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「うわあ……!」
横に立つモイラが抑えきれない歓声を上げた。
オーベルとモイラは今、小島へ渡る小舟の舳先にいる。後ろでは船頭がゆっくりと櫂を漕ぎ、モイラが伴ってきたサリアを含めた使用人が数人、後ろに続く船で荷物を運んでいる。
「すごいわ、海なのにまるで湖みたいに水面が静かなのね。水も澄んでいて風が気持ちいいわ。北部の海ってあまり見たことがなかったけれど、見るからにひんやりとした色をしているのね。針葉樹の樹影もあいまって、まるでおとぎ話の中に迷い込んだみたい……ねえ、そう思わない、サリア?」
北部の海とは違う紺碧の瞳を輝かせ、緩くうねる黒髪を靡かせてモイラは隣に立つオーベルの方を向く。その様子がなぜか眩しく見えて、女性、それも黒髪の女性という苦手そのものの存在であるはずのモイラをそう思うことに動揺する。
動揺を押し殺すように仏頂面でオーベルは言った。
「……サリアは後ろの船だ」
「あ……閣下。失礼いたしました」
モイラは少しきまり悪げにしたものの、すぐに気持ちは辺りの景色へと向けられた。
北嶺芋の生育状況を確認し、各地の経済状況や備蓄の具合などを確かめるための視察にモイラが同行することに決まったのはほんの少し前のことだ。
せっかくの機会だから、北部で採れるものを材料に事業を興そうとしているモイラの準備にもなるだろうと誘ってはみたものの、本当に同行するのかは半信半疑だった。準備期間が少ないし、繋路のない所へも行くから王都へもなかなか戻りにくいし、運べる荷物も限られるし、遊び好きの悪女であれば文句をつけて逃げ出してもおかしくはない条件だからだ。
しかしモイラは短期間で準備を整え、オーベルも驚くほど少ない荷物で、もちろん使用人の数も少なく――サリア以外同行させていない――嬉々として視察についてきた。正直、そうなるだろうとは思っていたからあまり驚いてはいない。彼女が一般的に言われるような悪女ではないことくらい、オーベルもなんとなく分かっている。
(しかし、サリア、ときたか……)
金髪で背の高い侍女は、モイラの荷物を守って後続の船に乗っている。伯爵家から連れてきた唯一の人員だからモイラが頼りにするのは分かるのだが、感動したときにとっさに出るのが侍女の名前だというのには微妙な気持ちになる。そこは男の名前ではないのか。
(……いや、私の名前が出るとは思っていないが!)
とりあえず、男の名前ではないことに安堵すべきだろうか。
オーベルの友人の中には女好きな者もいて、その者の言によると、ベッドでうっかり女性の名前を呼び間違えてしまわないために、名前ではなく「愛しい人」などと呼ぶようにするといいらしい。正直に言ってオーベルには使う場面のない知恵ではあるのだが、女性の場合も同じなのだろうか。
そんなことを考えていたからか、ぽろりと口から零れてしまう。
「そういえば、君は私のことを名前で呼ばないな」
「え……?」
景色に夢中になっていたモイラがオーベルを見上げる。ぽかんとした表情に、オーベルは自分の口を縫い閉じたくなった。いったい自分は何を言っているのだ。
「閣下も私のことを名前でお呼びにならないでしょう? それに倣いましたの。もしかして、旦那様とお呼びした方がよかったかしら?」
(その響きは悪くな……いや、違う!)
オーベルは心の中で首を横に激しく振った。そうではない。
「よかったら、名前で呼んでもらえるだろうか」
侍女よりも心の距離が遠いのはなんだか気に食わない、という言葉は続けないでおく。他の愛人たちと同じように呼ばれるのは嫌だという本音も。
モイラは素直に頷いた。
「オーベル様、ですか?」
「ああ」
「それなら私のことも、どうぞ名前をお呼び捨てになって」
「ああ、そうか、そうなるのか。モイラ嬢と呼ぶのはおかしいか」
「既婚者ですもの」
実体も実感もないのだが、とオーベルが思ったのと同じことを、おそらくモイラも思っているだろう。
「分かった。そうしよう」
名前を呼ぶことをあっさり許したモイラに拍子抜けしながらオーベルは頷いた。
(しかし、どうもきまりが悪いというか……)
女性を名前で呼ぶなどほとんど経験がない。女性経験がないわけではないのだが、執着する相手はいなかった。経験の理由の半分は友人たちへの付き合いだったし、半分は女性への苦手意識を克服するためだ。言い寄ってくる女性を適当に相手していただけで、こちらから求めて付き合いたいとはまったく思ってこなかった。
「あっ、オーベル様! 魚がいます! 銀色に反射して、ほら!」
オーベルの内心など全く知らず、モイラは魚に夢中だ。まったく屈託なくオーベルの名前を呼び、楽しそうに目を輝かせて指さす。その様子が好ましく思えて、オーベルも思わず唇をゆるめた。
「鱒の類だろう。この辺りは汽水域だから川を下ってきたものかも知れんな。成長した個体は川に上っていくが、今はその季節ではない」
「お詳しいですね! これ、食べたら美味しいのかしら?」
「きれい」よりも「美味しい」の方に関心が向くモイラにオーベルは吹き出した。
「美味いと思うぞ。希望なら、今夜は鱒の料理を出させよう。どんな調理法が好みだ?」
「好みは特に何も。せっかくなら、この土地ならではの調理法で頂きたいですわ」
「……。そうだな、新鮮なものが手に入ったら、地元の者なら串に刺して炙って食べることが多いな。強めに塩を振って、皮をぱりっと焦がして、山椒を振ったり枸櫞を絞ったりするのが好まれる。野趣があって美味い」
「うわあ、美味しそう……!」
色っぽく身悶えをしながら、しかし彼女の関心は食べ物に向いている。魚を見る目つきが完全に獲物を狙う猫のそれだ。
(……。北部の食べ物に嫌悪感はないのか? それに串焼きなど、お上品な令嬢が口にしたがるものとも思えないんだが……)
高慢な態度で北嶺芋を突っぱねたときのモイラの様子が脳裏によみがえる。あれは北部の食べ物を田舎っぽいと嫌がっているのだと思ったのだが、違ったのだろうか?
(芋も一緒に焼くと美味いんだが……。いや、蒸し返すのはやめておこう)
せっかく楽しそうなのだから、水を差すことはしないでおこう。オーベルは思考を追いやった。
「草木については見ればいろいろなことが分かるということだが、魚については分からないか?」
「ええ。魚も動物も分かりませんわ。……虫や蛇など、分からなくてよかったと心底思いますわ」
心底嫌そうな顔をしてモイラが言う。苦手なのだろうか。それはもちろん虫や蛇などはオーベルもあまり気分よく見られないものもあるが、女性にとってはなおさらだろう。
これから視察に向かう先は、北嶺芋の畑だ。予想された通り生育が遅れていると連絡が入っているが、虫害などの報告はない。なくてよかった。モイラのためにも、これ以上不作をひどくさせないためにも。
(草木についてのモイラの能力だが……どの程度のものか、先に聞いておくべきだっただろうか……)
もしかして北嶺芋についても何か、不作に対抗できる可能性を見つけられるかもしれない。そんなふうに期待してしまい、それが裏切られるのが怖くて、モイラの能力を確かめずにいた。どちらにしろ現地で分かるのだからいいだろうと考えて、知るのを先延ばしにしていた。
そんな都合のいいことがあるわけはない、でも、もしかしたら。
目的地の小島が、近付いてくる。




