1 蒼(アオイ)
錆びだらけの階段の横を通り過ぎて、古いドアの鍵を開ける。
(鍵なんてしなくても、泥棒だって来ないような見た目だけどなぁ)
そんなことを思いながら玄関に入った。玄関は靴が三人分置けるかどうかの小さなコンクリで、クタクタの靴を脱ぎながら同じくらいクタクタのカバンを玄関脇にぽすんと置く。
小さな玄関のすぐ隣には小さな流し台があった。帰宅したらまずそこで手洗いとうがいをする。小さいときに「帰ったら手洗いとうがいをするのよ」と言われたのを俺はいまもきちんと守っていた。というより、お母さんに言われたことで俺が守れるのはこのくらいしかない。うがいをしたコップは食事のときも使うから、軽く洗って流しの横にある小さなコンロの上に置く。
(そっか。今夜はご飯、ないんだった)
パンやお菓子をくれるお店のお姉さんたちに会わなかったから、今日の収穫はゼロだ。それじゃあコップを洗っても意味がなかったなと思いながら、敷きっぱなしの布団の上にゴロンと寝転がった。
部屋の電気はとっくの昔に止まっているから夜になっても部屋の中は真っ暗だ。でも、すぐ近くに繁華街があるから窓の外はいつも明るくて困ることはない。それに夜やることなんてないから明るくても暗くてもどっちでもよかった。今夜だってこうしてすぐに寝転がっている。
目を瞑ると窓にポツポツと雨が当たる音が聞こえてきた。そういえば、お姉さんたちが「今年の梅雨入りは遅いよね」って話していたけど、もう梅雨になったんだろうか。テレビもスマホもないからわからない。
(傘、またどこかで拾ってこないとなぁ)
駅前で拾ったビニール傘は春の大雨で壊れてしまった。傘がなくてもなんとかなったけど、大雨が降る前には新しい傘を見つけないといけない。梅雨になると駅前やトイレに置き忘れの傘がたくさん出てくるから、そういうのを見つけて持って帰ろう。本当はいけないことなんだろうけど、せめてと思ってビニール傘しか拾わないことに決めている。
(明日も朝から仕事だし、帰りに探してみるか)
俺の仕事は荷物運びだ。隣駅に行く途中にある古いコインロッカーから荷物を回収して、それを四つ先の駅近くで待っているお客さんに渡す。荷物は手のひらに載るくらいの小さな箱で、とても軽い。鍵はロッカーの裏側や上に貼ってあって、開けると前回のバイト代が入った封筒と小さな箱が置いてあった。仕事は多くて週に二、三回、少ないときは月四、五回くらいだろうか。
仕事があるときは玄関にメモが挟んであるんだけど、さっきドアを開けるときにメモを見つけた。二日続けてなんて珍しい。届けるのは午前中の少し早い時間で、荷物を渡す相手は緑色のネクタイをしたスーツの男性だと書いてあった。お客さんはサラリーマンだったり大学生っぽい人だったり、ほかにも普通のおばさんだったりいろいろな人がいる。変わった仕事だなとは思うけど、荷物を届けるだけで一回五千円っていう破格のバイトは俺にとって大事な仕事だ。
(そりゃあ、ほかにやれる仕事があればそっちをやりたいけどさ)
中学もまとも行ってなかった俺にできる仕事なんてほとんどない。荷物運び以外だと、小さいときから知っているお姉さんたちのお店で皿洗いや買い出しをするくらいだ。それだけじゃこの部屋の家賃も払えない。
そこで始めたのが、皿洗いのときに偶然お店のお客さんに教えてもらった“荷物運びの仕事”だ。「誰にも言うなよ」と言われたから、お姉さんたちにも話していない。きっとよくない仕事なんだと思う。でも、そういう仕事でもしないとお金を稼ぐのは本当に大変なんだ。
(お母さんも大変だったんだろうなぁ)
窓に当たる雨の音を聞いているうちに眠くなってきた。ご飯もないし、明日は少し早起きしないといけないし、まぁいいかと思って目を閉じる。
どこからかトントンと包丁の音がする。部屋には俺以外いないのに変だなと思っていると、「蒼、起きなさい」という声が聞こえてきた。
(……お母さんの声だ)
ということは、これは夢だ。お母さんは俺が十五歳になる前にいなくなったからこれは現実じゃない。
「蒼ったら、まだ寝てるの?」
こんなふうに普通にしゃべっているお母さんの声を聞くのはどのくらいぶりだろう。小さい頃のことを思い出して懐かしくなった。
お母さんは俺が生まれる前からこの街に住んでいた。外国人がたくさん住んでいるからか外国っぽい雰囲気のこの街には、あちこちからたくさんの人が集まってくる。多くは旅行者で、表通りには飲食店や土産物屋、雑貨屋や化粧品店なんかがひしめき合っていた。
そんな賑やかな通りから裏道に入るといくつも風俗店が並んでいる。お母さんはそこで働いていた。お父さんはお店のお客さんだったんじゃないかなと思っているけど、本当のところはわからない。
俺が小さいときのお母さんは、たまに疲れた顔をしていたけど俺にはいつも笑顔を見せていた。お父さんの話をするときはとくに笑顔で、「蒼のお父さんはイケメンで優しい人だったんだから」というのが口癖だった。でも、顔は怖かったらしい。
(怖い顔なのにイケメンって、どんな顔だろう)
想像してみたけどよくわからない。怖い顔といったらお店にいるサングラスの人たちしか思い浮かばなかった。「まさか、あんな怖い人がお父さん……?」なんて思ったこともあったけど、お父さんの話をするときのお母さんはずっと笑顔だった。だから、きっと優しいイケメンだったに違いない。
そんなお母さんは、俺が小学一年になったくらいから少しずつおかしくなった。あまり仕事に行けなくなって、六畳一間のこの部屋でボーッとする時間が増えた。
お母さんが仕事に行けなくなると、すぐにお金がなくなった。給食費が払えなかったり学校で使う道具が買えなくなったりした。当然修学旅行なんて行けるはずもなくて、小学校も中学校も行っていない。
小学校高学年になると学校に行ける日が少しずつ減っていった。中学校でまともに通ったのは一年生のときだけで、二年生の半分以上は休み、三年生のときはほとんど行っていない。俺は学校に行かない代わりにお母さんのそばにずっといた。
(きっと疲れてたんだ)
お母さんは俺が生まれてからずっと大変だった。仕事もそうだし、お金のことだってそうだ。疲れてしまって、だから部屋でボーッとすることが多くなったんだと思う。
そんなお母さんは、たまに思い出したように「幸せだったんだから」と言っていた。そのときだけは笑顔で、でも遠くを見るばかりで俺を見ることはなかった。そのうち俺の名前を呼ぶこともなくなり、代わりにお父さんの話をよくしてくれるようになった。
「いい男で優しいのよ」
そう言ってうれしそうに笑っていたお母さんの顔はいまでもよく覚えている。俺を見てくれないのは寂しかったけど、笑顔でお父さんの話をするお母さんは嫌いじゃなかった。
中学三年になったら、担任の先生から進路の連絡が来るようになった。高校に行くお金なんてないし、勉強もほとんどしていなかった俺は働くことにした。働けばお母さんを病院に連れて行ける。たまにはおいしいものだって食べさせてあげられる。少しずつしか払えていない家賃も、毎月もう少し多めに払うことができる。
その日、俺は中卒でも働けるところを紹介してもらうために久しぶりに中学校に行った。朝、洗濯物を干してから学校に行って、一時間くらい先生と話をした。帰る途中にお姉さんたちに惣菜の残りをもらったくらいで寄り道もせずに帰った。
「お母さん、今日はちょっとだけどお寿司、もらってきたよ」
そう言いながら玄関のドアを開けた。だけど、六畳一間にお母さんの姿はなかった。
「蒼ったら、お寝坊さんね」
楽しそうなお母さんの声を聞いたのはどれくらい振りだろう。でもこれは夢だから、俺が勝手に想像している声かもしれない。
「誰に似たのかしらね。お父さんだったりして」
本当のお母さんの楽しそうな声もこんな感じだったんだろうか。もううっすらとしか覚えていないけど、うれしそうで楽しそうなお母さんの声を聞くと俺もうれしくて楽しい気分になったことは覚えている。
「お母さん、元気にしてるかなぁ」
夢を見ているはずなのに声が出た。なんだかおかしくて、つい笑ってしまった。それなのに閉じたままの目からはポロポロ涙が出た。