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オーベルは不機嫌だった。普段からにこにこと愛想よくする方ではないが、最近はとみに表情が険しい。
理由ははっきりしている。妻のモイラの存在だ。
(悪女の評判は伊達ではなかったか。浪費癖はあるし、おまけに癇癪持ちときた)
今日の朝食の席にモイラは姿を現さなかった。もともと昼食や夕食は共にとる習慣がないので――昼食は執務の間につまむ程度だし、夕食は仕事に関わる相手や交友を深めたい相手ととることも多く、そこにモイラを同席させたいとは思わない――、昨日の朝食から彼女と顔を合わせていないことになる。
自分の気に入らない食べ物を前に癇癪を起こし、当てつけのように平らげて席を立った様子には唖然とした。食事のマナーよりももっと根本的なところがなっていない。あれでよく伯爵令嬢を名乗れたものだ、と嘆息する。
嫌いな食べ物を無理に食べさせようとした自分に少し気が咎めたのだが、その罪悪感も一瞬で消し飛んだ。あんな奴に気遣いなど不要なだけだった。
(それに、さっそく金の催促か……)
執務室で書面を広げつつ、ふたたび溜息をつく。モイラから侍女を介して渡されたのは、公爵夫人として自由に使えるお金を求める文面だった。
シーシュ伯爵家は財政が厳しい。モイラがいくら贅沢をしたくても限度があったはずで、嫁いで公爵夫人の立場を得たのをいいことに散財を始めるだろうことは容易に推測できた。
(こんな金額、何に使うのだ……? ドレスか、宝飾品か、嗜好品か……)
男性であるオーベルにはその手のことが分からないが、個々の相場はともかく、総額としての金額の妥当性についてはおおよそ見当がつく。先代の公爵夫人を始めとする女性たちのお金の使い方については帳簿を見て知っているからだ。
そのオーベルの目から見て、モイラの要求した金額は度を越えたものではない。むしろ許容されるぎりぎりの金額で、これが意図的なものなら貴族のお金の使い方についての知識と洞察力を相当な水準で持っていることになる。
(まあ、遊び暮らしていたご令嬢がそんなものを持っているわけはないが)
オーベルは考えるのを止め、許可する旨を記そうとして、ふと気を変えた。許可の文言の後にさらさらと行を追加し、満足してペンを置く。
そして、机から一通の手紙を手に取った。古くからの友人であるミティル伯エジェールからの手紙だ。
気心の知れた友人からの手紙だが、それを開くオーベルの表情は浮かない。内容には想像がつくからだ。遊びの誘いなどではないだろう。
文面に目を通すと、案の定の内容だった。
モイラと結婚したオーベルを心配する内容だ。
旧友の気遣いに苦笑を浮かべつつ、今のところは大丈夫だと返事をしたためる。
一応、大きな問題は起こっていない。もしかしたらモイラが自分を籠絡しようと夜に忍んでくるかもしれないと警戒していたが、今のところそれは無い。媚薬を盛られないように、料理人たちにも彼女から何か食材の類を持ち込まれても使わないようにと厳命してある。
癇癪持ちであることまでは予想しなかったが、それくらいは些事だ。もともとの評判が悪すぎて、いまさら一つ二つ追加されようと別にどうということもない。
悪女とはいえ美女でもあるモイラとの結婚をやっかんだり揶揄ったりする友人は多かったが、唯一エジェールだけがオーベルを心配し、反対していた。
そこにははっきりとした理由がある。
エジェールは、かつてモイラの仮初の恋人だったのだ。
遊びで近付き、しかし本気になり、そして捨てられた。
その傷心と経験から、オーベルは同じ轍を踏まないように、そしてこんな悪女に近付くこともしないように、衷心から警告してくれたのだ。
(言い分は分かる。有難くも思う。だが、懸念しているようなことにはなるまい)
エジェールからの手紙はさらに続く。
今からでも遅くないから考え直すように。もしもシーシュ伯爵家との縁が必要であるなら、モイラではなく彼女の妹にしてはどうか。
(気遣いは有難いが、別にシーシュ伯爵家との縁が必要なわけではないしな)
シーシュ伯爵家自体は特筆するところのない、数ある貴族の一つというだけだ。公爵家の領地と隣接しているわけではなく、誼を結んで益になる要素も害になる要素もなく、当主と夫人と三人の子がいる、それだけだ。しいて言うなら財政の厳しさが懸念点だが、金食い虫のモイラを手放した以上、今より悪くなることはないだろう。
モイラ以外の四人については悪い噂を聞かない。当主ディーアスは年の離れた若く美しい妻イポリタを愛し、夫人の美貌を受け継いだ三人の子に恵まれた。モイラが長女で、そのすぐ下に次女アラミア、さらにそのすぐ下に長男ドリアスだ。
悪い噂を聞くのは、モイラだけだ。
(噂……そう、噂、なんだがな……)
噂は往々にして、事実とは異なるものだ。社交界のそれなら猶更、面白おかしく脚色されて伝播していく。
公爵邸にやってきたモイラがあそこまで悪女然としていなければ、オーベルとて疑問に思っただろう。きちんと確かめてから判断しようと思っただろう。だが彼女はあまりにも噂そのもので、露出が多く体の線の出るドレスを恥ずかしげもなく纏い、高慢な表情でオーベルを見下すように見た。
公爵邸の敷地内にある礼拝堂に聖職者を呼んで結婚式を挙げたときも、こんな奴とキスするなんて不本意だとでも言いたげな、嫌そうな表情を隠しもしなかった。キスくらいなら我慢しようと思っていた気が失せ、結局ふりだけで済ませた。
諸々の事が積み重なり、悪女の印象は強まっていく。
そこにはモイラ以外の理由もあった。
ひとつめに、オーベルの母親だ。黒髪の美女であった母親は恋多き女で、オーベルを産んで義務は果たしたと言わんばかりに男を漁り、愛人を取っ替え引っ替えしていた。さすがに媚薬云々の話はなかったし、隠し子どころかオーベルという隠れもない実子がいたわけだが、彼女にまつわる噂や好奇の眼差しを向けられる様子は、今のモイラのそれとよく似ていた。
とはいえ、既婚の婦人が愛人を作ることはそこまで珍しいことではなく、眉をひそめられるにせよ大っぴらに糾弾されるほどではない。夫が解決に乗り出そうとするなら話は別だが、むきになるのは男の沽券に関わる、少しくらいの浮気は許すのが男の度量、なんなら自分も他に愛人を作ればいい、そういう風潮が社交界にはある。
そういった状況をかんがみれば、未婚の身で男漁りをしていたモイラは段違いにたちが悪いと言える。
そしてふたつめは、オーベルの友人であるエジェールだ。
たしかに、遊びでモイラに近付いた彼にも非はある。未婚の貴族女性に言い寄るなら、結婚を前提にするのが当たり前だからだ。
とはいえ彼は本気になった後にきちんと結婚を考えたのだし、モイラはそれまでにも多くの男と浮名を流していたのだから、彼の非はそこまで咎められるものとは思えない。
本気になって結婚をと申し出た彼は、しかし手ひどく振られた。決まっていた許嫁とも破局し、家族との関係も悪化し、はたから見ていたオーベルが心配になるほどに憔悴していた。
そんな彼を慰めつつモイラに憤り、しかし彼女との結婚を決めたオーベルは、自身の暗い感情を自覚していた。
モイラを飼い殺しにしてやりたい、と。
絶対に絆されたり、まして愛したりはしない。心の関係も、体の関係も、絶対に結ばない。彼女を名目上の空虚な妻として遇し、利用し、公爵家はそのまま親戚筋に譲る。一応は妻として迎えたのだから立場に応じた待遇と金は用意するが、それだけだ。老いて男たちに見向きもされなくなった彼女に言ってやるのだ。それ見たことか、と。
(……いかん)
自身の感情が負の方へ傾いているのを自覚し、オーベルは首を振った。ノックの音が聞こえたのをこれ幸いと、思考を打ち切る。
急ぎの用ではないが今でいいかと取次の侍従が伺いを立てるが、構わないと頷く。それなら、と侍従が部屋の外に向かって声をかけるが、ぞろぞろと入室してきた面々にオーベルは面食らった。
思いつめた顔で入室してきたのは、モイラ付きの使用人たちだった。そのうちの一人が代表して、公爵への直接の嘆願を詫びたのち、深刻な調子で言った。
「私たちを、どうかモイラさまのお付きから外していただきたいのです」