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オーベルの父親――ということになっている――先代アテナエ公爵の居城は、湖が点在する静かな島にある。中規模の町が二つか三つは優に入るだろう大きさの島の海辺に建つ要塞のような城に一人で住んでいる。
もちろん、一人というのは主が一人という意味だ。使用人は大勢おり、オーベルでさえ数を把握していない。オーベルの住む公爵邸のそれよりも多いかもしれない。
公爵邸には王城に直接つながる繋路があって人や物が絶えず行き交っており――もちろん枢要な部分はきちんと門と城壁で守られているのだが――、城下町と道が繋がってもいる。貴族の最高位である公爵の、それも北部では並ぶ者のない家門の邸宅ともなれば人の出入りは多い。
それに比べて、公爵の位を譲って隠居した先代のところに用のある者はそこまで多くないが、いかんせん規模が違いすぎる。城そのものはそこまで大きくないにせよ、島全体が庭のようなものだから、道を管理しなければならないし、海辺を警備しなければならないし、森にも手を入れなければならない。街がないから、そうした仕事を割り振られる人員がすべて城に集まるのだ。城を拠点に島を管理する形だ。
いちおう、街へつながる繋路は島にあるので、そうした人々も生活面に不自由はない。それでも大勢がいちいち繋路を通って街へ出て戻ってを繰り返すのは効率が悪いから、必然的に商人たちの方が城へ来ることになる。下手な町よりも便利なくらいだ。
とはいえ、来るのはそうした商人たちくらいだ。先代と当代の公爵はあまり仲が良くないことを知られており――先代のパトリックも当代のオーベルも隠していないから当然ではあるが――、どちらかに取り入ろうとして他方に阿っても意味がない。逆にどちらかを焚きつけて対立を煽ろうとしたところで益もない。パトリックがオーベルをどう思っていようとも家督はすでに合意のもとで渡されて五年以上経つのだし、たとえオーベルに何かあったところでパトリックに実権が返るわけもない。
そしてオーベルが、あまり外部には言っていないながら公爵家を親戚に譲ろうと考えていることは、アテナエ公爵家に近い者であれば周知の事実だ。
それも当然で、公爵家ともなると相続の継承順位ははっきりと定められて示されている。今のところオーベルの甥が継承権一位で、オーベルの従弟が継承権二位だ。
もしも公爵家の相続のごたごたに紛れて――あるいは自らごたつかせて――利益を得ようと考えるのなら、先代や当代のところではなく、甥や従弟のところに行くのが当然だ。オーベルもすべては把握しきれていないが、実際、色々とどろどろしていることは知っている。
先代と当代が蚊帳の外という状況だが、無理もない。
先代のパトリックは妻を――オーベルの母を――亡くした後に後妻を迎えたが、後妻とも死別している。そして、愛人も持っていない。公爵家と縁続きになることを狙ったアプローチは受けているだろうが、壮年の時でさえ歯牙にもかけなかったものを、老年になって態度を変えるとは考えにくい。
そしてオーベルだが、もちろんアプローチは腐るほど受けている。それがあまりに煩わしくて仕事にも差し支えるというのが結婚を決めた大きな理由だ。
相手のモイラは伯爵令嬢であり、身分としては申し分ないとまではいかないものの、問題視されるほどではない。シーシュ伯爵家の領地は広いわけではないが、特に問題があるわけでもない。ここ数年は財政状況が厳しいようだが、そのくらいは許容範囲だ。もともと持参金など期待していないし、益のある人脈が作れるとも思っていない。
モイラに求めたのはただ一点。「悪女であること」だ。
公爵家の継承権にオーベルが関わらないようにするためだけの妻だ。子供を作らない、認知しない、そしてそれらを当然だと周囲を納得させられるだけの悪評のある妻だ。
(そのはず、だったのにな……)
今も状況は何も変わらない。オーベルが「悪女モイラ」を必要としていることは変わらない。オーベルは母の子ではあっても父の子ではないかも知れず、母が亡くなって長い時が経った今、確かめようもない。オーベルの血筋が疑わしい以上、公爵家の継承には関わらないという態度を示していくしかない。モイラを妻にしたこと然り、甥や従弟と対立しないこと然り。
それなのになぜか、モイラの悪評を聞くと腹が立つ。お前らに何が分かるのだと声を荒げたくなってしまう。
リラックスした様子の時のモイラはつんとお高くとまるどころか素朴で、色々と反応が面白い。猫を相手に遊んでいる気分になる。
だがもちろん、声を荒げることはしない。モイラのそんな可愛いところを教えてやるものかと思う。対外的に「悪女」でいてくれさえすれば、オーベルの前ではどんな姿でも構わない。むしろ気を許してほしいとすら思ってしまう。
(しかし彼女は……意図的に悪女らしくあろうとしているよな……?)
オーベルの勘違いではないはずだ。モイラの素は悪女ではなく、ただの少女だ。ただ少し美貌と知性に恵まれただけの。……それだけあれば「ただの」とは言えないが。
性格についてはそう考えているが、では行動はといえば、こちらはよく分からない。男をとっかえひっかえして隠し子までいると言われているが、それもどこまで本当なのだろうか。
実際、オーベルはただの一度たりと、モイラに誘われたり襲われたりしたことはない。自分で言うのも嫌味だが、オーベルの見目は整っている。美しい母に似たのだから当然だ。
そのオーベルを誘わないのは、恋多き「社交界の悪女」としてどうなのか。結婚に際して定めた約束事を守ろうとすればオーベルを誘おうとはしないはずだが、逆にそういった制限や禁断の関係は心を燃え上がらせるものだ。事実、モイラに関する噂にもそういったものはあった。再婚を控えた男に手を出して婚約者が半狂乱になったところを見た、などというものだ。
だが、噂のどこまでが真実だろうか。モイラの尋常でない色気を見るにつけ、噂が独り歩きする可能性は大いにありそうだ。
さらに恐ろしい想像をしてしまうと、モイラが身に備わった色気を使って、噂を煽って操作している可能性に行き当たる。噂とは名ばかりの悪評だから自身の評判を落として自身を貶めることにしかならず、行う意味はないはずだが、しようと思えば彼女ならできるはずだ。
(……いや、それはさすがに考えすぎだ。モイラが、わざと悪評をかぶって、自身の色気を利用しながら悪女を演じ続けている可能性なんて……)
きっと違うだろう。噂のいくらかは真実で、思われているよりも恋の相手が少ないかもしれない、そのくらいの齟齬だろう。
そうは思いつつも、可能性は否定できない。そうする理由が思いつかないというだけで否定していいものではない。ましてオーベルは既に一度、モイラに対して偏見を持って決めつけたことで彼女を傷つけてしまった前科がある。同じ轍を踏むわけにはいかないが、もしもそうであったらとっくに遅い。そもそもの始まりが、彼女が悪女であるという前提に立つものだから。
それでも、これ以上彼女を傷つけるのはごめんだ。偏見や思い込みがあるのなら正す。体を動かしてしまう前に止められるように。
だからオーベルは考える。
もしも何らかの理由があるのなら。彼女が悪女にならなければいけない理由があるのなら。
オーベルはそれを、知る必要がある。




