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心を預けたせいか、ぐったりと体が重い。気を張っていなくてもいいのだと許され、徹夜明けの疲労ものしかかって瞼が重い。
だから、オーベルがモイラの体を抱え上げるのを抵抗もせずに受け入れた。水仙の間の大きな寝台に下ろされたときも、そのまま眠っていいと甘やかしてくれるのかとぼんやりと思った。
――甘かった。
森を歩く前に着替えたドレスは多少汚れているだろうが、高価な一張羅でもないのだし、着替えずにそのまま眠っていいだろう。靴を脱いであとは睡魔に身を任せるだけだ。変更できない予定が入っているならオーベルが起こしてくれるはずだ――と、思ったのに。
当のオーベルはモイラを眠らせてくれるどころか、自身も靴を脱いで同じ寝台に上がった。広いから大人二人が並んで眠っても充分な余裕がある。オーベルも眠いのだろうか、などとうとうとしながら考えていた自分はつくづく甘かったのだとようやく悟った。――オーベルがモイラの上に覆いかぶさるような体勢になり、モイラの両腕を寝台に縫い留めるように掴んだ、その時に。
頭が重い今でさえ、この状況が不穏だということは分かった。いくら眠かろうと、このまま眠っていい状況ではないということは。
「……オーベル様の前で、私は悪女を返上したはずですが……?」
訴えると、オーベルは少し口の端を上げてみせた。目は笑っていない。
「その前に、私を謀ったことを都合よく忘れていないか? 悪女のふりもそうだし、もっと大きな隠し事もしてくれたしな?」
「…………! 守ると言ってくださったでしょう!?」
「社交界や、血筋にまつわる厄介ごとから守ると言ったんだ。守ると言ったし、言ったことは守る。君は私のものだからな」
「なっ……!」
「大事にするぞ? 公的には領主として領地を大事にするように、私的には君の夫として君を大事にしよう」
言いながら、モイラの目を見つめて甘く微笑む。口元だけの笑みとは違う、蕩けるような笑みに目を奪われ、反論の言葉が出てこない。
オーベルの言葉に偽りはないだろうと信じられた。彼が北部のことをどれほど大事にして愛しているか、傍から見ているだけでもよく分かる。あの細やかな思いが自分に向けられたらと想像してしまうと頬が熱くなる。
(だけど! 今いちばん危険なのはどう見てもオーベル様ご自身でしょう……! 守ると仰った本人のくせに!)
腹立ちまぎれに睨みつけるが、まったく堪えていないようだ。表情はあくまでも優しく、しかし口調は意地悪そうに言葉を返す。
「逆効果だぞ。それとも煽っているのか? 赤らんだ頬で、潤んだ目で、毛を逆立てた猫みたいに威嚇して……そそられるだけなんだが」
そのまま顔が近づき、額に口づけが落とされた。声がほとんど耳に直接吹き込まれるように囁かれる。
「どんな罰がお望みだ? 私を謀ったのだから、相応の覚悟はしているんだろうな? それとも、悪女として磨いた手練手管を以て逃げてみせるか?」
ついに、体が重なる。密着して覆いかぶさられ、羞恥心が限界に達した。こんな状態を許した相手なんていないし、この状況で使える手練手管なんて持っていない。
「……っ、契約違反ですわ、旦那様! まだ取り決めも変えていないのに!」
「そうだな。そもそも君が離婚などという契約破棄を言い出したところから話そうか」
「~~~~!」
逃げられない。しかし流されるわけにもいかない。もがくと、オーベルが少し動きを止めた。
「……そんなに嫌か?」
「嫌では、ありませんけれど……ちょっと状況についていけなくて! だって……朝ですし! 人様のお宅ですし! 結婚式の時も形だけをなぞっただけで、誓いの口づけすらしていませんし!」
「…………」
オーベルが戸惑ったように少し身を起こした。モイラと目を合わせ、不可解そうに言う。
「……ちょっと悪女設定から離れすぎじゃないか? 初心な乙女でもあるまいし……」
「…………」
「……まさか、そうなのか!? あれだけ浮名を流しておきながら、ただの一人とも……そういう関係になったことがないと!?」
「……そんな関係になりたいとも思いませんでしたし、なるわけにもいかなかったのですもの。まさか『社交界の悪女』が……そう、だなんて。誰に知られても悪評以上の厄介ごとを呼び寄せる未来しか見えませんわ」
オーベルは絶句し、しばし固まった。そのまま何やら葛藤しているようだったが、半ば無理やりのように体を引きはがして起き上がった。
「モイラ……」
「はい」
「正直に言うと、嬉しい。君が少しくらいほかの男とそういった関係にあったとしても構わないと思ってはいたが、独占できるならそうしたい。どうやら私は、独占欲が強いようだから」
「え、えっと……」
「だが同じくらい、苦しい。そんなことを知らされてしまったら、軽々しく手を出せないではないか。こんなに近くに、手の届くところにいるのに。はっきり言って生殺しだ」
オーベルは切なげな、熱の籠った眼差しでモイラの体をなぞるように見た。体がかっと熱くなり、視線から逃れようと身をよじるが、それが却って逆効果だと思い知らされる。視線の熱が身を焦がしそうだ。
こうした視線を向けられた経験は多いし、心を鎧って受け流す術も身につけている。視線はどうせ表面にしか届かないのだし、その下の肢体を想像させる蠱惑的なドレスを選んで纏ったのは自分だ。不愉快だが対処可能なもの、仕方ないものとして受け流してきたそれが、今は身の奥までをも焦がすように感じる。オーベルが相手だと、こうも違うものか。驚きつつ、心を乱されつつ――嫌ではない。
強く求められたら突っぱねることはできないかもしれない。自信がない。ここで彼を受け容れることができない理由が、心の整理がついていないからという曖昧な理由しかないのだ。
オーベルの視線がモイラの顔に戻ってくる。しばし目を合わせ、モイラの戸惑いを見て取ったのか、オーベルは目を瞑って何かを堪えるような表情をした。
「……君は十九歳だな?」
「? はい」
「私は二十五だ。六つも違う。そんな年下の少女に、ここで我を忘れて襲い掛かるような真似なんて出来るわけがない。してはいけない。……」
自分に言い聞かせるように、苦悩しつつ葛藤するような複雑な表情でオーベルは声に出した。自分を求める熱烈な独白に、モイラの胸の奥がうずく。それでも、では今すぐにどうぞ、とまでは思い切れない。昨日からいろいろなことがありすぎていっぱいいっぱいだ。
オーベルは一つ溜息をついて思い切ると、寝具をふわりとモイラの体に掛けてくれた。視線が遮られ、心地よく安心できる柔らかい寝具の感触が体の上にある。
「少し眠るといい。私は先……父と話を詰めてくる。腹を割ったやり取りができるから話が早く進むはずだ。君に同席してもらわなくても大丈夫だろう」
「それなら……」
起き上がって礼を言おうとすると、そっと押し戻された。
「そのままでいい。寝ていろ。それと……」
オーベルは少し逡巡した様子だったが、思い切ったように寝具の下にモイラの手を探り当てた。指を絡め、壊れ物を扱うようにそっと握られる。
「ああ、やっぱり。君はいつか、眠る私の手をこうやって繋いでいてくれたことがあっただろう?」
「……覚えておいででしたか」
「頭ではよく覚えていないのだが、手が覚えていた。安心できる感覚を思い出した」
優しい声が落とされる。
「その時のお返しだ。せめて君が眠りに入るときまでは、こうしていよう」
声も、手の暖かさも、心をじんわりと温めてくれる。
モイラはいつしか眠りに引き込まれていた。
「……まったく。私を謀ったうえにここまで焦らすのだから……君は立派な悪女だ」
オーベルが苦笑して呟いた声は、夢の中に溶けた。




