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「――――!」
モイラの姿を認め、イポリタは目を見開いた。母親らしく慈愛に満ちた挨拶など期待していなかったが、予想は斜め下に裏切られた。
「――! その顔! 私のものよ!! 返して!!!」
「なっ……!」
いきなり掴みかかられて、モイラは仰け反った。とっさのことで、しかも相手が母親ということもあって、反撃ができない。かろうじて顔を遠ざけるが、イポリタは詰め寄るようにして甲高い声を上げた。
「どうして私なの! あなたじゃないの!」
その言葉に、モイラは衝撃を受けて固まった。
(まさか……顔を傷つけられるのは私であるべきだったと、私がそこまで身代わりをすべきだったと、そう言っているの……!?)
この人は、娘に何もかもを押し付けて恥じもしないのか。
あまりにあまりのことで、どう反応していいのか分からない。目を見開いたまま硬直したモイラを庇うように、オーベルが割って入った。
「それ以上は見過ごせない。貴女がモイラの母親であろうともだ。母親だとも呼びたくないくらいだ」
オーベルの言葉は冷静だが、底冷えがするくらいに冷たかった。彼も母親との間に問題を抱えていたようなので、重ね合わせて見ているのかもしれない。
そのオーベルがモイラに視線を向けた。イポリタに向けたものとは打って変わって優しく愛おしげな眼差しに、彼の怒りの理由を悟った。自分の母親と重ねているからというだけでなく、モイラを傷つけたから怒ってくれているのだ。そのことが、本当に嬉しい。
一人で戦わなくていい。その言葉通りに、オーベルはモイラを助けてくれる。
アラミアとドリアスも慌てた様子でモイラの傍に来た。母親からは迷惑をかけられ通しだが、こんな直接的に身の危険を感じたのは初めてなので、二人も驚いたのだろう。引き合わせたことを視線で謝られたので、軽く首を横に振る。
オーベルの牽制に怯んだイポリタを、後ろからディーアスが――モイラの父親ではないと判明してからは疎遠になった伯爵が――引き留めた。
夫として、妻の言動を見過ごせないのだろう。戒めてくれるのだろう。そう期待したが、こちらの予想も斜め下に裏切られた。
「――どうして来たんだ。何しに来たんだ?」
老齢の伯爵だが年齢相応の余裕さえ無く、イポリタではなくモイラを非難した。父親として過ごした年月も彼の中では無かったことになっているらしい。モイラを通してイポリタだけを見ていたのだとまざまざと見せつけられるようだ。
溜息をつきたいのを堪えて、モイラは伯爵を見返した。部屋にいることは分かっていたが、挨拶をする前にこんなことになってしまい、改めて挨拶をという空気でもない。礼を欠いているが、非難されるいわれもない。
しかし、何しに来たとはご挨拶だ。母親が刺されたと聞いたら心配して駆けつけるのが当たり前ではないか。モイラを娘と認めていないから、そんな当然のことさえ通らないということだろうか。
「もっとイポリタの気持ちを考えたらどうだ。見せつけるように派手なドレスと化粧で来おって」
「…………」
憎々しげに言われるが、別にこちらは非難されるような装いはしていない。実家ではなく他人の家を訪ねるつもりで礼に則った服装をしている。質のいいドレスであることは見れば分かるが、派手というには当たらない。お金がかかっているということを皮肉ったのだと思われる。
化粧についても、こちらも礼儀の範囲内だ。母の身代わりから解放されてからというもの、不必要に濃い化粧はしていない。化粧云々を言うならモイラよりもイポリタの方だろう。
訪問が急になってしまったことは事情が事情であるから仕方ないし、ろくな出迎えをしなかったのはそちら側の不手際でさえある。もっとも、アラミアとドリアスだけの出迎えがモイラにとっては一番嬉しかったのだが。
沈黙したモイラの代わりにオーベルが口を開いた。
「妻の装いは派手ではないし、場を弁えたものだ。私が用意したものに何か不満がおありか? そもそも、ここでは彼女に碌なドレスも与えていなかったようだが」
「…………」
今度はディーアスが沈黙した。オーベルはなおも続けた。
「シーシュ伯爵家の財政状況が厳しいことについては知っている。その原因が伯爵夫妻の浪費であることも。妻が私のもとへ来てからその傾向に拍車がかかっている事実が物語っているのだが、妻は社交界で言われているように浪費家ではない。むしろ逆で、金銭的な感覚も知識も相当なものだ。それなのに、悪評をすべて背負わせて素知らぬ顔をしていた貴方たちには正直非常に腹が立っている」
淡々と、しかし容赦ない怒りを込めて、オーベルは述べた。その迫力にディーアスは怯み、イポリタも勢いをなくした。
その様子を見て、モイラが覚えた感覚は――失望だけだった。
(ああ……こんなものなのか)
育ててくれた伯爵に、生んでくれた母に、好かれたいという気持ちがなかったとは言えない。しかし、それは永遠に報われないものだったし、もう葬り去ってしまうべき頃合いだろう。それに気付かせてくれた。
なおも二人を追及しようとするオーベルを引き留めて、モイラは進み出た。
そして、何を言われるのかと身構えた二人に向かって――思い切り手の平を打ち付けた。
パーン、バチーン、と聞くだけで痛そうな音が二連続で鳴った。モイラの手の平も痛んだが、ディーアスとイポリタの頬ほどではないだろう。イポリタに関しては傷口の上から思い切り引っぱたいたから痛みは加算されているだろうが、容赦する気はなかった。
「どうして来たんだ、何しに来たんだと訊いたわね?」
何が起きたのか分からないでいる二人に向かって、モイラはにっこりと笑みを浮かべた。
「きっと、こうするために来たんだわ。決着をつけるために。温かく迎えてくれたらお見舞いをして帰ることになったのでしょうけれど、そうはならなかったんだもの。サリアが私のために怒ってくれた時に思ったのだけど、怒るべき時ってあるのよね。すっきりしたわ」
ぱんぱんと手をはたいて言ったモイラに、ディーアスがようやく我を取り戻したのか顔を赤くして罵声を浴びせようとした。
しかし、オーベルがモイラを庇い、胸を突き飛ばすようにして引き離した。ディーアスが尻餅をつき、イポリタも床に転んだ。その様子を見ても、かわいそうだとは思わない。
「ありがとう、オーベル様」
庇ってくれたことと、怒ってくれたことに対してお礼を言う。モイラが顔を向けるべきはこちらだ。報われなかった伯爵家になど、もう用はない。
「ああ。……しかし、やるせないな。妻の実家とは上手くやっていくべきなのだろうが……これは無理だ。次代に期待だな」
当代に見切りをつけたと暗に言い、オーベルは二人に背を向けた。モイラもそれに倣う。けっきょく見舞いができなかったが、命には別条ないし動くのに不自由する怪我ではないと分かっただけで充分だ。これ以上ここに長居をしても意味はない。
背後からの視線を受け流し、アラミアとドリアスからだけの見送りを受けて、モイラとオーベルはシーシュ伯爵邸を後にした。
二度と、振り返らなかった。
「オーベル様、ちょっとお待ちになって」
そのままモイラを連れ帰ろうとしたオーベルに、モイラは声をかけた。オーベルが振り返る。
「どうした。大丈夫か? どこかで休んでいこうか」
「いえ、大丈夫よ。あのくらいは別に」
身代わりをした時の苦労を思えば何てこともない。モイラが言葉にしなかった部分を読み取ったのか、オーベルが表情を険しくした。
「本当に、怒っても怒り足りないな。言葉だけで済ませず制裁を加えておくべきだったか」
「いえ、本当にもう充分よ。お言葉はありがたいけど、あの程度の人たちにもうかかずらうべきではないと思えるもの。ドリアスが継ぐことを考えても、制裁はしないでおいてほしいわ」
「まあ……君がそう言うなら」
不満げなオーベルに少し笑って、モイラは本題を切り出した。
「結婚式のやり直しをすると言ってくださったときに思ったのだけど、今度こそ繋路を使わずに公爵邸に行こうと思うの。少し時間はかかるけれど、本来の嫁入りの形式を守ろうと思って」
そうした決まりの一切をすっ飛ばして計算ずくで行った結婚を、きちんとやり直したいのだ。
モイラの考えを伝えると、オーベルは頷いた。
「君のそうした姿勢は好ましいし、嬉しく思う。それなら、そうしようか。君が王都から北部までを移動する間に、私もエジェールのことなどを片付けておこう。君との初夜が遠くなるのが不満だが。まったく、いつまでお預けを食うのか……」
「……っ、オーベル様!」
「『社交界の悪女』が何をそんなに慌てているんだ?」
揶揄いの言葉を短く畳み、オーベルは腰をかがめてモイラの額に口付けた。
「無理をしない程度に、早く来てくれ。――待っているから」
「――はい」
モイラは応え、背伸びをしてオーベルの頬に口付けを返した。
――そうしてモイラが王都を発ち、北部の中でも北の方にある公爵邸に向かって、馬車や船で旅を続ける間。
王都では、美貌が損なわれたシーシュ伯爵夫人についての噂話が流れ、今まで袖にされた男性たちの恨みも噴出して、夫人の男性遍歴が面白おかしく取沙汰された。過去の不品行が語られ、結婚前や、第一子のモイラが生まれる前に関係を持った男性の名前が――信憑性の薄いものまで含めれば、結構な数が――挙げられ、三人の子供の血筋に対する疑いの目が向けられることになった。
しかしモイラは風の噂を耳にしても取り合う必要のないこととして聞き流し、アラミアとドリアスはオーベルが急いで流通に乗せた血縁判定薬の実例になることで薬の効果を広める広告塔になる結果となり、薬に対する注文が殺到した。値段は高いが、オーベルやモイラの想定以上に需要が多かったようだ。
そうした状況のなかで伯爵夫人はもとより伯爵も心労が重なったとみえ、社交界に顔を出さなくなった。代替わりが近いのではと人々は噂した。
そうして秋も深まる中、モイラは北部を旅して――新しい食べ方が広まった北嶺芋を行く先々で口にしながら――公爵邸に辿り着き、オーベルの抱擁に迎えられた。
パトリックとアラミアとドリアス、それにサリアとニックとフランとティムだけが出席する小ぢんまりした、しかし暖かい雰囲気の式の中、ひっそりと祝福の手紙が届けられた。
差出人のない、しかし封蝋に王家の紋章が捺された手紙には、二人の結婚を祝う簡潔な文言が記されていた。
本来の銀髪に戻ったモイラの髪色を見たパトリックは何やら察したような表情をした。才能は血筋で出ることと、珍しい銀髪が王家に出やすいこと、その二つからオーベルも、当人のモイラも薄々は察していたことではあった。
しかし言葉にはしなかった。血筋がどうあれ、これから本当の家族になる二人の前には些細なことだったからだ。
「――愛している、モイラ」
「――私もです、オーベル様」
言葉を交わし、「偏屈公爵」と「社交界の悪女」は、そこでようやく、初めての口付けを交わしたのだった。
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