36.握手会と圧縮言語
「あっ、智慧理~!」
土曜日の昼過ぎ。智慧理が駅前広場にやって来ると、そこには既に睦美の姿があった。
「ごめん、待った?」
「ん~ん、全然待ってないよ!私も今来たとこ!」
開口一番謝罪した智慧理だが、今は待ち合わせ時間の10分前。別に遅刻した訳では無い。
「じゃあ後は露華が来れば……」
「智慧理さ~ん、睦美さ~ん」
気が抜けるような声。
そちらに視線を向けると、智慧理に向かって大きく手を振る露華の姿が見えた。露華はフリルだらけの白いドレスのような服を身に着けている。智慧理には見覚えのある服装だ。
「私が最後でしたか~。ごめんなさい~」
「ん~ん、全然。まだ待ち合わせ時間じゃないし。それより露華ちゃん、その服可愛いね!」
「ありがとうございます~。私、お洋服はこれしか持ってないので~、似合ってないって言われたらどうしようかと思いました~」
「えっ、露華ちゃん服それしか持ってないの!?」
驚いて目を丸くする睦美。智慧理も声にこそ出さなかったが睦美と同じ心境だった。
「そうなんです~。あっ、でもこれと同じ服はあと4着持ってますよ~」
「そ、そうなんだ……」
同じ服を5着集めるくらいなら1着くらい違う服にすればいいのに、と睦美の表情が物語っている。
「あっ!じゃあさ、今日みんなで服見に行かない?露華ちゃんに似合う服探しに行こうよ」
「うん、いいと思う」
「智慧理さんと露華さんが私の服を選んでくれるんですか~?嬉しいです~」
睦美の提案に、露華はふにゃっとした笑顔を浮かべる。
「でもまずはマニレコ行かないと。睦美、握手会って何時からだっけ?」
「1時半からだから……そうだね、そろそろ行かなきゃ」
智慧理達が今日集まった理由は、マニアレコードで開催される御伽原ご当地アイドル新田レイラの握手会だ。
先日3人はマニレコで新田レイラの新曲「すかい好くれい☆ぷりんせすっ!」の初回限定版CDを購入し、特典として握手会のチケットを手に入れた。
折角チケットが手に入ったのだから参加しないのは勿体ないということで、3人一緒に参加する運びとなったのだ。
「ねぇねぇ、2人は『すかい好くれい☆ぷりんせすっ!』聞いてみた?」
駅前広場からマニレコに向かう道すがら、睦美は智慧理と露華にそう尋ねる。
「買ったからには聞いたよ、勿論」
「私も聞きました~」
「聞いてくれたんだ!嬉しい~!」
新田レイラの大ファンである睦美は、智慧理と露華が買ったCDをきちんと聞いていたことに跳び上がらんばかりに喜んだ。
「どうだったどうだった!?」
「うん、何ていうか……す~ごい世界観だった……」
新田レイラの新曲「すかい好くれい☆ぷりんせすっ!」の歌詞は、高校生の女の子が思いを寄せているクラスメイトの男子に振り向いてもらうために、超高層ビルのオーナーに成り上がるという内容だ。智慧理は何度か聞いてみたが、目的と手段の因果関係が全く分からなかった。
「けど……耳には残るよね」
「そうなの!レイラちゃんの曲って全部耳に残るんだよ~!歌詞は何言ってるのかよく分からないけど!」
マニレコでCDを買った日から、智慧理はなんだかんだ1日1回は「すかい好くれい☆ぷりんせすっ!」を聞いている。新田レイラの曲には異様な中毒性があった。
「私もこの曲大好きですよ~」
露華が笑顔でふわふわと喋る。
「毎日寝る前にベッドの中でこの曲聞いてます~」
「えっ、露華ちゃん寝る前にレイラちゃんの曲聞いてるの?……変な夢見ない?」
「睦美がそれ言うのは流石にレイラちゃん可哀想でしょ……」
露華は笑顔のまま「見ます~」と答えていた。
そうこうしている内に3人はマニアレコード御伽原店に到着する。
「わっ、人多いね」
店内は多くの人で賑わっており、智慧理はその混雑具合に面食らった。
「ここにいる人ってみんなレイラちゃんの握手会に来た人?」
「流石に全員がそうじゃないだろうけど、大体みんなレイラちゃんのファンだと思うよ。レイラちゃんの握手会っていつもこれくらい人来るから」
「そうなんだ。流石アイドル」
レイラの人気に感心する智慧理の隣では、露華が人混みを見て目を白黒させていた。
「私、こんなにいっぱい人がいるところ初めてです~」
「そうなの?露華ちゃんって結構田舎の方出身?」
「出身ですか~?私は御伽原出身ですよ~」
「あれ、そうなの?それなのに人混み初めて?」
「はい~。私まだ生ま……」
「露華」
智慧理は露華の名前を呼び、小さく首を横に振る。それを見た露華は「しまった」と言わんばかりに口元に手を当てる。
その反応から見て、智慧理が制止していなければ、露華は間違いなく自分が生後3ヶ月であることを睦美に口走っていただろう。危ないところだった。
「その~……私が住んでるのは~、御伽原でも人が少ないところなので~」
「そうなの?確かに御伽原って場所によっては全然人いないもんね~」
露華の咄嗟の言い訳を、睦美は特に疑う素振りも無く受け入れた。睦美が疑り深い性格でないことにほっと胸を撫で下ろす。
「只今より新田レイラ新曲発売イベントの握手会を開催いたしまーす!」
バックヤードから出てきたマニレコのスタッフが声を張り上げる。すると店内に集まった客からは「おおっ」とどよめきのような歓声が上がった。
スタッフ達の指示に従って行儀よく一列に並んでいく握手会の参加者達。智慧理達3人は列の大体中央辺りに陣取った。
そして参加者達の列が完成したところで、バックヤードから満を持して新田レイラが姿を現した。
「うおおおおっ!」
お目当てのアイドルの登場に、一斉に湧く参加者達。
「レイラちゃ~ん!!」
かくいう睦美もその内の1人で、聞いたこと無いような大声でレイラを呼びながら必死で両手を振っていた。
「うわ~……顔ちっちゃ……」
新曲の衣装に身を包んだレイラに、智慧理は思わず目を奪われた。レイラの容姿はCDジャケットなどで既に知っていたが、それでも写真で見るのと実物を目の当たりにするのでは大違いだった。
「お姫様みたいで素敵ですね~」
露華もレイラを見て目をキラキラと輝かせている。もっともお姫様らしさで言えば、露華の装いも負けてはいなかったが。
「皆さん、お伽話からこんにちは!メルヘンプリンセスアイドル、新田レイラです!」
マイクを手に取ったレイラが決まり文句らしき挨拶を口にする。
「今日は私の4thシングル『すかい好くれい☆ぷりんせすっ!』の発売記念握手会に参加してくださってありがとうございます。こんなに沢山の人に来ていただけると思っていなくて、嬉しい気持ちとビックリした気持ちでいっぱいです。今日は皆さんと色々なお話ができたらいいなって思ってます」
「何かすっごく真面なこと言ってる……歌ってるの電波ソングばっかりなのに……」
「レイラちゃんはそのギャップがいいんじゃん!」
智慧理はまだ睦美達ファンの感情を理解できる領域にはいなかった。
「それでは握手会、始めさせていただきたいと思います!」
レイラ自身の宣言によって握手会が開始される。
列の先頭の参加者から順番にレイラと握手し、一言二言会話を交わす。1人当たりの握手の時間は大体5秒といったところだ。
「はぁ~ドキドキしてきた……!」
順番が近付いてくるにつれ、睦美の表情が徐々に強張っていく。
「言いたいこと全部言えるかな……一応紙に纏めてきたんだけど」
「纏めてきたんだ……睦美ってマメだね」
睦美は四つ折りになった小さな紙片を取り出し、それを見ながら何やらぶつぶつと呟き始めた。その姿はさながら暗記科目のテストの直前に悪あがきをしているかのようだ。
智慧理が何となく睦美が持っている紙を横から覗き込むと、紙には胡麻のように小さな文字が余白なくびっしりと書き込まれていた。どう考えても5秒かそこらでは到底伝えきれない情報量だ。
「睦美、それ全部伝えるの無理じゃない?」
一応忠告してみた智慧理だが、案の定睦美は智慧理の声など一切耳に入っていなかった。
睦美が最後の追い込みに励んでいる間にも着々と握手会は進み、とうとう睦美の1つ前まで順番が回ってくる。
「すぅぅぅぅぅぅっ……!」
前の参加者がレイラと握手している様子を傍目に、睦美は思い切り息を吸い込み始める。その息の吸い込み方と言ったら、智慧理が一瞬睦美は風船にでもなりたがっているのかと錯覚したほどだ。
「次の方どうぞ~」
スタッフに呼ばれ、睦美は吸い込んだ息を止めたままレイラの前に移動する。
「来てくれてありがとうございます」
そしてレイラが微笑みながら睦美の手を握ったその瞬間。
「いつも応援してます私今日レイラちゃんに会えるのめっちゃ久し振りで会えて嬉しいです今日もめっちゃ可愛いですね髪サラサラで目もパッチリで肌も白くてすべすべでビジュ最強ですもうホントレイラちゃん私の生きる糧です新曲もめっちゃ最高でした衣装も似合ってて歌詞も振りつけもめっちゃ可愛くて私特にサビの最初の『わ~たしのお城は鉄筋コンクリ~!』のところの歌い方が好きすぎてあそこだけでもう100回以上聞いてますライブでも絶対聞きたいですあとあとあとセントラルタワーとのコラボイベントも楽しみにしてますやった全部言えた~!!」
睦美は止めていた息を吐き出すと同時に、事前に準備していた内容を一気にレイラへ捲し立てた。
5秒という短い時間の中に言いたいことを全て詰め込もうとした結果、睦美の早口は最早聞き取ることすら困難なレベルにまで達していた。智慧理はただの1度も噛まずに最後まで言い切った睦美の活舌のに、智慧理は尊敬を越えて畏怖の念すら抱いた。
「お、応援ありがとうございます……」
レイラは睦美の早口に圧倒されて普通に引いていた。しかし幸か不幸か伝えたいことを全て伝えられた達成感に浸っている睦美は、推しに引かれていることには最後まで気付かなかった。
「睦美、将来アナウンサーとかになった方がいいよ……」
満足気に立ち去っていく睦美の背中に智慧理はそう声を掛けた。
続いては智慧理がレイラと握手をする番なのだが、直前で友人がとんでもないインパクトを残していったせいで、智慧理は気まずさを覚えずにいられなかった。
「えっと……新曲毎日聞いてます。応援してます」
「ありがとうございます!」
智慧理は当たり障りのない応援の言葉を口にしながらレイラの手を握る。流石はアイドル、レイラの手はすべすべでとても触り心地がよく、許されるならいつまでも触っていたくなるような気持ちにさせられた。
しかしそういう訳にもいかないので、智慧理はスタッフに剥がされる前に自分から手を離してレイラの前から立ち去った。
「レイラさんの曲、とっても素敵だと思います~」
智慧理の後ろでは露華がレイラと握手をし始める。
「私寝る前にレイラさんの曲聞いてるんです~」
「えっ、寝る前に?……変な夢見ませんか?」
それ歌ってる本人まで言っちゃうんだ、と智慧理は危うく噴き出しそうになった。
智慧理は店内の入口近くで待っていた睦美と合流し、程なくして露華もそこにやって来る。
「睦美、この後はどうする?イベントってまだ続くの?」
「ん~ん、今日は握手会だけだからこの後は何にも無いよ。だからもう露華ちゃんの服見にいっちゃおうか?」
「えっ、もう出ちゃっていいの?レイラちゃんまだいるのに……」
「うん。レイラちゃんに伝えたいことは全部伝えられたしね」
「伝わってたかは微妙だけどね……」
あのギチギチに圧縮された早口の応援メッセージは、智慧理は辛うじて聞き取ることができたものの、レイラも同じように聞き取れたかはかなり怪しいところだ。
「だから2人がよければ、私はもう服見にいっちゃって全然いいよ」
「睦美がそれでいいなら私も勿論いいけど……」
「智慧理さんと睦美さんに服を選んでもらうの楽しみです~」
3人の意見が円滑に一致する。
「じゃあ行こっか。この近くで服選ぶならやっぱりファブルモールだよね!」
「睦美。ファブルモール今やってない」
「あそっか、燃えちゃったもんね……じゃあどうしよ、駅ビルは確かあんまり服屋さん無いんだよね……」
「とりあえず駅前広場まで戻ってみない?」
「そうだね、そうしよっか」
智慧理と睦美が軽く話し合い、駅前広場に向かうため3人が退店しようとしたその時。
「きゃっ!?」
先頭を歩いていた睦美が、入店してきた男性とぶつかった。
体勢を崩した睦美の背中を智慧理が素早く支える。
「大丈夫?」
「あ、ありがと智慧理」
睦美とぶつかった男性は、謝罪どころか睦美に視線を向けることすらなく店内に入っていく。年齢は30歳前後、ぼさぼさの髪と無精髭を伸ばした、生気のない顔付きの細身の男性だ。白いTシャツの上に赤いチェック柄のシャツを羽織っている。
「あの人……」
「智慧理、いいよ。気にしないで駅前広場行こ?」
男性の背中を睨みつける智慧理を睦美が宥める。しかし智慧理が男性を睨んでいたのは、睦美とぶつかったことを気にも留めない男性に腹を立てたからというだけではない。
擦れ違いざまに見えた男性の両目が、不気味にぎらついていたのが気になったのだ。
男性がふらふらとした足取りで向かったのは、未だレイラの握手会が続いているイベントスペースだ。
「おい、見ろよ」「アイツって……」「また来たのかよ!?」「懲りねぇ奴……」「てかアイツ出禁になってなかった?」
男性の存在に気付いたレイラのファン達は揃って眉を顰めている。どうやらその男性は、レイラファンの間ではかなりの有名人らしかった。
それも、悪い方向での。
「そう言えばレイラちゃんのファンの中に、付き纏い行為でイベント出禁になった人がいるって聞いたことあるけど……」
ファン達が男性について噂する声を聞き、睦美が不安げにな表情を浮かべる。
「あの人がそうだとしたら……なんか嫌な予感するかも……」
睦美が抱いた予感は、残念ながら的中することになる。
ファンとの握手を続けているレイラの下へ歩いて行くチェックシャツの男性。するとその前にスーツ姿の眼鏡を掛けた女性が立ち塞がった。
「あっ、あの人レイラちゃんのマネージャーさん……」
睦美曰くレイラのマネージャーのその女性は、厳しい表情で男性へと詰め寄った。
「あなた、もう来ないでくださいって言いましたよね!?」
マネージャーのその口振りからして、男性がレイラのイベントを出禁になっているというのは事実のようだ。
「……」
しかしマネージャーの詰問に対し、男性は口を開かない。
「早く帰ってください!」
男性に1歩近付くマネージャー。するとその瞬間男性はチェックシャツの下に右手を突っ込んだかと思うと、そこから引っ張り出したものを高々と頭上に掲げる。
「きゃああっ!?」
男性に対しての強気の態度から一転して、甲高い悲鳴を上げるマネージャー。同時に周囲のファン達にどよめきと混乱が広がっていく。
男性の右手に握られていたもの。それは鈍色の輝きを放つ1振りの包丁だった。
次回は15日に更新する予定です