3.変身
「おはよう、黒鐘さん」
「……?」
朝目を覚ました智慧理は、ベッドの側に佇む霞の半透明の顔を寝惚け眼で見上げ、呆けたように首を傾げる。
そのまま硬直すること十数秒。
「……あ、稲盛さん」
「思い出してくれてよかったよ」
智慧理の寝起きの悪さに霞は苦笑する。
のそのそとベッドから這い出した智慧理は顔を洗って食パンをトースターに入れ、トーストが焼き上がるとそれを咥えながらテレビを点ける。
「ん~……」
トーストをもさもさと食べながらニュース番組を次々とザッピングし、智慧理は不思議そうに首を傾げる。
「どうかした?何か気になるニュースでもあるのかな?」
「……昨日のこと、ニュースになってませんね」
「昨日のこと、というと……私と恐竜人間達の死体のことかな?」
「はい。結局あの道に残してきたままになっちゃったのに……」
智慧理は一夜明ければ霞と恐竜人間の死体が第三者に見つかり、ニュースとして報じられるだろうと予想していた。
しかし予想に反しどのテレビ局もそれらしいニュースは取り扱っていない。智慧理は試しにスマホでも調べてみたが結果は同じだった。
「ニュースにはならないと思うよ。昨日の抗争の痕跡は、他の恐竜人間が始末しただろうからね」
「他の恐竜人間?」
「私を追っていた恐竜人間は、昨夜君が掃討したあの連中だけではないんだ。奴らはいくつかのグループに分かれて私を捜索していたからね。そのグループのどれかがあの現場を発見して、綺麗に掃除をしたと思うよ。奴らは自分達の存在を世間の目から覆い隠すことに余念がないからね」
「じゃあ、稲盛さんの体も……」
恐竜人間が現場の後始末をしたということは、霞の死体も恐竜人間の手で回収されてしまったということだ。
そして彼らが霞の死体を丁重に扱うはずがない。霞の尊厳を一切尊重しない方法で死体を処分したことは容易に想像できる。
「君がそんな顔をする必要は無いよ。私にとってあの体はもう抜け殻みたいなものだからね、どう扱われたって構わないさ」
「それはそれで自分の体に愛着が無さ過ぎると思いますけど……」
自分の肉体に全く頓着していない霞が、智慧理には少し不気味に見えた。
「ところで黒鐘さんは、部活は何かやっているのかな?」
「部活ですか?いえ、帰宅部ですけど……」
「そうか、それなら都合がいい。黒鐘さんさえよければ今日の夜にでも、叛逆の牙の力の使い方を少し教えられればと思うんだけど、どうかな?」
「あっ、お願いします」
昨夜手にした力について、智慧理も霞から詳しいことを教えてほしいと思っていたところだった。霞の提案は渡りに船だ。
「ところで稲盛さん、私が学校に行ってる間はどうするんですか?」
「ん?君に付いていこうと思っているけど」
「えっ!?は、裸で学校に来るつもりですか?」
幽霊は服を着られない。故に霞は常に全裸なのだが、その状態で教育機関に出向くのは風紀的に著しく問題がある。
そんな智慧理の懸念に霞はひらひらと手を振った。
「大丈夫だよ。私は幽霊だから、魔術的な素養を持たない普通の人間には私の姿は見えないんだ」
「そ、そうなんですね……?」
智慧理しか霞を見ることができないのであれば、霞が学園に着いてくることにひとまず問題は無い。
胸を撫で下ろした智慧理は、パジャマを脱いで制服へと着替えた。
「それじゃあそろそろ学園に行きますけど……稲盛さんは準備は大丈夫ですか?」
「今の私に準備が必要なことなんて何も無いよ」
「それもそうですね」
教材の入った鞄を携え、霞を伴って部屋を出る智慧理。
駐輪場から自転車に乗って出発した智慧理に、霞はフィギュアスケーターのような動きでスイーッと並走した。
「は、速いですね、稲盛さん」
「物質的な肉体の制約に囚われないというのも存外便利なものだね」
霞はどこか楽しそうだった。
智慧理が通う御伽原学園は、アパートから自転車で10分ほどの距離にある。
登校中、霞が言っていた通り、霞の姿が通行人に見咎められることは無かった。
「ホントにみんな稲盛さんのこと見えないんですね……」
「何だ、信じていなかったのかい?」
「ちょっと疑ってました」
「君は正直者だね」
何事もなく学園に到着した智慧理は、普段通り駐輪場に自転車を停めて校舎へと向かう。
「……ん?」
その途中で、智慧理は背後から視線を感じて振り返った。
「あの人……」
智慧理が感じた視線の主は、10mほど後方にいる1人の女子生徒だった。特徴的な長い金髪をハーフアップに纏めており、どこか高貴な雰囲気がある。
その女子生徒は智慧理に気付かれたこともお構いなしに、険しい表情を智慧理に向けている。
最初はとうとう霞の存在を見咎められたのかと思った智慧理だったが、そういう訳でもなさそうだ。
「あの子、君のことを睨んでいるようだけど……知り合い?」
「知り合いじゃないですけど知ってます。この学園の生徒会長です」
先日の入学式でその女子が生徒会長としてスピーチをしていたのを智慧理は覚えている。特徴的な容姿なので印象に残ったのだ。
「生徒会長か。随分と派手な髪色だね、御伽原学園は髪色自由だったかな?」
「あの髪は地毛らしいって噂で聞いたことあります」
生徒会長は学園内でも有名人で、入学してまだ日が浅い智慧理でもいくつかの噂を耳にしたことがあった。
しかし智慧理自身に生徒会長との面識はなく、会話を交わしたことも1度も無い。従って今ここでこうして生徒会長に睨まれる理由に、智慧理は全く心当たりがなかった。
本人にその真意を直接尋ねてみようかと、智慧理は生徒会長の方へ1歩足を踏み出すが、
「智慧理おはよー!」
直後に横から声を掛けられ、智慧理はそちらに顔を向けた。
「あっ、睦美。おはよ」
駆け寄ってきたのは智慧理の友人の箕六睦美だった。席が隣同士という縁で智慧理が初めて仲良くなった友人だ。
「智慧理、こんなとこで何してるの?教室行かないの?」
「うん、ちょっと……」
智慧理は再び生徒会長の方へ視線を向ける。しかしそこにはもう生徒会長の姿は無かった。
「……あれ」
「智慧理?」
「……ううん、何でもない。教室行こ?」
生徒会長の真意は気になるが、いなくなってしまったものは仕方がない。
智慧理は気を取り直して睦美と教室に向かうことにした。
「そう言えばさ」
自分の机に鞄を置きながら、睦美が表情を曇らせながら話題を持ちかける。
「鷺沼先生、まだ連絡取れないらしいよ」
「そうなの?心配だね」
「鷺沼先生……?」
智慧理の側で霞が興味を引かれたように首を傾げる。
「担任の鷺沼先生、いなくなっちゃってもう1週間だもんね」
智慧理は睦美との会話を装って、霞に簡潔に事情を説明する。
「そう言えば少し前に御伽原学園の男性教師が行方不明と噂になっていたな……あれは黒鐘さんの担任のことだったのか」
霞は納得した様子で何度か頷いた。
「どこ行っちゃったんだろうね鷺沼先生。優しそうないい先生だったのに……」
睦美の鷺沼への評価が「優しそう」と推測なのは、鷺沼と接した時間が少なすぎるためだ。
智慧理達が入学してすぐに鷺沼は失踪してしまったので、鷺沼が智慧理達の担任だった期間は正味1週間程度だ。
「早く見つかるといいね、鷺沼先生」
鷺沼の人となりすらよく知らない智慧理に言えるのはそれくらいだった。
ちょうどそのタイミングで教室の前の扉が開く。
「はい席ついて~。そろそろホームルーム始めるよ~」
その言葉と共に教室に入ってきたのは20代半ばの女性教師。消息を絶った鷺沼の代わりに、智慧理質のクラスの担任を臨時で勤めている烏丸だ。
烏丸のホームルーム開始の宣言に伴い、智慧理と睦美の会話は自然消滅した。
「鷺沼先生がいなくなったのも、邪神眷属のせいなんですか?」
放課後。真っ直ぐにアパートへと帰ってきた智慧理は、鞄を下ろしながら霞にそう尋ねた。
「どうだろう、流石にそれだけでは判断できないな。ただこの街での行方不明者には、大抵の場合邪神眷属が関与しているからね」
霞は顎に手を当てながら智慧理の質問に答える。
「もし邪神眷属の犯行だった場合は、君が邪神眷属と戦っていくことで、いずれ君の担任を見つけ出せるかもしれないね」
「じゃあ頑張らないとですね」
智慧理は制服からジャージに着替えると、まずはキッチンに立った。
肉と野菜を使って簡単な炒め物を作り、ある程度冷ましてからラップをかけて冷蔵庫に仕舞う。これは智慧理の今日の夕食になる。
「よし。じゃあ稲盛さん、そろそろお願いできますか?」
夕食の作り置きを終えた智慧理は、手持無沙汰にしていた霞にそう尋ねる。
お願いというのは、今朝アパートを出る前に約束した「力の使い方を教える」という件のことだ。
「う~ん、本当はもう少し暗くなってからの方が望ましいけれど……まあこの時間でも人目につかない場所を選べば大丈夫かな。私に心当たりがあるからそこに向かおう」
「はいっ」
智慧理はジャージ姿のまま、霞と一緒に部屋を出る。
「ああ、自転車は止めた方がいい」
駐輪場に向かおうとした智慧理の背中を霞が呼び止めた。
「今から行く場所は徒歩でもあまり時間はかからない。それに自転車は結局邪魔になるだろうからね」
「そうですか?分かりました」
自転車が結局邪魔になる、という意味が智慧理にはよく分からなかったが、とりあえず霞の指示に従うことにした。
自転車は使わず徒歩でアパートを出発し、そのまま歩くこと約15分。智慧理と霞が辿り着いたのは小さな神社だった。
老朽化が進んだ建物からは長い間管理を放棄されてきたことが窺え、鬱蒼と生い茂る木々が道路から境内の様子を覆い隠している。
正しく霞が言っていたように人目につかない場所だ。
「薄暗くてちょっと不気味ですね……」
「管理者がいなくなって久しいからね、今では誰も寄り付かない。だからこそ魔術を使うには打ってつけという訳さ」
悪戯っぽくウインクをする霞。智慧理は反応に困った。
「さて、早速力の使い方を伝授しよう。まずは昨日みたいに姿を変えてみて」
「えっと……どうやるんですか?」
昨夜は霞が智慧理の胸に叛逆の牙を突き刺すことで、智慧理は黒い天使のような姿へと変化した。
そのため智慧理は能動的に姿を変えたことが無く、やり方もまだ分からない。
「簡単だよ。ただ一言『変身』と口に出せばそれでいい」
「えっ、それだけですか?」
「ああ、変身方法を必要以上に凝るのは非効率的だからね。さあ、やってみて」
「は、はい」
智慧理は何度か深呼吸をして緊張を解す。
「――変身!!」
そして智慧理がそう口にしたのと同時に、智慧理の足元から黒い風が螺旋状に噴き上がった。
「おお~……!」
智慧理が感激している間に、黒い旋風が智慧理の体を包み込む。
そして旋風が止んだ時には、智慧理の黒い天使のような姿への変身は既に完了していた。
「わ、ホントに変身できた」
「ね、簡単だったでしょ?」
「……あっ、スマホちゃんとある」
智慧理がスカートのポケットをごそごそと漁ると、ジャージのポケットに仕舞っていたはずのスマホが出てきた。
「一応所持品は変身しても引き継がれる仕組みになっているからね」
「え~便利~」
霞の説明に相槌を打ちながら、智慧理はスマホのカメラを自分に向けて写真を1枚撮った。
「……何をしているのかな?」
「この恰好の自分がどんな感じか、まだちゃんと見てないな~と思って」
言いながら智慧理は撮影した写真を確認する。
「え~可愛い~!すっごく好きな感じ!」
「気に入ってもらえたならよかったよ」
はしゃぐ智慧理を見て霞は苦笑した。
「それじゃあそろそろ力の使い方を説明してもいいかな?」
「あっ、はい。お願いします」
色々と話は逸れたが、2人はいよいよ本題に入る。
「変身形態の力はできるだけ感覚的に使いこなせるよう設計したつもりだけど、まずは力を自覚しなければ使いこなすも何もあったものではないからね。まずはそれから始めようか」
「力を、自覚……」
「お腹の下の辺りに、ぐっと力を込めてみてくれるかな?」
霞に言われた通り、智慧理は下腹部に力を込める。
すると智慧理は下腹部から全身へと熱が広がっているような感覚に襲われた。
「わっ、わっ!?なんか火照ってきました!」
「今君が感じている熱の正体は、叛逆の牙によって増幅された君自身の生命力だ」
「生命力……?」
「ああ。そして生命力の増幅こそが、叛逆の牙の最も基本的にして最も根幹的な機能だ。生命力を増幅することで、変身形態では身体能力と自然治癒力が大幅に向上する。黒鐘さん、試しにその場で軽く飛び跳ねてみてくれるかな」
「は、はい」
霞の指示に従い、智慧理が軽く地面を蹴ってジャンプする。
「えっ、ええっ!?」
すると智慧理の体は一瞬にして地上3m超の高さにまで跳び上がった。
「えっ、えっ!?な、何で!?」
自分が想定よりも遥かに高くまで到達したことに動揺する智慧理。
驚きのあまり智慧理は空中でバランスを崩し、危うく着地を失敗しかけた。
「稲盛さん、どういうことですか!?」
「さっきも言った通り、変身形態では身体能力が大幅に強化される。今の桁違いの跳躍力はその一端だ。他にも走力や膂力など全ての能力が同様に向上しているはずだよ」
「そ、そうなんですね。は~……ビックリしました」
「初めの内は慣れないかもしれないね。けれどすぐに強化された身体能力を使いこなせるようになるはずだよ」
智慧理は自分の体の感覚を確かめるように、両手を握っては開いてを何度か繰り返した。
「それと自然治癒力も大幅に向上するから、単純骨折程度の怪我なら数分で完治するはずだよ」
「えっ、ホントですか!?」
「ああ。ただこっちは身体能力と違って、今すぐ試してみるという訳にはいかないけれどね」
「あはは、ですね」
例え数分で治るとしても、自然治癒力の検証のために試しに骨折するというのは、智慧理には抵抗が強かった。
「まあ自然治癒力に関しては邪神眷属との戦いで怪我を負った時に真価を発揮してくれだろう。ところで叛逆の牙による生命力増幅の恩恵は、身体能力と自然治癒力の工場だけではないんだ。黒鐘さん、試しに体内の熱を体の外へと放出するようなイメージを浮かべてみてくれないかな」
「わ、分かりました」
智慧理は目を瞑り、体内で漲る熱が皮膚から放出されていく様子を頭の中で想像する。
すると智慧理の全身から、バチバチと黒いプラズマのようなものが迸った。
「ひゃっ!?な、何ですかこれ!?」
「それは言うなれば『余剰生命力』だ。叛逆の牙によって増幅された生命力は、身体能力と自然治癒力を大幅に強化しても尚余りあるからね。増幅した生命力の余剰分を、魔術的なエネルギーに変換して体外に放出する機能が備わっているんだ」
「え~すご~い!この、余剰生命力?っていうのは何ができるんですか?」
指先から火花のように余剰生命力を弾けさせながら智慧理が首を傾げる。
「例えば余剰生命力を腕に纏わせた状態で敵を殴ればより大きなダメージを与えることができるし、慣れてくれば余剰生命力を飛ばして遠距離攻撃ができるようにもなるだろうね。それから余剰生命力を肉体に纏わせれば、私のように物質的な肉体を持たない存在にも干渉することができるようになるよ」
「えっ、じゃあ……」
智慧理は余剰生命力で右手を黒く覆った。
「こうすれば稲盛さんとも握手できるってことですか?」
「握手自体はできるけれど、君の右手に触れた瞬間に私の右手が消し飛ぶだろうね。というか黒鐘さん、余剰生命力の扱いが上手いね?」
「そうですか?」
「うん、かなり筋がいいよ。やっぱり君には才能があるね」
智慧理には実感は無かったが、霞は実に嬉しそうだった。
「さて、ここまで叛逆の牙の根幹たる生命力増幅機能について説明してきたけれど、叛逆の牙にはそれ以外にも機能がある。まずは命を奪った邪神眷属の魂の一部を吸収し、各機能の出力を強化する漸次強化機能。ゲームのレベルアップシステムのようなものと言ったら分かりやすいかな?」
「ん~、何となく分かります。戦えば戦うほど強くなるってことですか?」
「要はそういうことだね」
智慧理はあまりゲームをやらないが、レベルアップと言われれば大まかなイメージは掴めた。
「それから認識攪乱機能。その目元の仮面を装着している限り、君の容姿は第三者から正常に認識されなくなる」
「えっと……?」
「要するにその仮面を着けている間は君の正体は誰にもバレないということさ。逆に正体を誰かに知らせたい場合は、その仮面を取ればいい」
「あっ、これ外せるんですね」
言われて初めて智慧理は目元のマスカレイドが着脱可能であることを知った。試しに1度外してもう1度装着してみる。
「あと邪神眷属の存在を感知する機能も一応搭載してあるんだけど……大抵の邪神眷属は魔術で自らの正体を隠しているから、これは正直あまり役に立たないかもしれない。ただその代わりという訳では無いけれど、最後にもう1つ、黒鐘さんが気に入るだろう機能があるんだ」
霞が悪戯っぽくニヤリと笑う。
「その機能は名付けるとしたら、シンプルに飛行機能」
「飛行、って……もしかして!?」
「ああ。空を自在に飛び回ることができる機能だ」
「ホントですか!?すご~い!!」
智慧理は思わず盛大に拍手をした。
空を自由に飛び回れると聞かされれば、テンションが上がって当然だ。
「どうやるんですか!?どうやったら私飛べるんですか!?」
「お、落ち着いて。とりあえずまず最初は空を飛ぶ自分の姿をイメージして……」
「あっできました!」
「早いね!?」
霞が説明を終えるよりも先に智慧理は方法を直感的に理解し、その体はふわりと宙に浮かび上がっていた。
「すご~い!!ホントに自由に飛べる~!!」
神社の境内をアクロバティックにビュンビュンと飛び回る智慧理。高所への抵抗や衝突の恐怖は一切感じさせない。
「あはは……私が教えることが無くなっちゃったな……」
自在に飛行する智慧理の姿を見上げ、霞は引き攣った顔で笑っていた。
「稲盛さん!もっと広いところで飛んでみていいですか!?」
「……そうだね。それじゃあ邪神眷属がいないかの見回りも兼ねて、街を飛んでみようか」