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悪女の結婚  作者: 名無し
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 案内された水仙の間は、城の東翼にある格式の高い客間だった。壁紙の意匠は水際に群れ咲く水仙で、淡い色調の水や花々が広い部屋を囲むように彩っている。

 大きな窓から見えるのは森の方面だ。春はあの中に実際に水仙が咲くはずだ。フランに案内してもらいながら少し聞いたところによると、他の客間にも花々の名前が付けられており、それらはこの島に生えている種類から選ばれているらしい。壁紙を描かせるときにも実際の風景を模したものにさせるとのことで、客はまるで森の中に泊まっているような感覚になるだろう。

 置かれた調度も木目の美しい品のいいもので、こっくりと深い茶色が目に優しく、水仙の風景に馴染む。

 何から何まで申し分ない。――部屋の奥に鎮座する天蓋付きの大きな寝台を除いては。

「それでは、これで失礼いたします」

「待っ……いえ、何でもないわ。案内をありがとう」

 とっさにフランを引き留めてしまいそうになったが、引き留めてどうなるものでもない。モイラはぎこちなくお礼を言ってフランを見送った。

(…………どうするの、これ……)

 当たり前だが、客間とは客が泊まる部屋だ。泊まるということは眠るということだ。

 そして当然のことながら、夫婦用にと用意された寝台は一つしかない。

 だらだらと冷や汗を流しながら横を見上げる。オーベルは感情の読み取り難い顔で言った。

「……左右に続きの間があり、椅子なりが置かれていたはずだ。片方は婦人が化粧直しなどに使う部屋で、もう片方は男性の支度用の部屋だ。私はそちらで眠ることにする」

「でも……」

「それも受け入れ難かったら、図書室なり遊戯室なり画廊なりで夜を明かすことにする。問題ないし心配いらない」

「えっ! それは私の方が行きた……じゃなくて!」

 モイラは言い募った。

「移動でお疲れでしょうし、明日からはきっと色々と動くことになるでしょうし、部屋から追い出すようなことなんて出来ないわ。一泊する予定を立ててくださったのはそもそも私のためなのだし、椅子で眠るのは私の方。オーベル様にはきちんとお休みいただかなくては」

「……いろいろ動くことになるのは君の方かもしれないぞ? 私が言った話は考えておいてくれたか?」

「北嶺芋の新しい食べ方を広める事業、の話ですよね……」

「そうだ。なんなら、事業云々を抜きにして、私の施策に協力するかたちで公爵夫人として一緒に動いて進めてくれても構わないぞ?」

「…………」

(オーベル様、分かっていらっしゃるんだわ……。当然よね……)

 この話が、公爵夫人としての立場が強く出るものだということを。むしろ公爵としての仕事の範囲にすら被るということを。……そして、それを許容することの意味を。

「……それは、公爵夫人の責務のお話になるわ。契約違反でしてよ、旦那様?」

「確かにそうだな、『社交界の悪女』? 最近はどうもそれらしくないようだが?」

 皮肉と当てこすりを応酬し、睨み合うように見つめ合う。

「悪女なら悪女らしく、私を籠絡してみればどうだ? 君の言うことを何でも聞いてやりたくなってしまうかもしれないぞ?」

 おとがいに指をかけられて仰向かされ、視線が強く絡む。オーベルの灰色の瞳の奥に熱が灯っているのを見て、モイラは心臓が止まるかと思った。

(…………!)

 どうしよう。どうすればいい? ――私は、どうしたい?

 焦燥と混乱と――期待。胸の奥に灯るその感情を認めるわけにはいかない。

 狼に獲物だと目をつけられた小動物はこうなるかといったように、モイラの体が動けない。

 その状況を破ったのはオーベルでもモイラでもなく、部屋の外からのノックだった。

「失礼いたします。公爵閣下にお客様がお見えだということで、閣下のお所の方がいらしたのですが……」

「対応する。少し待ってくれ」

 オーベルは冷静な声で言い、ふいとモイラから離れた。

 モイラは彼に背を向け、振り返っても見えないようにして胸を押さえて動悸を鎮めようとした。

(危なかった……! オーベル様、いったいどうなさったの……!? 私も私よ、体が動かないし頭も働かないってどういうこと!? しっかりなさい!)

 思わず自分を叱咤したくなった。言葉で拒絶するなり、仕込んだ備えを使って抵抗するなり、対処のしようはいくらでもあったはずだ。

 それを、何もしないどころか――そのまま流されてしまいそうになるなんて。本当に、どうかしている。

 暴れる心臓を宥め、気持ちを落ち着けるために窓の外を眺める。夕暮れの空はほんのりと薄赤く、やがて濃く暗い夜がやってくることを想像させる。

 夏の森の夜は深く暗い。直感的なイメージには反するが、冬の森の夜は対照的に明るいものだ。広葉樹が葉を落とした冬枯れの森では月明かりが葉に遮られることなく地表まで届くし、北部なら雪も積もる。しんとした雪は光を乱反射し、幽玄な世界を浮かび上がらせる。

 月と、雪と、シルエットと化した森。暗さよりも冷たさの印象が強い世界では、動物たちは息をひそめて春の訪れを待つばかりだ。

 夏は違う。草木が旺盛に茂り、動物たちは動き回り、夜の空気は生命と緑の気配に満ちて濃く香る。心がざわつき、胸の奥から何か、衝動的で動物的な欲求を持つものが呼び覚まされそうになってしまう。

(…………本当に、近くで眠るのはまずいかもしれないわ。誰か女性をつけてもらって、図書室なりに逃げた方がよさそう……)

 窓から流れ込む森の空気が、昼には体が浄化されるかのように新鮮に感じたそれが、夜気として流れ来ると危険かもしれない。事実、王都の夜会では夏の庭で逢引きをする男女が後を絶たなかった。夏の夜の緑の濃密な匂いに酔わされて、雰囲気に流されてしまうのだ。

 流されてしまいそうなのは、危ないのは、オーベルだろうか。それとも――自分だろうか。

 正直なところ、どちらも危ない気がする。さっきはオーベルに迫られる直前で、ノックが響かなかったらどうなっていたか分からない。

 オーベルがどういうつもりなのかも分からないし、自分がどうしていいかも分からない。血筋を偽り、髪色を偽り、悪行を偽る自分は、オーベルの契約上の妻として、立場を踏み越えるわけにはいかない。実際の妻になるわけにはいかない。

 それなのに――望みそうになってしまう。

 窓から吹き込む森の空気がモイラの黒髪を吹き乱す。心はそれ以上に乱れている。

 思い悩みながら景色を眺めていたモイラは、部屋のドアが開く音を聞いても、そちらへ顔を向けずにいた。今、どんな顔をしてオーベルを見たらいいのか分からない。

 だから、気付くのが遅れた。

 入ってきたのが、オーベルではないことに。

「――モイラ」

 聞き馴染みのない男性の声で名前を呼ばれ、モイラは弾かれたように振り返った。

「あなたは……」

 部屋に入ってきたのは、赤っぽい茶色の髪の男性だった。年齢は二十代の半ばくらいだろうか。優しげに整った顔立ちの青年だ。服装を見るに貴族だろう。

(お母様が好みそうな男性だわ……)

 その思考に至るまでの時間は短かった。いつものことだと当たりをつけ、記憶を探る。

「ミティル伯……」

 探り当てた名前を口にすると、男性は困ったように微笑んだ。

「エジェールと呼んでよ。いつものように」

(ああ、やっぱり……)

 母の愛人のひとりだ。母の愛人は数が多すぎて、しかも一人と会うときにまた別の人とも会ったりするようなので、モイラでさえ全員は把握できていない。

 ただ、エジェールについては名前を知っていた。母が何度も会いに行った相手だからだ。ある時を境にぱったりと会わなくなったようだが。

 どうやらエジェールは母をモイラだと思い込んで会っていたらしい。暗い中でしか会わないとそういうこともある。

 どうやって誤解を解こうか、いやそもそも誤解を解いていいものか、迷っているうちにエジェールが動いた。

 モイラに歩み寄り、いきなり抱きすくめようとする。

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