった。
いつの間にか怖いと思うことがなくなった。だからこういうことが平気になったんだと思っていた。でも、違った。
(怖い、怖い、怖い!)
怒鳴り声を聞くだけで体が震える。今度捕まったら二度と帰れない。あの部屋に……そうだ、もう帰ってもお母さんはいないんだ。
――お前がいるから母親はいなくなったんだよ。
そうだ、お母さんがいなくなったのは俺のせいだ。あの人がそう言っていた。俺が役立たずだからお母さんはいなくなったんだ。それなのに俺はいまも役立たずのままだ。
(このままじゃ藤也さんにも捨てられる)
そうなったら俺にはもう誰もいない。俺は一人ぼっちになってしまう。
「へぇ、泣き顔は悪くねぇな」
しゃがみ込んだ男が俺をじっと見ている。男は黒色と金色が混ざった頭で細い目をしていた。耳には太いのや細いのや、いろんな形のピアスがついている。口にも丸いピアスがついていた。首には金色とか銀色のネックレスがジャラジャラしている。
「紫堂のイロか……。そうだなぁ、ちょっくら味見してみるか」
「アニキ、いいんですか?」
「どうせ何人もいるイロの一人だろ。しゃべらねぇってんなら、代わりにこっちの損害分を体で払ってもらうのが筋ってもんじぇねぇか?」
ニヤニヤしている男の後ろで、二人が「それもそうっすね」と笑っている。
(体で払う……俺、お店のお姉さんたちと同じことさせられるんだ)
お腹の奥がヒュッと冷たくなった。俺はこれから目の前の男にセックスされるに違いない。逃げなきゃと思っているのに足を動かすことも嫌だということもできなかった。
男の手が伸びてきた。俺は目をギュッと瞑ることしかできなかった。
藤也さんが買ってくれたカーディガンが床の上でグシャグシャになっている。藤也さんの写真が載っていた雑誌は、床に放り投げられたあとグシャッと踏みつけられた。
それでも俺は何も言わなかった。しゃべったら殴られるとわかっていたからだ。それに一回でも声を出せばボスのことを、もしかしたら藤也さんのことも言えと殴られるかもしれない。たくさん殴られたらしゃべってしまいそうな気がした。そんなことは絶対にしたくない。そう思って必死に奥歯を噛んだ。
「ただのガキのくせにしぶてぇなぁ」
「さすが紫堂のイロですね」
「こんなガキでも自分がボスのイロだってプライドがあるんでしょうよ」
ニタニタ笑う顔が気持ち悪い。本当は藤也さんが買ってくれた服を踏みつけた足を蹴り飛ばしたかった。雑誌を踏みつけた足に噛みついてやりたかった。だけどそんなことができるはずもない。そんなことをしても殴られて終わりだ。悔しくて怖くて体がブルブル震えた。目の前がグルグルして頭がガンガンしてくる。
「アニキ、味見した後どうすんスか? 紫堂にばれると面倒くさいですぜ」
「そうだなぁ」
真ん中でニタニタしている男が、指輪を何個も付けている手で俺の顎をグイッと持ち上げた。
「躾ければ高く売れるかもしれねぇなぁ」
「そういや最近じゃ男も人気だって聞きますね」
「欧米じゃ東洋人の子供は金になるって話ですぜ」
「ははっ、変態ってのは万国共通ってこったな。ま、メスガキよりは頑丈だろうし、その分いろんなプレイが楽しめるってことだろうよ」
「いくら中出ししても面倒はありませんからね」
「違いねぇ」
いまの話はなんとなくわかった。セックスしたあと俺を外国に売るってことだ。お店の奥でサングラスの人たちがそんな話をしていたことを思い出した。事務所にはルートがあって、臓器以外にも人を売ることがあると言っていた。そういうのを「人身売買」ということも知っている。
(嫌だ、そんなの絶対に嫌だ)
外国に売られたら二度と藤也さんに会えなくなる。嫌で嫌で、怖くて怖くて吐き気がした。
「さぁて、どんな具合か体から見てみるか」
「っ」
シャツを思い切り引っ張られてボタンが飛んだ。これも藤也さんが買ってくれたものなのに……そう思ったら悔しいのと怖いのとで気持ちがグチャグチャになった。それでも声を出したら殴られると思って必死に奥歯を噛み続ける。
「なんだ、やけに痩せっぽっちじゃねぇか。こんなんでよくイロなんて……」
声が止まった。顎を掴んでいた男がじっと俺を見ている。でも見ているのは顔じゃない。ボタンが飛んではだけた胸だ。
「アニキ、どうしたんスか?」
後ろにいた男が目の前の男を見て俺を見た。隣にいる男も不思議そうな顔をしている。
「アニキ?」
「この痕、もしかして……」
「痕……あぁ、火傷の痕ッスね。いまどき根性ヤキなんて流行らねぇッスよ」
「そうじゃねぇ。この痕、見たことある。……そういえばこの顔……」
顎を掴む手の力が強くなった。顎の骨がギシギシする。痛くて声が出そうになり、慌てて唇を噛んだ。
「……やっぱり」
「アニキ、何なんスか?」
「こいつ、例のガキだ」
「例の……?」
「向嶋の坊が一時期探してただろ。そこそこの懸賞金だったはずだ」
「……あぁ!」
「でも、その話はとっくの前になくなったって聞きましたよ?」
「ケリがついたらしいからな。本人がそう話してるのを聞いた。そんとき坊からこいつの顔とこの火傷の痕を見せられたんだよ。そんなもんスマホに撮って何やってんだかと思ってたんだけどなぁ」
「ってことは、用済みってことッスよね?」
「用済みなのは坊だけかもしれねぇぞ」
「どういうことッスか?」
「父親のほうは違うかもしれねぇってことだよ」
顎を掴んでいた男がニタァと笑った。その顔があの怖い人に見えて「ひぃっ」と掠れた声が漏れる。
「向嶋はウチより小せぇが金を持ってる。親父もお近づきになりたがってた。こいつを向嶋のオヤジに差し出せばツテができるかもしれねぇ。そこでうまく丸め込めりゃ兄貴たちに馬鹿にされることもなくなる。親父にだって自慢できる」
「マジっすか!」
「いいもん拾いましたね」
男たちがニヤニヤ笑っている。俺は吐きそうになりながら必死に奥歯を噛んだ。
(ムコウジマは知ってる。あの人がいたところだ。あの怖い人のところに連れて行くつもりなんだ)
二度と顔を見せるなと言われたのに、またあいつに会うんだ。またあの毎日が戻って来る、そう思ったら「嫌だ」と勝手に声が出ていた。
「い、嫌だ」
顎を掴んでいた男の手を叩いた。
「てめぇ、何しやがる」
「嫌だ、行きたくない」
「っせぇぞ。おまえに選択肢なんかねぇんだよ」
「い、嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ!」
「逃げてんじゃねぇぞ。つーか逃げられるはずねぇだろ」
男が怖い顔で足を掴んだ。俺は必死に足をバタバタ動かした。
(嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ!)
「チッ、面倒くせぇガキだな。おい、足押さえてろ」
「ッス」
必死に足を動かしたのにあっという間に捕まってしまった。足を掴まれたと思ったら今度は両手を掴まれる。「嫌だ」と言ったら「うるせぇ」と殴られた。殴られた瞬間、あの人を思い出して体が強張った。
「おい、縛っとけ」
「味見はどうするんです?」
「馬鹿野郎。もし向こうのオヤジがこいつを大事に思ってたら指詰めるくらいじゃ済まねぇだろうが」
「ッスね」
「もしいらねぇっていうんなら、それからでも遅くはねぇだろ。それにしても紫堂のやつ、こいつが誰か知っててイロにしたのか? ……いや、手懐けて交渉するつもりだったのかもしれねぇな。ってことは、向嶋は密かに手元に置こうって腹かもしれねぇ。本妻の手前、坊のやることに口は出さなかったが……ってところか」
「嫁に頭が上がるらねぇってことですか?」
「ばぁか。あそこの組はいま本妻の親父が会長だろうがよ」
話しながら男たちが足をテープでグルグル巻きにした。嫌だと振り回した両手を捕まえると、背中に回して同じようにグルグル巻きにする。
「おう、一応動画撮っとけ。傷モノにしてねぇ証拠になんだろ」
「ッス」
男が俺にスマホを向けて何かし始めた。何もかもが気持ち悪くて怖くて吐き気がして、目の前が真っ赤になる。
「い、やだ、さわ、な、嫌だ、触るな、嫌だ……!」
「うるせぇぞ、クソガキが!」
殴られる! そう思ってギュッと目を閉じたときだった。
ガシャン!
少し離れたところで大きな音がした。