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オーベルは絶句し、沈黙した。
(言ってしまった……)
モイラは涙の残る目を伏せ、肩を落とした。観念するしかない。これ以上は黙っていられないし、欺き続けることもできなかった。そんな不誠実な真似は御免だ。
モイラは二重に人々を、そしてオーベルを欺いていた。悪女を装ったことで一つ、血筋を偽ったことでもう一つ。そうするしかなかったとはいえ、気持ちのいいものではないし、理解されるとも思っていない。
染髪剤を落とす薬品を持っていたのは、もしもの時のためだ。変装して逃げる必要が出てきた場合など、手っ取り早く別人を装うにはモイラの場合、髪色を戻すのが一番いい。黒髪の女性を探そうとするなら、銀髪に戻ればまず疑われないからだ。黒を銀に染めるのはモイラの知る限り不可能だ。
そんな風に偽ることばかりを考えてしまうから。髪色を、血筋を、悪女のふるまいを、偽ってきた自分だから。自分というものがどこにあるのか、自分は何を望んでいるのか、望んでいいのか、もう分からない。
ぐちゃぐちゃになった心にとどめを刺された気分だ。オーベルが立場を確かなものにして喜ばしいはずなのに、それに引き換え自分は、と考えてしまう。公爵家の当主として、父に愛される息子として、何もかもを手に入れられるだろう彼が――羨ましくてたまらない。
自分には、何もないのに。
そんなことを、つっかえながら声に出す。もう何も隠すことはないとばかり、懺悔のように語る。それがせめてもの償いだとばかりに。
語り終え、裁定を待つ罪人のような心境でモイラは項垂れていた顔を上げた。オーベルにしてみれば迷惑な話だろう。せっかく長年の懸念であった血筋の問題に片がつき、安堵とともに喜びを感じていただろうに、それに水を差すようなことを話してしまって。自分たちの今後に関わるから話さざるを得なかったが、聞いて愉快なものではなかったはずだ。
「……なるほど、だから離婚をと。血筋を偽り、悪女を偽った結果、公爵家の利になるものが何も残らないばかりか、マイナス面が大きいからと」
「……その通りですわ」
「一つだけ聞く。私のことが嫌いだから、私のことが嫌だから遠ざかりたいと、そういうわけではないのだな?」
「え……それは、もちろん。よくしてくださって感謝しておりますわ。だからこそ申し訳なくて……」
だからこそ身を引くべきなのだ、と続けようとしたときだった。
オーベルが、いきなりモイラを抱きすくめた。
(…………!?)
硬直して思考が真っ白になる。抵抗どころか反応もできないでいるうちに、オーベルの腕にさらに力が籠った。
「……嫌だったら言ってくれ。離してやれる自信はないが努力する。……本気で嫌がられたらさすがに私も気が咎めるから、本当に嫌なら抵抗してくれ」
そんなことを、縋るような声で言われる。頭の上から低い声が降ってくる。抱きしめられて今更のように意識してしまうのだが、オーベルは体格がいい。元々が長身であるうえに鍛えられており、実用的な筋肉がついている。自分とはまったく違う面ばかりが意識されて、ぐちゃぐちゃだったモイラの頭の中がさらに引っ掻き回された。
「……やめて、ください……」
「嫌か?」
「……そういう、問題ではなくて……いいはずが、ないでしょう。私はこんななのに……。求められたり、慰められたり、そんなことをされていいはずがないのに……」
オーベルが少し笑う気配がした。余裕を取り戻したような感じがする。
「君は、社交界に名だたる悪女ではなかったのか? 私ひとりくらい、どうとでも掌の上で転がせるだろう?」
「だから、それはふりなのだと言ったでしょう! それを知られている相手に手練手管なんて使えませんわ!」
「私は興味があるな。君の手練手管とやらを使われてみたい。知られているくらいが何だ、ちょうどいいハンデだと思ってやってみたらどうだ」
「え……? ちょっ、きゃあっ!?」
耳元で囁かれ、そのまま耳朶を唇で挟まれて軽く噛まれた。背中に回された腕にさらに力が籠められ、急くような熱が伝わってくる。このまま噛んで、舐めて、すべて貪りつくしてしまいたいと彼が思っていることが、言葉もなく雄弁に伝わってくる。
(…………!?!?)
モイラはこれでも「社交界の悪女」だ。男性から欲望を向けられ、それを弄び、あるいは躱し、注目だけを惹きつけて上手く立ち回ってきた経験がある。
それでもそれらは、あくまで「ふり」だった。誰にも、ここまでの近距離で気持ちをぶつけられたことはない。――応えたいと思ってしまうことも、初めてだ。
「――悪女なんだろう? もっと私を、夢中にさせてみせればいい」
指で優しく髪をかき分けられたと思ったら大きな手で頭を支えられるようにされ、腕ばかりではなく体全体で自分を包み込まれるように触れ合わされ、力が抜けてモイラはへたりこむように座り込んだ。下は絨毯だから痛くも冷たくもないが、むしろその方がよかったかもしれない。モイラの体を支えて倒れこむ速度を緩やかにし、一緒に膝を落とすようにしてさらに深く抱き込むようにするオーベルの熱が、頭の芯を蕩かすようだ。
「……悪女、だから。悪いことをしたのだから……受けるべきは罰、なのに……」
どうしてこんなに、愛しそうに、大切そうに、たまらないように触れられているのだろう。おかしい。分からない。
「受けるべきは罰じゃない。罰ではなく慰めと、称賛だ。こんなか細い体で、本当によく頑張ったと思う。……辛かっただろう」
その言葉に、箍が外れた。
「…………っ!」
涙腺が一気に崩壊し、涙が溢れて止まらない。オーベルの胸に顔を押しつけ、モイラは泣きじゃくった。
辛かった。大変だった。自分がこんな風に生まれたせいなのだから、ぜんぶ自分で引き受けないといけないと追い詰められていた。理解者はいても肩代わりしてくれる人なんていないし、させるわけにもいかない。自分ひとりですべてを背負い込んで、すべてが終わったら自分ひとりが切り捨てられれば済む話にして、それでも、ずっと願わずにいられなかった。
「……たすけて……」
「任せろ。公爵家の当主としての立場も、私自身の力も、すべて君がくれたものだ。それを以て、社交界の悪評からも、血筋にまつわる厄介ごとからも、君を守ってみせる。――君はもう、一人で戦わなくていい」
――ああ。
――――ずっと誰かに、そう言ってほしかった。




