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「エジェール様、その前にこちらをご覧になって」
今しも自分を抱きすくめようとしているエジェールに向かって、モイラは嫣然と微笑んだ。
そして、手をそっと自分の胸元に持っていく。
エジェールの動きが止まり、視線がそちらへ動いた。
女性を抱きしめようとする衝動に駆られた男性を前に、しかしモイラは臆さない。この程度のことで動じていては社交界の悪女を名乗れない。嬉しくないことにモイラはこういった状況に慣れているし、切り抜け方も知っている。
衝動が強いものであれ、視線を動かせばこちらのものだ。逃げる様子を見せないモイラを抱きしめるのは後でもできるという無意識の算段、余裕に付け込む形で、視線を誘導する。モイラが何を言うのか、何をするのか、その期待を絡め取るように微笑む。
そして、胸元を飾る薔薇のコサージュを外した。花にキスを落として、そのままエジェールの口元に差し出す。
間接キスをねだるように差し出された花に、エジェールがふらふらと顔を近付けた。その鼻先で、薔薇がむせ返るような香りを放つ。
(うまくいったかしら)
キスを落とすふりをして、花びらに擬した薄い袋を嚙み破っておいた。酩酊と眠気を促す揮発性の成分が、香水の香りとともに漂い出るように。
モイラ自身には慣れもあってあまり効かないが、慣れていない者が吸い込むようにしてこの香りを嗅いだら効果が強く出るはずだ。
「……っ」
エジェールが短く呻き、少しよろめいた。その隙に、モイラは少し後ずさるようにして距離を取った。
しかし、後が続かない。周りに人がいる環境であれば、最初を切り抜ければ後はなんとかなった。
しかしここは部屋の中だ。他に人がいない。最初の山場を乗り切ったが、さてこの後はどうすればいいのだろう。
(……誰か呼べば来てくれるかしら)
状況が分からない。廊下に出るべきだろうか。助けを呼べるならそうしたいが、彼を手引きした者がいるならのこのこ出ていくのは危険だ。続きの間は鍵がかからないから立て籠もることもできない。
気が進まないが、昏倒させるくらい強い薬を使うべきだろうか。
迷っていると、廊下を誰かが走ってくる足音がした。部屋のドアが開かれ、焦った表情のオーベルがモイラの名前を呼んだ。
「無事か、モイラ!」
「大丈――」
油断があった。助けに来てくれたという安堵と、薬が効いているはずだという過信。
ほっとしてオーベルの方に顔を向けたモイラの首に、後ろから何か冷たいものが突き付けられた。
「……動かないでね? 切れるから」
ひゅっと息を呑む。そちらを見ることができないが、刃物だろうことは分かった。怖気立って首筋が震える。
「何のつもりだ、エジェール」
部屋の入口から動けないまま、オーベルが低く唸るように言う。動くなというのはオーベルとモイラの両方に言われたものだろう。――モイラの命を質にして。
「見たら分かるだろう? 奪いに来たんだ」
エジェールの口調はむしろ軽いもので、声質も男性にしては高めだったが、そこに込められた感情は暗く重く淀んでいた。モイラに対してもオーベルに対しても、鬱屈をどこまでも溜め込んだ様子だった。薬は効いたはずだが、オーベルの登場と彼を頼るモイラの様子がエジェールの意識に火を点け、はっきりと覚醒させたらしい。
オーベルは視線をいっそう険しくしたが、落ち着いた口調でエジェールを諭した。
「早まったことはやめろ。モイラを放せ」
「答えは分かっているだろう? ――嫌だ」
「放せば罰を軽くしてやる。彼女を傷つけるな」
くっと、エジェールは喉の奥で笑った。
「お優しいことで。そんなところにモイラも惹かれたのかな? 僕を手ひどく振っておきながら、薄情だよね」
(お母様……!)
母はいったいエジェールに何をしたのか。別れるなら遺恨なくきれいに別れてほしかった。ぱったりと会わなくなったのは互いに冷めたからとかではなく、イポリタの側から一方的に関係を解消したのか。
後ろを向くことができないが、エジェールのねっとりとした視線がモイラに注がれているのを感じる。頭から血の気が引いていくほど、その視線には嫌悪感を呼び起こす粘着性があった。
エジェールはモイラから視線をいったん外し、オーベルの方を見たようだった。
「君も君だよね。形式上の妻が欲しいから仕方なくモイラと結婚したんだとか言っておきながら、その表情。鏡を見せてあげたいよ。骨抜きにされてしまったんだね。……この、売女が」
モイラを罵る声に、恋着と憎悪とがどろどろに煮詰められている。そのどちらも、母に向けられたものだ。いくら身代わりといっても、ここまでのものを引き受けさせられるのは理不尽すぎるが、ここでどう言っても言い逃れに聞こえて激昂させるだけだろう。
「口を閉じろ。彼女から離れるんだ」
「できるわけないだろう?」
嘲るようにエジェールは言った。自棄になったのではなく、最初からこうすると決めていたような口調だった。
モイラの背筋がさらに冷たくなる。
先代公爵の居城に滞在中の客人を襲おうなんて後先考えない行為だが――もしも元から、後先なんてないものだと思い定めていたのだとしたら?
「僕の思惑に気付かれるのが思ったよりも早くて残念だったよ。できればもう一度、君の柔肌を味わってからにしたかったんだけど。君も、僕も、この世ではここまでだ。でも、こうすれば……これからはずっと一緒にいられる」
「――……!」
モイラは声にならない悲鳴を上げた。刃物は脅しのためのものではなく、最初から実際に使うつもりで携えられてきたものだったのだ。
モイラは見通しの甘かった自分を悔いた。ここまでの状況に陥る前に、強い薬を使うことを躊躇うべきではなかったのだ。昏倒させ、シーツなりカーテンなりで縛り上げ、誰かを呼べばよかったのだ。まさかエジェールが捨て身で、逃げることなど考えずに、おそらくは城内の人間を内通させたりもしないままにここまで乗り込んできたとは思わなかった。逃げたり誤魔化したりすることを考えないならば、事を起こす難易度は劇的に下がる。
「エジェール様……」
「許しを乞おうなんて無駄だよ。別れたくないという僕の嘆願を足蹴にしたのだから、僕が君の嘆願を聞く義理もないよね」
勝手な言い分に腹が煮える。許しを乞おうなんてしていない。なんとか隙を作りたかっただけだ。
だが、コサージュの小細工にしてやられた彼は油断をしなかった。モイラの動きを封じ、コサージュをつけていた胸元から肩のあたりの装飾を引きちぎった。飾り襟のレースなどが千切れて落ち、肩がはだける。モイラの表情がひきつり、オーベルの表情が憤怒で火を噴きそうになった。
今にも噛みつきそうな勢いで、モイラの剥き出しになった肩の近くにエジェールが顔を寄せた。モイラは身を竦ませたが、しかし何も起こらない。
そのとき、空気が撓んだ。そう錯覚させるような動きで、オーベルが一瞬で距離を詰め、エジェールの脇腹に痛烈な一撃を叩き込んでいた。鞘を抜いていないとはいえ重量のある剣で体重の乗った一撃を突き込まれ、エジェールがたまらず崩れ落ちる。オーベルは逆の腕でひったくるようにしてモイラを引き寄せ、首筋に当てられていたエジェールの刃物から遠ざけた。
「オーベル様……!」
「無事か!? ……血は出ていないな、痛いか?」
乱れて首筋にかかっていた髪をかき分け、オーベルがモイラの肌を指でなぞる。その指の感触があまりに優しくて、安心できるもので、膝から崩れそうになりながらモイラは首を振った。
「大丈夫です。ありがとう、ございます」
震えるモイラを優しく見つめ、ほっとしたようにオーベルは息をついた。足元に転がっていたナイフ――刃渡りの長いもので、これで命を奪われそうになっていたのだと思うと背筋が凍る――を、部屋の入口の方へと蹴飛ばす。
床にうずくまるエジェールを油断なく見下ろしながら、オーベルは怪訝そうに言った。
「しかし、どうしたんだ? 急に隙ができたが……」
オーベルの技量は卓越したものだったが、救助対象の首にナイフを突きつけられた状態では如何ともしがたかった。しかしどういうわけかエジェールに隙が生まれ、モイラは助けられたのだ。
モイラもつられてエジェールを見下ろす。
エジェールはのろのろと顔を上げ、苦痛に表情を歪めながら、得体の知れないものを見るような目でモイラを見た。
「……君は、誰だ……?」




