37.殿
包丁を目にした瞬間、智慧理は弾丸のように男性に向かって走り出した。
男性が振り返る間もなく智慧理は男性の背中に飛び掛かると、包丁を握る男性の右手を掴んで捻り上げる。
「ぐあっ!?」
苦悶の声と共に包丁を取り落とす男性。
智慧理はそのまま男性をうつ伏せに押し倒すと、その背中に馬乗りになった。
「ふざけた真似しないでください」
智慧理は低い声で男性を威圧すると同時に、男性の右腕を更に強く捻り上げる。骨がミシミシと軋み上がり、男性は潰れたウシガエルのような悲鳴を漏らした。
「あ、あの……ありがとう、ございます?」
直前まで男性と対峙していたレイラのマネージャーは困惑している様子だった。目の前の男性がいきなり包丁を取り出したと思ったら、その直後に見知らぬ少女が一瞬にして男性を制圧したのだ。困惑して当然である。
「マネージャーさん、警察に通報お願いできますか?」
「あっ、わ、分かりました!」
智慧理の要請を受けてマネージャーはスマホを取り出し、警察に通報しようとする。しかし混乱が尾を引いているためか、スマホの操作に手間取っている様子だ。
「どういうつもりですか?握手会に包丁なんて持って乗り込んできて」
マネージャーの通報が済むまでの間、手持無沙汰になった智慧理は男性を尋問してみることにした。
「まさか……その包丁をレイラちゃんに使う気だった、なんて言いませんよね?」
「……そうに、決まってんだろ……」
男性は腕の痛みで顔中に脂汗を浮かべながら、狂気的な笑みでそう答えた。
「レイラ……あの女は俺の愛を拒みやがったんだ……その上俺をストーカー呼ばわりして出禁だと!?ふざけやがって……!」
ギリギリと音が立ちそうなほどに歯を食いしばる男性。
「俺がレイラに幾ら使ったと思ってんだ!使った金の分向こうも応えるのが当然だろうが!」
男性の身勝手な言い分に、智慧理は思わず男性の右腕を圧し折りかけた。
「そんな理由でレイラさんを殺そうとしたんですか?」
「そうだよ。俺の愛を拒んだ報いを受けさせてやろうと思ったんだ」
そう言って男性は、「ひひひひひっ」と不気味な笑い声を漏らした。
「本当は俺のまま俺の手であのクソ女を殺してやりたかったけどよぉ……こうなったら仕方ねぇよな……」
「……この状況で何をするつもりですか」
嫌な予感を覚えた智慧理は、男性を押さえ付ける力を強める。しかし男性はそれを意に介すことなく、相変わらず不気味に笑っていた。
「あの女だけは絶対にぶち殺してやる……俺の命に代えてもなぁ!」
男性が店内中に響くほどの大声でそう叫んだ直後。
「ごふっ!?」
男性の口から夥しい量の血液が噴き出してきた。
「……は?」
あまりにも突然の出来事に智慧理の思考は一旦硬直する。
大量の血を吐いた男性はそのままピクリとも動かない。男性が死んでいることはどう見ても明らかだった。
「きゃあああっ!?」
死体となった男性の姿にマネージャーが悲鳴を上げる。それに触発され、店内にいたレイラのファン達が一斉にパニック状態に陥った。
「な、何が……?」
喧騒の中、智慧理は必死に頭を動かす。
男性の死因について智慧理が真っ先に思い付いたのは、自分が力加減を誤って男性を殺してしまった可能性だった。しかし智慧理は男性の背中に馬乗りになった状態で、右手で男性の腕を捻り、左手で男性の肩を床に押さえつけていただけだ。力の加減を間違えたところで男性が血を吐いて死ぬような事故に繋がるとは思えない。
となると次に考えれるのは、
「……毒?」
男性が予め口の中に仕込んでいた何らかの毒物を飲み込んだ可能性だ。
「し、死んだ!?」「嘘だろ……?」「あの子が殺したのか!?」「いや、流石にそれは……」「でもそうとしか考えられねーだろ!」
智慧理が考え込んでいる間にも、この場にいるファン達の混乱は加速していく。
このままでは群衆事故などの二次災害が起こりかねない。どうにか混乱を収めなければ、と智慧理が考え始めたその時。
ビクンッ!と死んだ男性の全身が大きく跳ねた。
「っ、何が……!?」
男性の死体から咄嗟に飛び退く智慧理。
死体はまるでめちゃくちゃに操られたマリオネットのように何度も体を跳ねさせながらゆっくりと立ち上がっていく。
「ひぃっ!?」「動いたぞ!?」「死んだんじゃなかったのか!?」「生きてる……?」「でも動きがおかしすぎないか!?」
死体が動き出すという超常現象に阿鼻叫喚に包まれるマニレコの店内。
「ち、智慧理!なんかヤバいよ、早く離れて!」
背後から睦美の声が聞こえてくるが、智慧理は動く死体に釘付けになってその場から動けなかった。
というのも智慧理は、その「死体が動き出す」現象に見覚えがあったためだ。
「まさか……」
その「まさか」は的中する。
虚ろな表情で立ち上がった男性の死体が、メキメキと嫌な音を立てながらその形状を変化させていく。
そうして死体が変異したのは、人型の樹木のような異形の怪物。
謎に包まれた邪神眷属、エギグエロファだった。
「う……うわあああああっ!?」
死体から怪物への変異。それがこの空間の秩序を崩壊させる最後の決め手となった。
ある者はその場で腰を抜かし、ある者は一目散に出口に向かって走り出し、ある者は泣き、ある者は怒り、ある者は気を失う。
今やマニレコの店内は完全な無秩序と化していた。
「ああもうなんでこんな時にっ!」
想像だにしていなかったエギグエロファの出現に声を荒げる智慧理だが、嘆いていても仕方がない。この場でまず避けなければならないことは、エギグエロファが人間を襲い始めることだ。
智慧理はエギグエロファに正面から突進し、その樹木のような体に組み付いた。
「智慧理何してるの!?早く逃げてよ!」
怪物を前に逃げるどころか生身で立ち向かった智慧理に睦美が悲鳴を上げる。
「睦美!早く逃げて!」
「何言ってるの!?智慧理を置いて逃げられない!」
「私もこの怪物を少し足止めしたら逃げるから……きゃあっ!?」
エギグエロファが太い枝のような腕で智慧理を殴りつけ、吹き飛ばされた智慧理はCDの陳列棚に激突する。棚が倒れCDケースが砕ける音が響いた。
「智慧理っ!?」
「いっ、たぁ……」
エギグエロファの攻撃を受け止めたことで、智慧理の右腕は酷い有様になっていた。ニューロンのように複雑に分岐した枝が腕を引っ掻いたために皮膚はズタズタで血塗れになり、更に腕自体も骨が折れておかしな方向に曲がっている。
「やっぱり智慧理も一緒に逃げよう!?ねぇ、早く逃げてよぉ!」
「私は大丈夫……これくらい全然平気だから……」
智慧理のその言葉はあながちただの強がりという訳では無い。変身さえしてしまえば、この程度の傷は生命力増幅機能によってすぐに自然治癒してしまう。
だが睦美がこれと同じ怪我を負ってしまったら、完治までにかかる時間は1ヶ月や2ヶ月では済まない。それどころか一生傷が残ってしまうかもしれない。
だからこそ智慧理は、睦美には一刻も早くこの場から逃げてほしかった。
「っ、露華!」
是が非でも睦美をこの場から逃がすため、智慧理は露華に呼び掛ける。露華はすぐに智慧理の意図を察し、力強く頷いて見せた。
「睦美さん、ここは逃げますよ」
「ちょっ、露華ちゃんやめて!離して!」
「ダメです、離しません」
「いやぁっ!智慧理!智慧理~!!」
露華が睦美の腕を強引に引っ張り、2人は店の外へと消えていった。それを確認した智慧理はほっと安堵の息を漏らす。
そして睦美と露華が避難した頃には、店内にはもう智慧理とエギグエロファの姿しか残っていなかった。あの混沌とした状況下でも、どうにか全員が逃げ出すことができたのだ。
「はぁ~……やっとまともに戦える……」
人目が消えたことで、智慧理が本領を発揮するための舞台は整った。
「――変身!」
智慧理の掛け声と共に足元から黒い旋風が噴出し、智慧理の姿を覆い隠す。
そして旋風が消えると同時に、智慧理は黒い天使の姿へと変身を完了していた。同時に右腕の裂傷や骨折が、まるで映像を逆再生するかのようにみるみる回復していく。
「生命力増幅機能様様、って感じ」
智慧理は回復した右手を何度か開閉して感覚を確かめ、それからエギグエロファに向かって走り出した。
「てやぁっ!」
硬質化させた右腕に独特の捻りを加え、エギグエロファの顔と思しき場所に正拳を叩き込む。
バキッ!という破砕音と共に、エギグエロファの顔面らしき場所がぐしゃぐしゃに砕け散る。
恐竜人間やウェンディゴが相手であればこの一撃で勝負は決していたが、エギグエロファが相手ではそうはいかない。エギグエロファは顔面を砕かれながらも、両腕を智慧理目掛けて鞭のように振るう。
「どこ壊せば死ぬのかよく分からないんだよなぁエギグエロファ……」
エギグエロファの構造に対する不満を零しながら、天井近くまで跳ねて攻撃を回避する智慧理。空を切ったエギグエロファの両腕はそのまま近くの陳列棚に叩きつけられ、並べられていたCD諸共棚を粉砕する。
「わぁ、凄い力。まぁ……」
智慧理は空中で体を上下反転させ、天井を蹴ってエギグエロファへと急降下する。
「私ほどじゃないけど!」
そして智慧理は落下速度を威力に上乗せした踵落としをエギグエロファの右肩に叩き込み、右腕を根元から破壊した。
エギグエロファは口を持たないため悲鳴は上げない。しかし体を激しく左右に揺するその動きは、エギグエロファが片腕を失って苦しんでいるように見えた。
「まだまだぁ!」
着地した智慧理はすぐさまエギグエロファに飛び掛かり、今度はその左腕を掴んだ。
いわゆる「飛び付き腕十字」のような体勢でエギグエロファの腕にぶら下がる智慧理。人間だったら腕にかかった智慧理の体重に耐えきれずに倒れてしまうところだが、エギグエロファは下半身が樹木の根のようにしっかりしているため倒れない。
そしてエギグエロファが倒れないのをいいことに、智慧理はエギグエロファの腕を掴んだまま高速で錐揉み回転をし始めた。その姿はさながら獲物の肉を噛み千切ろうとするワニのデスロールだ。
高速で捻られたエギグエロファの右腕は、あまりにも呆気なく根元から千切れてしまった。
両腕という最大の武器を失い、エギグエロファに残ったのは幹のような胴体だけだ。
「あらまぁ随分と持ちやすくなっちゃって」
智慧理は素早くエギグエロファの背後に回り込み、その胴体に腕を回す。
「よい、しょっと!」
そしてお世辞にも可愛らしいとは言えない掛け声と共にエギグエロファを持ち上げると、
「てやぁっ!」
プロレス技のジャーマンスープレックスでエギグエロファを後方へとぶん投げた。
凄まじい勢いで床に叩きつけられたエギグエロファの頭部がバキバキと砕け散る。
そして頭部が粉々になったエギグエロファは、智慧理から解放されても再び動き出すことは無かった。
「ふぅ……」
智慧理は一息つきながら変身を解く。するとその時、遠方から微かにサイレンの音が聞こえてきた。
「あっ、ヤバ」
レイラのマネージャーか他の誰かからの通報を受け、パトカーがこちらに向かっているのだ。警察が駆けつけた際に智慧理が現場に残っていたら確実にややこしいことになる。
智慧理は警察が来る前にこの場から逃走することに決めた。エギグエロファの死体を残していくのは気掛かりだがこの際仕方がない。
智慧理が向かったのは店舗正面の入口ではなくバックヤードだった。どうせ逃げるなら人目に付かない場所から逃げた方がいいと考えたのだ。
「……ん?」
バックヤードに1歩足を踏み入れた智慧理は、そこで妙なものを見た。智慧理がバックヤードに入ると同時に、従業員用の裏口の扉がパタンと閉まったのだ。
バックヤードには人影は見当たらない。にもかかわらず扉が閉じたということは、たった今誰かがバックヤードから裏口を通って外に出て行ったということだ。
そしてそれは言い換えれば、智慧理が来る直前までこのバックヤードには誰かがいた、ということにもなる。
「……見られちゃった、かな」
直前までここにいた誰かは、智慧理がブラックエンジェルに変身するところや、ブラックエンジェルから智慧理へと変身を解除するところを目の当たりにしたに違いない。
つまりその誰かしらには、ブラックエンジェルの正体が智慧理であることが知られてしまった。
「あ~……やっちゃった……」
一瞬口封じを考えた智慧理だったが、ここにいた「誰か」を特定する手段が無い以上口封じは不可能だ。
「口の軽い人じゃありませんように……!」
「誰か」がブラックエンジェルの正体を言いふらさないよう祈りつつ、智慧理もまた裏口を通ってマニレコを後にした。
……その後智慧理は合流した睦美に盛大に泣きつかれ、右腕の怪我が完治していることに関して鋭い追及を受けることになる。
次回は17日に更新する予定です
それと近い内にタイトルを「御伽原市の黒天使」に変えようと思ってます