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モイラの年齢を変更いたしました。申し訳ありませんが、どうかご了承ください。
17歳→19歳
北嶺芋は出さないから安心していい、オーベルのその言葉にモイラは素で驚いたようだった。紺碧の瞳が丸くなり、妖艶な悪女の顔から年相応の少女の顔になる。
そういえばモイラはまだ十九歳、自分より六歳も年下なのだ。年齢差も体格差もある男である自分に相対するのは怖いこともあるだろうに、気丈なものだと思ってしまう。
(いや、私は何を考えているんだ。相手は社交界きっての悪女、多くの男を手玉に取った毒婦だぞ? わざと隙を見せるのも手管かもしれん)
そう考えて気を散らす。目の前にいるこの少女に多くの男の手が触れたのだと思うと訳の分からない不快感が腹の底から沸き上がってきて余計に気が乱れたが、奥歯を噛んでやり過ごす。
そこにモイラが追い打ちをかけた。先日の非を素直に詫びたのだ。
たしかにモイラの振る舞いは褒められたものではなかったが、こちらも意固地になったのだからお互い様だ。むしろ年下の少女に無理強いをした――決して変な意味ではない――オーベルの方の分が悪いくらいだ。
それなのにこちらを責めず、紺碧の瞳に悪感情を乗せず、オーベルをじっと見つめてくる。ひたすらに決まりが悪く、自分の表情がどんどんと険しくなっていくのを自覚した。
返す言葉はなかば凄むような口調になってしまったが、モイラに臆した様子はない。男を前に場慣れしているというより、恐れを知らないあどけなさが垣間見える。
少し観察するように見ていると、モイラは何かを堪えるように少し俯いて唇を噛みしめた。柔らかな唇が切れてしまいそうだ。そんなはずはないのに、今にも泣き出しそうな印象を受ける。見ていられなくて、オーベルは思わず声をかけた。
「……どうした?」
モイラは我に返ったように顔を上げた。その表情が途方に暮れた子供のようで、彼女がまだ十代の少女だということを痛感させる。
(していることはとんでもないが……分別のつかないような子供という年齢でもないが……親は彼女を諭さないのか?)
悪女らしい振る舞いや我侭に辟易することはあるが、少しずつ分かってきた感じ、彼女は愚かではない。こうと決めたら絶対に変えないという頑固さもない。北嶺芋についてこちらが譲歩を見せたら素直に謝罪したのもそれを示している。
シーシュ伯爵家については、彼女以外は取り立てて強い印象がない。社交界から距離を置いているオーベルにさえあれこれと噂が届いてきたモイラは例外としても、他の家族についてはあまり噂を聞かない。
現当主であるモイラの父親が愛妻家というのと、モイラの母親が若く美しいということくらいしか知らない。モイラと結婚するにあたって多少は調べたが、とくに問題になるようなことはなかったと思う。しいて言うならモイラの一歳下の妹が適齢期なのにまだ婚約が調っていないことくらいだろうか。モイラの二歳年下の弟も婚約の話を聞いていない。
(伯爵家について、調べたほうがいい……か?)
お節介かもしれないが、少し気になる。一見問題のなさそうな家族ではあるが、モイラが思ったよりもまともそうだったことがどうも引っかかる。
自分から求婚しておいて何だが、どんな娘が嫁いでくるのか、実はけっこう危ぶんでいた。自分や使用人たちに誰彼かまわず媚を売り、寝台に引き込み、悪びれずに外から愛人を呼ぶ、そんな事態も想定していた。
そのくらいの悪女でなければ、オーベルの出した条件――妻として遇するのは書類上だけであり、子が生まれてもこちらは一切関知せず、公爵夫人として使わせる金額は常識の範囲でこちらが定め、互いの行動には不干渉――なんて条件は飲まないだろうし、子ができた時に公爵家の継承を認めないことを周囲に納得させられないだろう。
だからこそ選んだ妻だが、どうも調子が狂う。違和感が残る。
モイラは我を取り戻したようにいつものような悪女らしく余裕ぶった微笑みを見せたが、それを見たままに受け取ることはできそうにない。
「大丈夫ですわ。仰る通り、抱えている秘密なんてたくさんありますけれど。女性の秘密を暴こうなんて、悪い方ね?」
そんなことを言ってオーベルを煙に巻こうとしてくる。しかし、言葉自体には妙に真実味があった。
(抱えている秘密……? 君は何を抱えている……? 男性関係のことだと仄めかしているが、本当にそうなのか……?)
誤魔化そうとする様子になぜか既視感があって、オーベルはモイラをじっと見つめた。
(何だ……? 何か、どこかでこれと同じようなものを見た気がするんだが。どこで見た……?)
脳内を探して浮かんできたのは、邸内をうろつく猫の様子だ。しなやかで美しく、つんと澄まして、悪戯をしつつも悪びれずに鳴いて気まぐれに愛嬌をふりまき、しかしなかなか懐いてくれない猫。それに似ている。
オーベルが一人で納得していると、モイラは優雅な仕草で立ち上がった。
どこか名残惜しい気がしたが、引き留める理由もない。見送るオーベルを振り返り、モイラは軽い口調で言った。
「三日後にさっそく繋路を使わせていただくわ。その翌日は朝食も不要よ。よろしくね」
ぱたんと、拒絶するようにドアが音を立てて閉まる。
(~~~~~~!)
叫び出さなかった自分を、オーベルは褒めてやりたくなった。
何回か深呼吸して気持ちを落ち着けようと試みる。
(落ち着け。落ち着くんだ。あいつは猫、あいつは猫……)
気まぐれで人間を振り回し、毛づくろいをして、のびのびと好き勝手なところに出入りする、猫だ。猫を相手に腹を立ててどうする。
そうは自分に言い聞かせてみるものの、波立った心はなかなか静まらない。
当たり前だ。堂々の浮気宣言なのだから。
繋路を使って王都に戻り、王都のどこかへ行く、もしくは王都からさらに繋路を使う。行先は知らないが、朝食が不要ということの意味は明らかだ。
三日後、モイラは誰かのもとで夜を過ごすつもりなのだ。
(…………。いや、最初からそういう話だったはずだ。互いに不干渉、彼女が誰を相手にしようが構わないと……)
それが、なぜ裏切られたような気分になるのだろうか。元から分かりきっていたことだというのに。三日後というのが思ったよりも早かった? いや、想定よりも遅かったくらいだ。
何も問題ない。……そのはずなのに。
(……ちくしょう)
オーベルは声に出さず、誰にともなく罵倒の言葉を呟いた。