11 本番の練習
藤也さんが後片付けをしている間にお風呂の準備をした。準備といってもボタンを押して入浴剤を入れるだけですぐに終わる。入浴剤は柑橘系の香りがするスッとするものを選んだ。今日も天気予報では猛暑だと言っていたから、きっとこういうのが気持ちいいはず。
藤也さんが先に入って、入れ替わるように俺が入る。最初に頭を洗ってコンディショナーを使うのも忘れない。それからボディソープの泡をスポンジにたっぷり載せてから体をゴシゴシ擦った。こうして泡をいっぱいにして洗うんだと教えてくれたのは藤也さんだ。
(……お風呂から出たら本番の練習、するんだよな)
もちろん「本番」が何を指すかは知っている。俺の周りにはそういうお店で働いているお姉さんたちがたくさんいて、住んでいたアパートもそういったお店の近くにあった。お母さんもそういうところで働いていたから知らないはずがない。
(知っててボスに行くって言ったんだけど……相手が藤也さんだと思うと緊張する……)
もう一回洗っておいたほうがいい気がしてきた。泡を流し終わったところだけど、もう一度スポンジに泡をたっぷり載せてからゴシゴシ擦った。耳の裏も足の指の間も全部擦る。何度も擦ったからか、湯船に入ったら肌がヒリヒリして泣きそうになった。
(スッとする入浴剤のときは擦ったらダメなんだ)
ヒリヒリする体を丁寧に拭いてからお風呂を出た。パジャマを着ようとして棚を見たら置いていたはずのパジャマがない。下着もなかった。代わりに大きなタオルが置いてある。
(これって……バスローブだ)
お店にも置いてあったから知っている。客がお風呂を使った後に着るやつだ。取りあえず着てみた。バスローブが大きいのか俺が小さいのかわからないけど袖から指先しか出ない。洗面所にある大きな鏡を見るとブカブカすぎて笑えた。
(こんなんで練習、してくれるのかな)
興奮してくれないと本番はできない。こんな俺を見たら萎えるんじゃないだろうか。でも、このバスローブを用意したのは藤也さんだ。俺は気合いを入れるためにパンとほっぺたを叩いてから洗面所を出た。
部屋に行くと同じようにバスローブを着た藤也さんがソファに座っていた。それを見た瞬間、体がぶわっと熱くなった。心臓もドクンドクンして動けなくなる。
「どうした?」
「え……と、」
早くそっちに行かないとダメなのに足が動かない。
「少し大きかったか? それでもエスサイズなんだがなぁ。次の目標はエムサイズが着られる体になることにするか」
そう言いながら藤也さんが手招きしている。早く行かないと、そう思っているのにやっぱり足が動かなかった。
(早く行かないと……)
焦りすぎてますます体が動かない。緊張しすぎて体が変になっているのかもしれない。視線をウロウロさせていると「蒼」と呼ばれて耳がキーンとした。
「そんなに緊張するんじゃねぇよ」
気がついたら目の前に藤也さんがいた。
「あ、あの」
「ま、それだけ意識してもらえてるってんなら喜ばしい限りだが」
「お、俺」
「おまえは何も心配しなくていい。ほら、ポンポンしてやるから来い」
手を引かれてポフンと藤也さんの胸にぶつかった。そのまま大きな手が背中をポンポンと撫でてくれる。
「と、やさん」
「やっと名前を呼んだな」
言われて「そうだったかな」とぼんやりした頭で考えた。いつも藤也さんと呼んでいた気がするけど口に出していたか覚えていない。
「おまえはもっと思っていることを口に出せ。じゃなきゃさすがの俺も全部はわからねぇよ。わからねぇと一緒に考えることも助けてやることもできやしねぇ」
「お、れが、思ってる、こと」
「そうだ。つっかえてもいいから話せ。おまえが感じたこと、思ってること、考えてること、なんでもいいから俺に聞かせろ」
「で、でも、そんなの、め、迷惑だし」
「蒼のことを迷惑だなんて思ったりはしねぇよ。そんなふうに思うくらいなら最初からここに置いたりしないだろ」
藤也さんの言葉にドキッとした。迷惑だったらやっぱり追い出されるんだとわかって体がガチガチになる。
「おまえは本当にどうでもいいことにはよく頭が回るな。いいか、俺が蒼を追い出すことは絶対にない。絶対にだ。俺は嘘はつかない」
「……は、はい」
またポンポンと背中を撫でられた。
「俺はな、おまえが何を話してくれるか楽しみにしてんだよ」
「た、楽しみ」
「あぁ、楽しみだ。だからって無理に話す必要はねぇからな? 話したいときに話し、話したくねぇときには話さなくていい。だが、どうしていいかわからないときは絶対に話せ。何かを見聞きしてもだ。俺以外の誰かに何か言われても話せ。自分で判断できねぇことは隠すな、いいな」
「は、はい」
頷いたけど、俺はほとんどのことできっと判断できない。そのたびに話をするのは迷惑じゃないだろうか。
「心配すんな。おまえが一人でも判断できるように、これからいろいろ学んでいけばいい」
「……そ、そんなこと、俺、できるわけ、」
「やってみないとわかんねぇだろ」
「……でも、」
「心配するな。俺がそばで見ててやる」
「俺専用になるっていうのはそういうことだ」と耳元で囁かれて「ひぇ」と声が漏れた。耳の裏側がゾクゾクして足の力が抜ける。
「おかしな隠し事は絶対にするな。それから話すことが俺の迷惑だなんてことも考えるな。いいな」
「ひゃ、ひゃい」
耳元で聞こえる藤也さんの声がかっこよすぎて背中がブルッと震えた。必死に藤也さんが着ているバスローブを掴むと、「いい子だ」と言って腰をスルッと撫でられた。思わず「ひゃっ」と変な声が漏れたのに「可愛いな」と言って藤也さんが笑う。
「声、我慢するなよ」
「で、でも、声、変だって、い、言われて」
「俺が一度でも変だと言ったことがあったか?」
「い、言ってませ、」
「そうだ、俺が言っていない言葉は気にする必要はない」
耳たぶをかぷりと噛まれて、また「ひゃぅっ」と変な声が出た。
「いい声じゃねぇか。そのまま我慢すんじゃねぇぞ?」
「待っ、ひゃっ」
「待たねぇよ。据え膳待つなんて男じゃねぇだろ」
「すえ? んっ! ま、待って、と……や、さんっ」
藤也さんの手がバスローブの紐を解いた。重なっていたところがはだけて胸が見えてしまう。同じ男だから恥ずかしがる必要はないのに、藤也さんに見られていると思うだけで全身が熱くなった。
「ま、待って」
「だから待たねぇって……」
藤也さんの言葉が止まった。何も言わないけど胸のあたりを睨むようにじっと見ている。
「あ、あの」
もしかして俺が待ってと言ったから怒ったのだろうか。このまま本番をしないまま終わるんだろうか。
(そ、そんなの嫌だ)
本番をしないということは藤也さん専用じゃないってことだ。それじゃあ俺はまた役立たずに戻ってしまう。役に立たないなら追い出されてしまうかもしれない。
(……俺、また捨てられるんだ)
そんなことになったら今度こそ一人ぼっちになってしまう。どこにも居場所がなくなってしまう。
「と、やさん」
おそるおそる藤也さんの腕を握った。
「お、俺、ちゃんと声、だ、出します。だ、だから、やめないで。ほ、本番、するから、だから」
不思議な色の目が俺の目を見た。まるでビー玉みたいな目にドキッとした。
「お、俺……」
腕を掴んでいる手がブルブル震える。
「ったく、おまえは本当に危ねぇな」
いつもどおりの藤也さんの声にホッとした。ビー玉みたいに見えた目もいつもの綺麗な目に戻っている。
「簡単に体を差し出すような真似はするな」
「で、でも」
「俺が相手ならいい。だが俺以外にいまみたいなことは絶対に言うんじゃねぇぞ」
「は、はい」
顎をスルッと撫でられて首がぞわっとした。怖いわけじゃないのに首や背中がゾワゾワして落ち着かない。
「こんな胸糞わりぃもの付けられやがって」
そうつぶやいた藤也さんが鎖骨のすぐ下あたりを撫でた。
「これはタバコの火だ。しかもタチが悪いことに同じところに何度も押しつけていやがる。これじゃあひどい痕が残って当然だ」
タバコと言われてビクッとした。藤也さんが触っているところがジリジリと熱くなり、死ぬほど痛かったこととひどい臭いがしたことを思い出して体がブルブル震える。
変な声が漏れそうになって慌てて唇を噛み締めた。奥歯をグッと噛んでじっと我慢する。そうしないと殴られるからだ。
「大丈夫だ」
その声にハッとした。そうだ、ここにあの人はいない。俺の目の前にいるのは藤也さんだ。
「そのうちここも綺麗に治してやる。もう二度とこんな目には遭わせないから安心しろ」
「と……やさん」
背中に大きな手が当たって、またギュッと胸に押しつけられた。俺はおそるおそる藤也さんの背中に腕を回した。そのままバスローブの背中部分をギュッと握り締める。そんな俺の背中を藤也さんはトントンと撫でてくれた。