13 ほしいもの
五日ぶりに藤也さんと“専用”の練習することになった。
(練習っていってもキスだけなんだろうけど)
本当は本番の練習をしたい。でも俺からそんなことを言うことはできない。
(でも、この前はベロチューだったから今日は……)
ちょっと想像しただけで顔が熱くなってきた。本当はお湯に浸かって五十数えるまで出たらダメなんだけど、あんまり熱いから早口で数えてお湯から出る。
お風呂から出たらいつもどおり藤也さんが待ち構えていて髪を乾かしてくれた。今日は遅めの時間のお風呂だったから、そのまま並んで歯磨きをして寝る準備もする。
寝室に行って、藤也さんが持って来てくれた水を飲んだ。飲み終わると藤也さんが俺の顎を掴んで、俺が目を瞑る。
ふに。
最初はいつもこんな感じで唇がくっつく。それが気持ちよくて顔がへらっとにやけそうになった。そのままじっとしていると何回もくっついたり離れたりした。
(……あ、そろそろかな)
藤也さんがペロッと俺の唇を舐めた。これがベロチューの合図だ。緊張しながら口を少し開けると藤也さんのベロが口の中に入ってくる。唇より熱いベロがぐるっと口の中を舐めた。
(うぅ……)
口の中がビリビリする。刺激が強すぎて気持ちいいのかどうかわからない。でも、俺はベロチューが好きだ。藤也さんに口の中も可愛いって言われているみたいで背中がソワソワする。
「ん、」
耳の裏を指で撫でられて声が出た。まるで自分のものじゃないみたいな高い声は恥ずかしくてしょうがないけど、我慢するなと言われたから我慢しないようにしている。
「んぅ」
藤也さんのベロが俺のベロをぐにぐにし始めた。それと一緒に耳やうなじをスリスリ撫でられてお腹がゾワゾワし始める。ベロチューと一緒に耳とか首とか撫でられるのは好きだ。気持ちがよくて頭がフワフワしてくる。
(……でも、ベロチューだけで藤也さん専用になれるのかな)
キスをするとき、いつもこのことを考えてしまう。何回も考えるけど答えはわからない。てっきり風俗店のお姉さんたちみたいなことをするのが“専用”だと思っていた。それなのにベロチューしかしないのはどうしてだろう。藤也さんに聞けばいいんだろうけど、練習のことと同じで聞くことはできなかった。
結局この日もベロチューで終わってしまった。ふにゃふにゃになった俺に「可愛いな」と笑った藤也さんが頭をポンと撫でる。それから抱き上げて部屋まで連れて行ってくれる。
「しっかり寝るんだぞ」
フワフワの掛け布団の上からポンポンと撫でると藤也さんが部屋を出て行った。
(何もしなくていいから一緒に寝たかったな)
そんなことを思いながら体を丸くして眠った。
次の日も俺はいつもどおりの時間に目が覚めた。起きたら着替えて顔を洗って、藤也さんが作ってくれた朝ご飯を食べる。朝八時半に出かける藤也さんを見送ってから食器を洗い、洗濯機のスイッチを押してロボット掃除機で掃除をする。今日は布団乾燥機を使う日で、掃除機が動いているのを避けながら藤也さんの布団と自分の布団をフカフカにした。
(全部終わってしまった)
前は午前中だけで終わらなかったことも、いまではあっという間に終わってしまう。いいことなんだろうけど、ほかにやることがない俺は暇でしょうがない。「本……って気分じゃないしなぁ」と思っていたら乾燥が終わった音がした。
やることができてよかった。洗濯物をカゴに入れてリビングに持っていく。そうして一枚ずつ丁寧にたたむ。
(本当はアイロンも使えるようになれればいいんだけど)
藤也さんに言ってみたけど、まだダメだと言われてしまった。火傷するからって理由だったけど、なんとなく胸の傷を気にしてそう言ったんじゃないかと思っている。
俺の鎖骨の少し下にはタバコの火を何回も押しつけられてできた火傷の痕がある。やったのは俺を捕まえたあの人で、たぶん五回くらいは押しつけられたんじゃないだろうか。そのせいで皮膚は黒ずんで引きつってしまった。その痕を見るたびに藤也さんは顔をしかめた。
(だからキス以上のことをしないのかもな)
鏡で見た傷痕はすごく汚かった。こんな痕がある俺に藤也さんが興奮しないのもわかる。このままじゃ藤也さん専用になれない気がするけど、藤也さんは何も言わない。
(せめて俺がもっと役に立てるようになれたらいいのに)
最近の藤也さんは少し疲れている気がする。もし俺が大人で頭も悪くなかったら何か手伝えたはずだ。そうできない自分が嫌になってくる。
丁寧にたたんだ洗濯物を持って藤也さんの寝室に入った。クローゼットに綺麗に仕舞ってから自分のものを部屋に持って行く。
(……また増えた気がするけど、気のせいかな)
クローゼットを開けると隙間がないくらい服が並んでいた。もちろん俺が買った服じゃない。全部藤也さんが用意してくれたものだ。
(こんなにたくさん必要ないのに……)
ここに来る前は長袖三枚と半袖が五枚、それにズボンが二枚と上着が一枚だけだった。それで十分だったのに、部屋から出ないいまのほうがたくさんになってしまった。
(そういえばそろそろ冬物を買うかって言ってたっけ)
ようやく暑い夏が終わって秋になった。部屋の中は快適だからシャツ一枚で平気だけど、外は上着を着たほうがいい感じになってきている。
(服以外にもこういうのまで買ってくれるし)
俺の右手には薄いピンク色のアクセサリーが巻きつけてある。これも藤也さんがくれたものだ。綺麗なピンク色の紐に銀色のビーズみたいなものがいくつか付いていてとてもオシャレだと思う。本当は紐を二重にするらしいんだけど、俺の手首が細くて三重になってしまった。
こういうアクセサリーを身に着けるのも初めてだ。いままでオシャレしたいと思ったこともしようと思ったこともない。お金がなかったし、オシャレしても見せる相手がいなかったからだ。でもいまは藤也さんがいる。たくさんの服はいらないけど、もらった服を着るとうれしそうな顔をしてくれるのがうれしい。うれしそうに俺を見る藤也さんの顔も好きだ。
(俺、相当藤也さんが好きだよな)
自分でも笑ってしまうくらい藤也さんが好きだ。しかも毎日どんどん好きになっている。同じくらい好きになればなるほど不安にもなった。もし藤也さんがいなくなったら、もし会えなくなったら、そんなことを想像しては嫌な気分になる。
もらったアクセサリーを指先で撫でた。「絶対になくすな、いつもつけてろ」と言われたから、お風呂のときも寝るときも外さないようにしている。もし会えなくなっても藤也さんのことを思い出せる大事な宝物だ。
(そろそろ料理番組が始まる時間だ)
時計を見たら毎日見ている料理番組が始まる時間になっていた。料理はまだダメだと言われたけど、いつか作ってみたくて料理番組を見るようになった。「今日は何の料理だろう」と思いながらテレビをつけた俺は、画面に映った人を見てびっくりした。
「え? なんで?」
画面に藤也さんが映っている。一瞬、見間違いかと思った。でもそうじゃない。朝見たのと同じ綺麗なグレーのスーツに濃いグレーのシャツを着ているのは藤也さんだ。赤色っぽいけど赤じゃない、なんとかって色のネクタイも同じだ。部屋にいるときと違って前髪を少しだけ上げているのも朝見たままだった。テレビに映っているのは藤也さんで間違いない。
(……やっぱりかっこいいな)
朝見た藤也さんもかっこよかったけど、テレビの中の藤也さんもかっこいい。どうしてテレビに映っているのかわからないまま、俺はドキドキしながら必死にテレビを見た。でも何を言っているのか難しすぎてよくわからない。
(アイティー……ベンチャー……サキモノトリヒキ……)
聞いたことがない言葉ばかりだ。せっかくテレビに出ているのに藤也さんの言葉がわからないなんて情けなくて自分が嫌になる。
――ボルドーのネクタイがすてきですね。
藤也さんの隣に座っているお姉さんの言葉で、ネクタイの色の名前を思い出した。
――発売されたばかりのこちらの雑誌ですが、さっそく注目されているそうですよ。
そう言ったお姉さんが雑誌を取り出した。
(藤也さんが載ってる雑誌……?)
テレビに大きく映ったページにはかっこいい藤也さんの写真が載っていた。
――今日発売とのことですが、きっとすぐに売り切れますね。
そう言ってニコニコ笑っているお姉さんに、藤也さんが「経済雑誌ですよ」と笑い返した。その声を聞きながら、俺はテレビに映っている雑誌の藤也さんをじっと見た。
(いいなぁ)
かっこいい藤也さんが載っている雑誌なら俺もほしい。毎日藤也さんを見ているけど、それと写真は別だ。写真があればいつでも藤也さんを見ることができる。
(そうだ、写真があれば会えなくなっても毎日見ることができる)
もしお母さんみたいに急にいなくなっても写真があれば毎日会える。もちろん藤也さんが急にいなくなるなんてことはないと思っている。でも未来がどうなるかなんて誰にもわからない。俺だってお母さんが突然いなくなるとは思っていなかった。
(それに事故でいなくなることだってあるかもしれないし)
病気でいなくなることがあるかもしれない。いつ会えなくなるかなんて誰にもわからない。
(……雑誌、買わないと)
テレビに映っている雑誌がほしくてたまらなくなった。そうだ、お母さんの写真が入ってるパスケースに入れて持ち歩こう。そうすればいつでも藤也さんの顔を見ることができる。
(売り切れるって言ってたよな)
お姉さんの言葉を思い出して焦った。でも、どこで買えるのかがわからない。本屋にならあると思うけど、近くに本屋があるのかもわからなかった。
(そうだ、コンビニがある)
コンビニならきっと近くにあるはずだ。コンビニさえ見つけられればきっと買える。
(でも、お金が……そうだ)
最後に荷物を運ぶ仕事をしたときのお金がカバンに入ったままだ。急いで部屋に行ってクローゼットの中に頭を突っ込んだ。二度と使わないと思っていたクタクタのカバンを引っ張り出して、ファスナーがついているポケットに手を突っ込む。
「……あった」
引っ張り出した封筒を開けると五千円が入っていた。
(これで買えるかな)
藤也さんが載っている雑誌がいくらするのかわからない。五千円で買えるだろうか。
(……とにかくコンビニに行こう)
俺はニットのカーディガンを着てからズボンのポケットに五千円を突っ込んだ。そのまま部屋を飛び出して玄関に向かう。玄関には俺が履いてきた靴はなかった。クタクタだったから藤也さんが捨てたのかもしれない。代わりに真っ白のスニーカーが置いてあった。藤也さんの靴よりずっと小さいから、たぶん俺の靴だ。
(藤也さんが買ってきてくれたんだ)
初めて履いたその靴は、足にぴったりだった。
(早くコンビニ探さないと)
俺は急いで玄関を出てエレベーターに乗り、走ってビルの出入り口に向かった。