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こくりと喉を鳴らしたのは誰なのか、分からない。モイラは息をつめて反応を待った。
ほんの一瞬のはずなのに、妙に時間が引き延ばされて感じられる。張り詰めたような緊張感が漂っている。
(どうか、濃い青になりますように……!)
モイラは心から願った。
オーベルはいい領主だとモイラも思う。適正があるし、本人もその役目を嫌がっているわけではない。血筋に信を置けないという理由さえなければ彼はそのまま領主を務め続け、領地を富ませるだろうことはモイラにも見て取れる。パトリックも同じことを思っているだろう。
血筋さえ証明されれば万事が丸く収まる。オーベルは領主の座を確かなものにし、パトリックとの間のわだかまりも解ける。どちらのためにも、血縁が証明されてほしい。
――たとえそれが、モイラをオーベルから引き離すことになろうとも。
公爵家の血を継ぐことを確かめられたオーベルは、名実ともに公爵家の当主になる。親戚に家督を譲るまでの中継ぎではなく、何の制限もなく大貴族の当主として立てる。
そもそも、彼が結婚を厭っていたのは血筋の不確かさが大きな理由だ。本人の女嫌いの傾向とて、彼の母親の不実な態度に対する印象に引きずられた部分が大きいのだろうから、自分が公爵と母との間の子であると確かめられたのなら、少しは母親を見直して改善する余地があるだろう。
子供を持たないということについても同様だ。血筋が確かであれば、子供を持たないどころか持たなければならないという使命感さえ生まれるかもしれない。
公爵家という貴族の中でも有数の立場を持つ家の当主なのだから、少々偏屈な女嫌いでも、相応の相手と結婚して跡継ぎを設けることはほとんど義務のようなものだろう。
相応の相手、すなわち、立場があって身持ちのよい女性だ。――社交界の悪女たるモイラのような者ではなくて。
(……フランさんは、そういうおつもりで私の気持ちを確かめたわけではなかったのだけど。結果的に同じことよね……)
薬作りの前にフランから問いかけられた、夫たるオーベルについて妻としてどう思うか、ということについてだ。彼が公爵家の血を継がないと分かった場合、モイラはどうするのか、試薬を作るならそのことをきちんと考えて覚悟の上でしなければならないと暗に諭してくれたのだ。血筋を持たない彼であっても愛せるか、妻としてやっていくつもりなのかという含みのある問いだった。
モイラはその意図を正しく受け取ったが、実のところ状況は正反対だった。理由は簡単で、モイラの血筋が正しくないからだ。
むしろモイラにとって、オーベルがパトリックの実子である場合の方が、状況の変化が大きい。悪女という評判をさて措いても、モイラはシーシュ伯爵家の血を継いでいないのだ。しかもそれを実家の者に知られている。折り合いがよくない上に資金難に陥っている伯爵家だから、そのことを種に公爵家を揺さぶる可能性を捨てきれない。
モイラの生まれについて明らかにすることは弟ドリアスと妹アラミアの血筋への疑いも同時に招くものだから痛み分けではあるのだが、背に腹は代えられないとばかりに脅しの種にしてくるかもしれない。名目だけの妻であるモイラを公爵家が庇う利点は無いし、反対に、これ幸いとばかりに離縁するかもしれない。オーベルはこう見えて優しい人だから躊躇するかもしれないが、そういう人だからこそモイラのことで煩わせるのは申し訳ない。
オーベルの血筋が正しいものであった場合、モイラは用済みどころか邪魔な存在になるのだ。生まれと実家に火種を抱え、社交界における評判は最悪、しかも正妻だから離縁しないと他の女性を妻に迎えて嫡子をもうけることもできない。いいことが何もない。自ら身を引くことを考えるべきだ。
逆に、オーベルが公爵家の血を継いでいない場合。その場合は何も変わらない。オーベルは当主の座を中継ぎとして維持するだろうし、モイラを名目上の妻として必要な状況は維持されたままだ。パトリックとオーベルの間がぎくしゃくするかもしれないが、少なくともパトリックの側は淡々と事実を受け容れそうな気がする。生真面目なオーベルが申し訳なさに委縮し、女嫌いの偏屈具合が一層ひどくなるかもしれないが、公には何も変わらない。
だから、モイラにとっては、オーベルの血筋が正しくない方がいいのだ。
(だからといって……そんなことを望んだりできない。パトリック様もオーベル様も、等しく報われてほしい。そう願わずにはいられないもの)
祈るような気持ちで、モイラは試薬の反応を見つめた。
三者がそれぞれに息をつめて見守るなか、試薬の色が変わっていく。薄い赤から――濃い青へと。
「おお……!」
声を出したのはパトリックだ。あまり表情を変えない人だが、今は歓喜に顔が輝いている。
オーベルはどこか呆然とした様子だ。信じていいのか、信じたいけれど信じられない、そんなふうに瞬いて青い試薬を見つめている。
「……おめでとうございます、パトリック様、オーベル様。間違いなく、一親等の反応ですわ」
モイラは、近くに置いてある青い試薬を二つ、比較対象として同じテーブルに乗せた。見比べてみると同じ濃さなのが瞭然だ。
「そうか……そうなのか……」
オーベルはまだ実感を伴わない様子で、うわごとのように繰り返した。
そんなオーベルに、パトリックが歩み寄った。
「こんな日が来るとは思わなんだ……。息子だと言い続けてきたが、頷いてはくれんかったな。今度こそ、認めてくれるか?」
「……ええ。…………父上」
小さな声で、しかしはっきりと、オーベルは言葉にした。静かに、しかし固く、二人は抱擁を交わす。
(……よかった。本当に。……これで、よかったのよ……)
二人の血縁が証明されたのは本当に嬉しい。どちらにとってもいいことだ。それに自分の作った試薬が役立ってくれたということも心を温かくした。人の役に立てるということは本当に嬉しいことだ。自分のときは不幸な結果になったし、作らなければよかったとさえ思ったが、それがすべて報われた。
抱擁を解いたパトリックがモイラに向かって頭を下げた。
「本当にありがとう。何とお礼を言っていいか分からん。息子の妻になってくれて、北嶺芋の不作を解決してくれて、我々の血筋の問題さえ解決してくれた。計り知れない恩義だ」
「……いえ。結婚は互いに納得して行ったことですし、北嶺芋の問題解決についても公爵家の実行力あってのことです。お血筋に関しても、試薬がお役に立てたのなら、こちらこそ光栄なことですので」
パトリックに対しては、笑顔で返せた。すべて本心からの言葉だ。
だが、オーベルに対しては駄目だった。
「私からも感謝を。本当にありがとう。……君と結婚してよかった」
「……っ!」
幸福そうな表情で、そんなことをモイラに言うものだから。自分はもう、この人の傍にいられないのに。
モイラは身を翻し、部屋から走り出た。失礼な振る舞いであることは承知していたが――涙声で辞去の挨拶を述べるよりもましだろう。
フランが驚いた顔をしているのを横目に、走って水仙の間へと戻る。本当は森に逃げ込みたいが、どこで誰と会うか分からない以上、下手な行動はできない。モイラはまだ、オーベルの妻なのだから。
ベッドに突っ伏して泣きたいのをこらえ、続きの間へ入って鍵を閉めようとする。
そこへ、オーベルがモイラを追うかたちで息を切らしながら戻ってきた。モイラと比べるべくもなく足が速いはずだが、フランに簡単な説明をするなどしたのだろう。
「どうしたんだ!?」
小部屋に逃げ込もうとして逃げ遅れ、オーベルに手首を掴まれ、案じるように覗き込まれてしまう。
モイラは涙に濡れた顔を上げ、言った。
「私と離婚してくださいませ」




