12 誕生日が過ぎて
誕生日から三週間が過ぎた。俺は今日も藤也さんと一緒に朝ご飯を食べ、出かける藤也さんを見送ってから食器を洗う。それが終わったら藤也さんの部屋で洗濯物を回収し、俺の洗濯物と一緒に洗濯機に入れてからスイッチを押す。乾燥が終わるまでの間に掃除もしてしまおうと思ってロボット掃除機のスイッチを押した。そうしてから空気の入れ換えをするために窓を開ける。
(空気清浄機があるから本当はやらなくていいのかもしれないけどさ)
でも、やらないよりはやったほうがいい気がする。九月になっても外はまだまだ暑い。部屋の中は冷房が効いているから暑いことを忘れそうになる。外のもわっとした空気に、去年は暑くて大変だったなぁと思い出しながらほかの窓も開けた。
床はロボット掃除機に任せて、俺はテレビや棚のホコリ取りをする。といってもハンディなんとかというやつで拭くだけだ。それが終わる頃にはロボット掃除機も元の場所に戻っていて、窓を閉めながら「俺、ちゃんと役に立ってるかなぁ」なんてことを考えた。
(……あんまり役に立ってない気がする)
そんな俺なのに藤也さんは褒めてくれる。
「ちゃんと話すようになって蒼は偉いな」
褒められたことを思い出すだけで顔がにやけた。
(そういえば、たくさん話すようになってからあんまりつっかえなくなった気がする)
誕生日が過ぎて一週間くらいは、自分で聞いても嫌になるような話し方しかできなかった。でもいまはそんなにつっかえたりしない。あんなに苦手だった考えることも、少しだけできるようになった気がする。
最近はテレビもよく見るようにしている。テレビでいろんな言葉を覚えると、しゃべるのがうまくなるような気がしたからだ。本はまだあんまり読めないけど、そのうち読むのが楽しくなるといいなぁとは思っている。
俺がこうなれたのも全部藤也さんのおかげだ。藤也さんがいろんなことを教えてくれるから俺はいろんなことができるようになってきた。それがうれしくて、もっといろんなことをしたいと思うようにもなっている。
(そろそろお昼の天気予報の時間だ)
これだけは毎日見逃さないようにしている。天気予報を見てどの入浴剤にするのか決めるためだ。
――今日は今季最高気温になるでしょう。
天気予報の言葉にハッとした。九月は真夏じゃないけどまだまだ暑い。この前も最高気温を更新したところがたくさんあると言っていた。こういう日は熱中症になりやすいことも知っている。
(あのときの俺、たぶん熱中症だったんだろうな)
一年前、誕生日が過ぎた頃に俺は裏道で倒れてしまった。あの日もすごく暑かった。頭がボーッとして手足も痺れてきて、気がついたらビルの横にあるゴミ置き場に転がっていた。もし知り合いのお姉さんが見つけてくれなかったら、あのまま裏道の端っこで死んでいたかもしれない。
病院には行かなかったから本当に熱中症だったのかはわからない。でもテレビで見た熱中症の症状によく似ている気がする。しばらく食欲がなくて水も飲めなかったけど、お姉さんたちが看病してくれたおかげで三日後には部屋に帰ることができた。
(最近ずっと暑いって天気予報で言ってるけど、藤也さん大丈夫かな)
もし藤也さんが俺みたいに倒れたらどうしよう。そんな想像をするだけで怖くなる。
(もし藤也さんが倒れて、それでいなくなったら……そんなの絶対に嫌だ)
お母さんがいなくなったとき、怖くてぎゅうぎゅうに丸くなって眠った。何度も丸くなって寝ていたら起き上がれるようになった。でも、藤也さんはダメだ。丸くなってもきっと怖いままだ。怖くて起き上がれなくなる。藤也さんがいなくなるかももと想像するだけで手が震えた。
(今日はスーッとする入浴剤にしよう)
少しでも涼しくなってほしい。藤也さんは「車と会社の往復だから暑くねぇよ」と笑うけど、テレビでは「屋内での熱中症に気をつけましょう」と言っていた。藤也さんが帰ってくるのはまだ何時間も後なのに、どうしても落ち着かなかった俺はパッケージの裏を何度も読んでから入浴剤を選んだ。
夕方、いつもどおりの時間に藤也さんが帰ってきた。玄関で顔を見たときはホッとした。そんな俺にいつもどおり「いい子で待ってたか?」と言いながら頭をポンと撫でてくれる。
夜ご飯はうなぎだった。うなぎを食べたのは初めてだ。もちろんうなぎは知っていたけど一生食べることはないと思っていた。
「うまいか?」
「おいしい、です」
「そりゃよかった」
「はい」
大きく頷いてからがぶりと齧り付く。
「そういや鰻は食べられるんだな」
「え?」
「おまえ魚、苦手じゃねぇか」
「そうですけど、でもこれ、おいしいから」
「あぁ、うまいな。俺も鰻は好物だ」
大きく口を開けて鰻を食べる藤也さんを見ながら「ウナギが好き」と頭の中でくり返す。藤也さんが好きなものがまた一つわかった。
(ウナギ、お酒、辛いものも好き)
逆に甘いものはあまり好きじゃないみたいで、俺にアイスやゼリーを買ってきても藤也さんの分はない。それでもやっぱり俺だけ食べるのは申し訳なくて、いつも一口あげるようにしていた。それを「ん、うまいな」と笑いながら食べる藤也さんの顔を見るのが好きだ。
(……好き)
藤也さんを好きだと思うだけで顔が熱くなった。そんな自分が恥ずかしくてウナギをガブッと食べる。食べながら、向かい側で食べている藤也さんをチラチラ見た。
おいしそうに食べる姿もかっこいい。そういえば藤也さんは魚を食べるのがすごく上手だ。食べ終わった後には頭と尻尾、それに骨しか残っていない。たまに頭も尻尾もないときがある。お箸を使うのも上手で、とにかく藤也さんは何をしてもかっこよかった。
(それに比べて俺は……)
かっこよくないのはしょうがないとして、あまり綺麗に食べられない。魚が苦手なのは骨があるからで、それに柔らかい皮もあまり得意じゃなかった。ぎょろっとした魚の目も好きじゃない。でも、最近は魚もたくさん食べるようにしている。藤也さんみたいに骨だけ綺麗に残るような食べ方ができるようになりないからだ。
(だって、大好きな藤也さんみたいな大人になりたい……から……)
また顔が熱くなってきた。部屋は冷房が効いているはずなのに体まで熱くなってくる。
「どうした?」
「え?」
「顔が赤いぞ?」
「え……っと、な、なんでもないです」
なんて答えたらいいのかわからなくてそんな返事になってしまった。そのままモグモグ食べる俺を藤也さんは笑いながら見ていた。
(俺がチラチラ見てること、絶対に気づいてる)
それに俺が藤也さんみたいになりたいと思っていることにもだ。どうしてか藤也さんは俺が考えていることがわかるみたいで、話す前に気づいていることが多い。
(俺なんかが藤也さんみたいになりたいなんて、こういうのを「分不相応」っていうんだ)
そんな気持ちを藤也さんに知られているのは恥ずかしい。
(……でも、俺は藤也さんみたいになりたい。かっこよくなれなくてもいいから、藤也さんみたいな大人になって藤也さんの役に立ちたい)
毎日そう思っているのに全然大人になれないままだ。それどころか段々ダメになってきている気がする。
(そもそも髪の毛乾かしてもらうなんて子どもがされることなのに)
誕生日の次の日から、なぜか藤也さんはお風呂上がりの俺の髪の毛を乾かしてくれるようになった。理由はわからない。「自分でできます」と言っても「俺の楽しみを奪うつもりか?」と言ってやめようとはしなかった。
(今日もするのかな……)
そんなことを思いながらご飯を食べ、藤也さんの後にお風呂に入った。全身ピカピカに洗ってからそぅっとドアを開けると藤也さんが待ち構えている。そうして裸の俺を見てから「少し肉がついてきたな」と言ってニヤッと笑った。
藤也さんは俺がガリガリなのを気にしている。たぶんここに来た何日か後にお腹が空きすぎて倒れたせいだ。あれは急にご飯を食べるようになったから体がびっくりしただけで、いつもならお腹が空いても倒れたりしない。
「ほら、座れ」
「は、はい」
バスローブを着ると、いつもどおり大きな鏡の前に座らされた。後ろに立った藤也さんが銀色のドライヤーのスイッチを入れる。このドライヤーは会社の人にオススメされたとかで、「いまはこういうのが流行りなんだってな」と言って使い方を読んでいた。
「おまえの髪、つやっつやになってきたなぁ。これもドライヤーのおかげか? それともよく食べるようになったからか?」
そんなことを言いながら藤也さんが左手で髪を梳かす。そうされると首の辺りがゾワゾワして落ち着かない気分になった。それでもじっとしていないとダメだと思って我慢する。
チラッと目の前にある鏡を見た。少し下を見ている藤也さんもかっこいい。それに動いている大きな手もかっこよかった。藤也さんはどこもかしこもかっこいい。
(ひぇっ)
俺がチラチラ見ているのに気づいたのか、藤也さんが鏡の中でニヤッと笑った。俺は慌てて俯いた。ドライヤーの熱が当たっているわけでもないのに顔が熱くなる。こうやってすぐに熱くなるのも恥ずかしくてしょうがない。
ドライヤーの音が消えた。片付けている鏡の中の藤也さんをチラチラ見る。気づかれたらまた笑われるとわかっているのに見るのをやめられない。
「どうした?」
「え? あ、ええと、なんでもない、です」
鏡の中の藤也さんがニヤッと笑った。耳まで熱くなった俺は慌ててそっぽを向いた。それでも近づいて来る藤也さんの気配を感じて心臓がバクバクする。膝に載せた手をギュッと握り締めると、耳元で「おまえは本当に可愛いな」と囁かれて「ひっ」と変な声が漏れてしまった。
「首まで真っ赤だぞ」
そう言ってうなじにチュッとキスをする。
「湯冷めしないうちに出て来いよ」
笑いながら藤也さんが洗面所を出て行った。
静かになったからか自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。ドキドキどころかドコドコと太鼓を叩くような音がする。そっと目の前の鏡を見た。自分でも「なんだこりゃ」と言いたくなるくらい顔が真っ赤だ。こんな姿を藤也さんに見られていたのかと思うと恥ずかしくてますます顔が真っ赤になる。
(俺……俺、藤也さんが好きだ)
そう思ったらもっと顔が真っ赤になった。ほっぺたより真っ赤になった唇を指先でそぅっと撫でる。
(俺、キスしたいって意味で藤也さんが好きだ)
どうしよう、藤也さんが好きでたまらない。前から好きだと思っていたけど、いまの好きはそんなものと比べようがないくらい大きくなっていた。
(でも、藤也さんは……俺のこと、どう思ってるんだろう)
いつも可愛いと言ってくれる。でも、それがどういう可愛いかわからない。もしかして俺と同じように好きでいてくれるのかも……なんて思ったこともあったけど「そんなことあるわけないか」とすぐに気づいた。
(だって藤也さんはすごい大人だ。かっこよくてなんでもできる完璧な藤也さんが、俺みたいな奴を好きになるなんてあり得ない)
きっと近所の子どもみたいに面倒を見てくれているだけなんだ。その証拠に大人になったのに「本番」をしてくれない。キスはするけど、それだけだ。もし俺のことが好きなら本番をするはず。しないということは……そういうことだ。
(俺は本番、したいんだけどな)
そう思っただけで体が熱くなった。お腹の奥が疼くような感じがして慌てて頭を振る。
「そういうのを抜きにしても俺は藤也さんの役に立ちたい」
赤くなった顔をどうにかしたくて、俺は冷たい水で何度も顔を洗った。