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モイラもオーベルも互いに少し距離感を掴みそこねながらも、森の視察は順調に進む。城の近くにある河口付近から緩やかな川を辿るようにして進み、岩場の苔や花を見て、川幅が太くちょっとした池のようになっているところへ出た。
「あ……」
水面に漂うようにして咲く花を見て、モイラは思わず声を漏らした。
「青透花ですね。花期は長いですが、最も美しいのは今時分ですね。時期を過ぎると目立たなくなってしまいますし」
「……そうね」
彼女が言う通り、美しい花だ。今にも水に溶けてしまいそうな薄く儚い花びらが冴えた青に染まり、ドレスの模様のように水面を彩っている。
花々の間を、小さな魚が泳いでいく。あまり流れが強くない、穏やかで水質のいい水場にしか咲かない花だ。
「初めて見るな。こんな咲き方をする花もあるのか」
オーベルが興味深そうに覗き込む。
まるで水面に落ちた後のようだが、もともとこうやって咲く花で、しっかり水中に茎を持っている。頼りなく揺れる花を繋ぎ留めるしなやかな茎だ。
「時期を過ぎると花弁の色が抜けるように透明になってしまうのです。水と同化してしまうように見えるので見つけにくく、咲いている場所を知らないと見逃してしまうこともよくあります。注意して見れば蕊の黄色で分かるのですが」
「ほう……」
フランの説明を聞きつつオーベルが頷く。そしてモイラの方を見た。
「……しばらく観察していくか?」
口数が少なくなったモイラが何か考えているものと気遣ってくれたらしい。モイラは首を横に振った。
「……いいえ、大丈夫。行きましょう」
「これもお茶になったりするのか?」
「どうかしら。食べられないものではないけれど味がいいわけでもないし、効能があるわけでもないし、量も採れないからあまり現実的ではないと思うわ。うまく青色を使えれば面白いのでしょうけれど、飲み物としては難しいと思うわ」
「そうですね。栽培も簡単ではありませんし、あまりたくさん採れるものでもありませんしね。この花から美しい青の色素を取ろうと実験した者がおりましたが、どうやら色素ではないようで、叶いませんでした。構造色なのでしょうね」
「……どうかしら」
モイラは言葉を濁し、花から視線を逸らした。その様子をオーベルが見ていることに気づいたが、声をかけにくい雰囲気を察してか何も言わなかった。
青透花の他にも見るべきものはたくさんある。今すぐにというわけにはいかなくても、いずれ草木を生かした事業を立ち上げたいので、商品の原材料として使えそうなものを今からいろいろと見ておきたい。いざ使うとなるとどのくらいの量が確保できそうか、需要はありそうか、さまざまに考え合わせながら足を進める。
水辺から離れて木々の様子を観察したり、見つけた黄苺をつまみ食いしたり、いつしか視察という名の散策をモイラは満喫していた。
「君がよく庭にいる理由が分かった気がする。こうして緑の中を歩くのは悪くない」
「体にもいいと思うわ。それと、頭にも。お仕事で忙しくしておられる時とか、時間が許せば休憩がてら外においでになるのは有効だと自信をもって言えるわ。新鮮な空気も、木々の匂いも、五感で刺激を得ることも、体と頭にいい影響を与えてくれるもの」
「……そうだな」
そう応えるオーベルの表情は柔らかい。結婚当初はもっと厳しい表情や刺々しい態度ばかりで近寄りがたかった気がするのだが、彼もモイラがいることに慣れてきたのだろうか。自然体で楽にしてくれてもいいのだが。
(……! 考えすぎ! 私の存在に慣れたとかじゃなくて、不作が解決しそうで気を緩められる状態になっているだけだもの。勘違いしては駄目!)
モイラは思考を振り払うように首を横に振った。
なんだろう、最近こんなことばかり考えてしまっている。オーベルは結婚相手ではあるがそれ以上に契約相手であり、名ばかりの夫婦であり、かたや偏屈、かたや悪女だ。……よくここまで破綻しなかったものだ。
考えつつ、モイラは癖で自分の髪を一筋もてあそんだ。くるりと指に巻き付けた髪は黒く、オーベルのそれと似た色だ。
この色を見るたび、モイラの意識は現実に引き戻される。悪女たれと言われている気分になる。
髪をこの色に染めるための染料になる草は、この森にも自生していた。北部のみならず国中で入手が可能な、ごくごく一般的な草だ。いまもモイラの足元に生えている。
でも、もしもこの草が一般的なものではなかったら。もしもモイラが母に似ていなかったら。もしも守るべき妹と弟がいなかったら。
無意味な仮定だ。そうと理解しつつも、モイラが悪女の役回りを担えない世界を、悪女である必要がない世界を、空想してしまう。
(……! だめだめ、せっかくの機会なのだから色々と見ていかなければ。今の私は悪女というよりも公爵夫人なのだから、気持ちを切り替えて!)
自分を叱咤しつつ、フランの案内で視察を続ける。
森は必ずしも道のあるところばかりではなかったが、下草を掻き分けて進まなければならないような場所もなかった。道だろうとそうでなかろうと普通に歩けば足りた。
このあたりについて北部の森は楽だ。南部の一部地域だと毒蛇が何種類もいたり、下草が茂りすぎて後ろ向きに歩いた方が早かったり――丈の高い草や木の枝などを掻き分けつつ顔を庇って進むよりも、背中で押し分けてしまった方が手っ取り早かったり――するところもあるが、そこまでいくともう密林だ。それはそれで興味深いが、視察というより冒険だろう。
「もしかしてオーベル様、野外訓練は南部でも行ったりなさいました?」
モイラの唐突な問いに、オーベルは頷いた。
「ああ。仲間が毒蛇に咬まれて大変だったのは南部でのことだ」
「蛇がいろいろいたりするらしいですわね……」
「蛇も厄介だし、虫も、蛭も、蝙蝠も。暖かいのは助かるんだが、やっぱり北部の森に帰ってくるとほっとするな。危険な生き物など熊くらいだし、帯剣していればどうとでもなる」
オーベルは今も帯剣しているが、万一の時の備えなのだろう。
(万が一といえば……)
少し気になったのだが、先代のパトリックと当代のオーベル、公爵位を引き継がせ引き継いだ父子の関係にある二人なのに、住んでいるところが少し遠すぎないだろうか。
先代と当代が同居している貴族家など山ほどあるし、そうでなくても近いところに住みたいと思うのが人情だ。パトリックは老齢ということもあり、いつ何があるか分からない。繋路をいくつも通って馬車や船を乗り継いで半日かかる距離を父子が隔てられているのは、少し不自然に思えた。ましてこの島は現役で軍事基地というわけではないし、美しい島ではあるがあまり他の特徴がない。必要性や重要性ではなく、本当にただののんびりした隠居先として選ばれているのだろうか。
なんだかパトリックとオーベルの間に距離がある気がするが、単にべたべたするのが互いに嫌いなだけなのかもしれない。
そんなことを時折考えつつ、一通りの視察を終える。
「何かヒントは得られたか?」
「ええ。いろいろと構想が出てきたわ。連れてきてくれてありがとう。案内してくださったフランさんも、ありがとう」
お礼を言うと、オーベルは少し頬を赤くし、フランは恭しく頭を下げた。
「また何かございましたらお尋ねください。それでは、水仙の間にご案内いたします」




