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悪女の結婚  作者: 名無し
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 モイラが帰ってこない。

 水仙の間で休むに休めず、手持無沙汰に書類を眺めていたオーベルのところに来た知らせは、モイラがフランのところで夜を過ごすというものだった。薬草談義か何らかの実験を行うのか分からないが、彼女の行動としてあり得るものだと納得し、オーベルは一応の落ち着きを得た。

 むしろ、ほっとした。夜の寝室などで下手に彼女と顔を合わせてしまったら、自分がどう動くか自分のことが信用ならない。彼女が社交界のみならず自分をも欺いていたことについては追及を緩めるつもりはないが、夜の密室ですべき話ではないだろう。悪女という役割を離れて美しく装ったモイラの姿が脳裏から離れてくれないし、必要以上に追い詰めてなしくずしに一線を越えてしまう誘惑に抗える自信がない。

 ――その資格もないくせに。

(……そうだな。そうだよな……)

 自分を戒める自分の内心の声に自嘲する。自分が公爵家の血を引かない可能性があることについては割り切っていたはずなのだが、未練がましく思ってしまう。もしも自分が正当な公爵家の跡継ぎで、モイラを名実ともに妻にできたら、と。

 彼女が本当に遊び好きの悪女であったなら、割り切った関係ならどうだと誘いをかけてしまったかもしれない。しかし悪女のふりをしているだけだと知ってしまったからには、そんなことはできない。

(いや、そもそも彼女の男性関係についてはどうなんだ……!? 隠し子がいるわけではないことは分かったし、母親の男性関係を名目だけ肩代わりしていることは分かったが……彼女自身についてはどうなんだ!?)

 最初は苦手だったはずのモイラのことが気になって仕方ない。自分の母親を重ねて見ていたことは自覚している。黒髪も、妖艶さも、放埓な態度も苦手そのものだったのだが……彼女が悪女を取り繕う様子は痛々しくもしたたかで、真実を知ってなおオーベルの目を奪う。自分と母親との繋がりを過度に思い出させるからと厭っていた黒髪も、彼女のそれを見れば美しいと思える。偏屈だ女嫌いだと悪友たちに揶揄われていた自分でも、彼女なら欲しいと思える。――手が届かなくても。

(……いかん)

 オーベルは頭を振った。今更ながらロビンの気持ちが分かる気がする。手が届かなくても、無理やりにでも、欲しくなってしまうのだ。

 悪女の在り方が彼女の演技であってほしい、と思ったことがある。実際にそうだと知った今、軽率にそんなことを思った自分を殴りたい気分だ。手に入らないのが一層つらくなるだけではないか。

 それならばいっそ力ずくで、と思考は堂々巡りになっていく。これ以上悶々と考えていても危険な方向に行くだけなので、オーベルは思考を打ち切って椅子に身を沈めた。大きな寝台に体を横たえたいという誘惑はあったが、一人で使うのは色々な意味で抵抗がある。空しいだけだし、モイラが戻ってきて使いたいと思うかもしれないし、彼女がよそで夜を過ごしているというのに自分だけ大きな寝台で安眠するのはなんとなく気が引けるというのもある。ともかくも寝台からは目を背け、少しだけと念じて椅子の上で目を瞑った。


 少し休むだけのつもりが寝入ってしまっていたらしい。気付けば外が明るかった。夏だから明るくなるのが早いということを差し引いても、十分すぎるくらいの睡眠を取ってしまった形だ。

 はっとして、体を起こす。今日は夜に公爵邸に戻ることになっている。それまでの道中や昼までの滞在ですべきことを頭の中でざっと確認し、予定を組み立てた。

 まずは着替えだ。あまりくつろいだ格好はしていなかったが、人前に出るなら着替えたい。続きの間に入って手早く身なりを整えつつ、ふと視線を落とす。

(結局、戻らなかったな……)

 モイラは夜じゅう、フランのところにいたのだろうか。オーベルのところに戻ってくるとは思わなかったが、実際こうやって彼女のいない夜を過ごすと不在が身に染みる。一度も夜を共に過ごしたことのない相手だというのに、いるべき者がいないと思ってしまう。いたところで別々の部屋で眠るしかないのだが、それでも近くにいたかったなどと思ってしまう。

 朝食の時間には顔を合わせられるだろう。彼女はあまり好き嫌いがなさそうだから――それこそアレルギーがあるといった理由でもなければ――ここの朝食は気に入るだろう。先代お抱えの料理人の腕は確かだし、新鮮な食材も手に入る。

 夢中になって食べる彼女の姿を見ているとついつい微笑みを誘われてしまう。つんと澄ました猫が好物を前にして我慢できなくなっている様子を思い浮かべてしまう。

 昨夜の晩餐もそんな感じだったと思い出し、ふと口元が緩む。

 そのときドアが開き、硬い表情をしたモイラが部屋に入ってきた。どことなく緊張感さえ漂う彼女の様子に面食らい、オーベルは思わず立ち上がった。

「どうした、何かあったのか」

 彼女が噂通りの悪女であるとはもう疑っていない。どこかで男性を誑し込んできたと思ったわけではなく、むしろ逆だ。悪女という虚飾を剥がした彼女はまだあどけない少女で、心配になるくらい頼りなく無防備に見える。ロビンのように無理強いをしようとする者がいてもまったく驚かない。

「……いえ、何も。何かあるのはこれからですわ」

「は……?」

 案じるように目を向けると、逆にオーベルのことを心配するような視線を返されてしまった。さらに面食らってオーベルは眉を寄せた。

「寝てないのか? 疲れてるんだろう。朝食を遅らせて少し休んだらどうだ。寝台は使っていないから」

「え……それは、お気持ちはすごく有り難いのですけど。オーベル様こそきちんとお休みになるべきでしたわ。疲れていると思考が後ろ向きになってしまいますし」

「いや、十分に休んだ。それより、いったい何を案じているんだ? フランのところに行ったと聞いたが」

 悪女のふりをしてオーベルをも謀っていたことをうやむやにしようとしているのではなさそうだ。何か言い出しにくそうな、何か重要そうな、そんな話をしようとしているように見える。

 モイラは少し逡巡する様子を見せて応えた。

「ええ、フランさんに問われて考えましたの。オーベル様のことをどう考えるかというより、私自身の立ち位置についてですわね。私にとってオーベル様は名目だけの旦那様ですが、ちょっと状況が変わるかもしれないので……」

「……ちょっと待った。君たちはいったい、何について話していたんだ? お茶とか薬とか森とか、そういった話をしに行ったのではなかったのか?」

「もちろん致しました。薬づくりもしました。完成したものをパトリック様に献上して、効果もお確かめいただきました。一族で仕えているとか、親戚縁者とともに仕えているとか、そういった使用人がこのお城には多いようですわね」

 モイラが何を言っているのか分からない。なんだか一晩のうちに色々とあったようだが、話が見えない。しかしそれが半ばわざとであったことを、オーベルはモイラに促されて連れてこられた部屋で知った。

 人払いをした小さな部屋の中で、先代公爵パトリックは、オーベルに小さなナイフを突きつけた。柄がこちらに向いたそれを受け取るよう促し、かすかに震える声で言った。

「机の上にあるのは、血縁関係を判定できる試薬だ。彼女に作ってもらった。儂の血はすでに入れてある。そこに一滴、血を落としてくれんか?」

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