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公爵邸に戻った後も、モイラとオーベルは視察の続きのように北部をあちこち回ることになった。オーベルが見せたいと言っていた北部のさまざまな景色を見ることができたのは嬉しいが、いかんせん忙しない。いつか観光目的でゆっくり来たいものだと話しつつ、北嶺芋の新しい食べ方について広める活動を活発にすることになった。
この国には各所に繋路があるため、とくに社交シーズンといったものは無い。昼間に避暑を楽しみつつ夜には王都に戻るような生活が簡単にできるからだ。
モイラが北部に嫁いできてから初めての夏だが、状況が変わらなければモイラも王都で社交――という名の母の尻拭い――をするつもりだったのだが、その必要がなくなった。母の不品行が知れ渡り、モイラを含めた子供たちが血筋に疑いの目を向けられることになっても、解決する目途が立ったからだ。社交界で偽りの悪女を演じることから解放され、心も体も羽が生えたように軽い。今までどれだけ無理を重ねてきたのかを今更ながら思い知る。
時間にも気持ちにも余裕ができたので、忙しない日々も乗り切っていける。北嶺芋に関することだけでなく、血縁判定薬を売り出すことについても同時に進めているから忙しいが、充実している。
「サンプルの三番についての留意点をまとめたから、これを分析の先生に届けて」
「かしこまりました」
頷いてモイラから書類を受け取ったのは、結婚当初に公爵夫人付きとしてモイラに割り当てられ、しかし不要だと断った使用人の女性だ。
モイラが色々と秘密を抱えていた――髪色のこととか、愛人のところにいるふりをしなければならなかったこととか、北嶺芋にアレルギーがあることとか――ためにサリア以外の使用人を遠ざけざるを得ず、そのときに外された使用人は今、ふたたび公爵夫人付きに戻され、北嶺芋や血縁判定薬のことを進める大きな助けになっている。人手が必要になったときに使えるように使用人たちを解雇せず留めてほしいとオーベルに願ったことがあったが、まさか本当に言葉通りになるとは思わなかった。たんなる方便だったはずなのだが。
そして、使用人を気遣ったモイラの意図がオーベルにも当の使用人たちにも読まれてしまったから少し居心地が悪い。使用人たちをモイラ付きとして再び戻されるとき、揃って感謝されてしまって狼狽えたことは記憶に新しい。
モイラに対して驚くほど好意的になってくれた使用人たちはサリアとも打ち解け、モイラの秘密も共有するようになっている。
北部は保守的で信心深い気風が強いので、それを隠れ蓑とする形で、公爵夫人として領民の前に出るときはベールで髪を隠すことにしている。信心深さを装うためではなくて髪色を隠すためだ。染めた黒髪を見せるのも、今まで隠してきた銀髪を見せるのも、どちらも抵抗がある。今はこうした形でやり過ごすのがいいだろうとオーベルも意見が一致した。
そうして北部のあちこちに顔を出しつつ、公爵邸に専門家を呼んで血縁判定薬の話を詰めつつ、気分転換に庭を散歩してニックと話したり、外でお茶を楽しんだりもする。
オーベルもモイラに倣うかたちで休憩を外で取ることが多くなった。ちょうど今もオーベルと鉢合わせたので、サリアにテーブルを整えてもらって一緒にお茶をすることになった。
パトリックのところで仲良くなったフランとも個人的にやり取りをするようになったので、薬草茶の幅がさらに広くなった。オーベルの反応を見つつ新しい配合を考えるのも楽しい。
夏らしく爽やかな香りのお茶をオーベルと一緒に楽しむ時間は至福だ。心を許せる相手が増えて、しかもそれが夫たる公爵で、心強いことこの上ない。隙を見せるとモイラを揶揄ってきたり触れようとしてきたりするので油断できないが、ともかくも対外的には全面的にモイラの味方だ。
束の間の休息に、話しながらのんびりとお茶を飲んでいたときのことだった。
がさごそと茂みが鳴る音が聞こえ、そちらを向くと猫が顔を出した。野良なのか飼われていると言うべきなのかよく分からない、公爵邸に住み着いている猫の一匹だ。
汚れては困るドレスしか持っていなかった時とは違い、今では猫たちともいい関係を築けている。撫でれば喉を鳴らして甘えてくれるし、一緒に日向ぼっこをすることもあるし、ちょっとしたおやつを分け与えることもある。
そうしたことのお礼なのか、猫は何かを口に咥えていた。モイラの足元にぽとりと落とし、得意げににゃあと鳴く。何かと見てみれば、大きな虫だった。それを見たオーベルが顔をひきつらせた。
だが、モイラは別に平気だ。猫と目を合わせてお礼を言う。
「くれるの? ありがとう。でも私は虫を食べられないから、それはあなたが持っていって。お礼にこれをどうぞ」
自分の皿の上から、オープンサンドに載っていた茹で玉子のスライスを摘まんで差し出す。塩やソースなどがついていない部分だ。
猫はふんふんと匂いを嗅ぐような仕草をした後、舐めるようにして齧り始めた。そのままぺろりと平らげると、丸くなって毛づくろいを始めた。虫は食べるつもりなのか遊ぶつもりなのか分からないが、ともかくも機嫌がよさそうだ。
それを微妙な表情で眺めつつ、オーベルがモイラに問うた。
「君は、その……平気なのか?」
「草木を相手にしていれば虫にも慣れるわ。このくらいは別になんでもないわ」
「いや、まあ、そうなのだろうが……。虫がそこまで平気なのも、猫が苦手でないのも、ちょっと驚いた」
「?」
モイラが首を傾げると、オーベルは思い出すようにして説明した。
「以前、君が猫を避けていたのを見たことがある。虫については、虫や蛇などのことが分かる能力でなくてよかったと言っていたように思うが」
「ああ……なるほど」
そういえばそんなことを言った覚えがあるような気がする。草木については抵抗なく食用にできるが、もしも自分の才能が虫や蛇などの方に向いていたら、食べるものに困っている時でもなかなか手を出しにくかったかもしれないとは常々考えていた。猫を避けていたというのは着るものに不自由していた頃のことだろう。
要は、貧乏性だということだ。お金に困っていた経験ゆえだ。大貴族の当主を前に明かしたい事情ではないが、オーベルは何かに勘づいたのか、笑って圧力をかけた。
「一定の信頼関係はできたと思ったのだが、夫婦間に不要な隠し事はすまいな?」
「あ、はは……ええっと……」
空笑いで誤魔化そうとするが、誤魔化されてくれない。仕方なくモイラは白状した。
オーベルは目を剥いたが、黙って聞いていた。事情を聞き終えると、黙ったままモイラの前に皿を滑らせた。軽食やお茶菓子が載っている。
「とりあえず食べろ。とにかく食べろ。猫を餌付けしてる場合じゃない、まずは君自身がちゃんと食べるべきだ」
「充分に頂いているけれど……?」
「これまでの分を取り返すだけ食べろ。それ以上にもだ。着るものも、まさかそこまでとは……」
好みのドレスを注文するどころか自分たちでやりくりし、染めることさえしていたことにオーベルはいたく衝撃を受けたようだった。好みではなく必要性とほかの選択肢が無いことによってモイラが露出過多の格好をしていたのだと、なんとなくは察していただろうが、改めて聞かされると衝撃が大きいと見える。なにせ公爵家の当主だ、食べるものも着るものも不自由するどころか、不自由という概念がなかったのだろうから。
「君はたくさん秘密を抱えているなどと言ったが……こんな秘密だなんて、誰が想像する?」
モイラは目を逸らした。




