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(ああ、まただ……)
自分の肩や腕に、ときには胸や腰に、欲望の籠った手が伸ばされる。時にこっそりと、時に無遠慮に。――モイラの気も知らないで。
その手をあるいはやんわりと断り、あるいはさりげなく躱し、または妖艶に窘め、ときには高慢に撥ねつける。一回たりとも、その手を喜んだことなどない。
(お前の父親が、妻を誑かしたのだろう……か)
モイラは父親が誰かを知らない。だから伯爵に言われたその言葉が正しいのかも分からない。浮気性な母親のことを考えれば、母親の側から近付いていった可能性も大いにあると思っている。
だが、自分のこの――特性。
いかにも悪女らしい顔立ちも、起伏に富んだ体つきも、母親からそっくり受け継いだものだが、それ以上に、これらを生かして引き立たせる――色気。
自分のそれが、蜜のように男性たちを引き付けることは分かっている。女性たちから軽蔑と羨望の視線を向けられ、男性たちの好奇と欲望の視線を集める色気は、母親には無いものだ。母親に色気が無いという話ではなく、モイラのそれが異常だという話だ。
(父親から受け継いだもの……なんでしょうね)
母にはここまでのものは無いし、母を同じくする妹にも無い。顔立ちは妹もよく似ているのだが、モイラの方が年長であることを差し引いても、色香の度合いははっきりと異なっている。
だから、伯爵の言葉を否定できない。
父が悪いのか、母が悪いのか、いっそモイラが全部悪いのか。罪のすべてを被って悪女のふりをしつづけていると、だんだん自信がなくなっていく。
母親の行いを覆い隠し、モイラの噂を広めるのに都合のいい特性だが、時々これがひどく疎ましくなる。こんなものがなければ、モイラに悪女のふりができなければ、母は浮名を自身の名前で流して、伯爵は肩身の狭い思いをして、いずれ母の昔の不品行なりモイラの出生の秘密なりが露わになったときは――いつまでも隠し続けられるものではないから、いずれ明らかになるだろうと諦めてはいるが――妹と弟につらい思いをさせることになる。
それを遅らせたいがために、せめて妹がどこかに嫁いで弟が伯爵家を立て直すまでは悪女のふりをし続けようと思ってはいるのだが、なにもかもが嫌になって投げ出してしまいたいと思うことはある。
今だって、色々なことがぎりぎりだ。未婚のくせに男遊びをあからさまに繰り返す悪女たるモイラの噂話に社交界は食いついてくれていたが、それで全てが隠せるわけもない。モイラの母親の行いをなるべくモイラに引き付けてはいるものの、全てを引き取れるわけもない。
母親イポリタが既婚者で嫡子をすでに儲けているから、その上で誰かと浮気をしてもあまり問題にならないから、噂話として面白くないから、目立たずにいるだけだ。モイラの噂が大きすぎるから隠れてはいるものの、イポリタ自身についてもとうぜん噂されてはいる。
イポリタと関係した男性の中には、それがモイラだと思い込んでいる者もいれば、イポリタだと分かっている者もいる。分かったうえで、シーシュ伯爵から睨まれないように、あるいは悪女のイコンたるモイラと噂になる方が男たちの中でステータスになるからという理由で、モイラと関係しているように装う者もいる。
しかし、モイラは今や既婚者だ。嫡子こそいないものの、未婚の悪女という強い印象は薄れてしまった。
いつまでも伯爵家にはいられなかったし、立場とお金が必要だったからオーベルとの結婚に後悔はないものの、生み出す噂の面白さと強烈さを引き換えにしたかたちだ。
母親の行いを諫めて改めさせることは無理だととっくに諦めたし、妹の結婚や弟の家督相続と伯爵家立て直しがすぐにできるわけもないし、それなのに母やモイラの抱える真実という爆弾はいつ爆発するかも分からない。モイラが悪女としてお役御免になる日は遠いのに、強制的にそうなってしまう可能性はいつもそこにある。
本当に、どうにかなってしまいそうだ。何もかもを明かして、自分でこの茶番の幕を下ろしてしまいたいとさえ思う。
それができないのは、曲がりなりにも自分を育ててくれた伯爵家のため。妹と弟のため。それに、投げ出した後に社交界に新たな噂話を提供してやるのが業腹だからだ。言ってしまえば、意地だ。
だからモイラは微笑む。弱気や鬱憤を意地に転化して、生まれ持った色気を利用して、悪女としての存在を誇示する。
夜会で男性をあしらうのも慣れたものだ。反面、閨でのことは分からない。モイラが子持ちであるという噂があるが、イポリタの噂と混ざっているだけだ。もちろんモイラは訂正せず、むしろ勘違いを助長するように仕向けている。
男性たちの手が伸ばされるたび、生理的な嫌悪とともに、諦観が心を過ぎる。こんなふうに生まれついてしまった自分を、責められているような気持ちになる。嫌だという思いと、仕方ないという思いとがぐちゃぐちゃになる。
誰かに助けてほしいのに、一人で戦わなければならない。
妹のアラミアは母のことを逐一報告してモイラを助けてくれるが、代わりになれるわけではないし、できたとて代わりにさせるわけにはいかない。守るべき存在だ。
弟のドリアスも、侍女のサリアも、それぞれにモイラを助けて味方になってくれるが、どちらもモイラにとっては庇護の対象だ。ドリアスやアラミアとは、いずれ家族の縁が表向きにも切れるものと覚悟してもいる。
オーベルの形ばかりの妻となり、アラミアやドリアスやサリアとも最後のところで線を引いたモイラには、悪女としての役目を終えれば、きっと何も残らない。周りを欺き続けるモイラに、救いがもたらされることはない。
それなのに。
「……何をしているんだ?」
いつの間にか驚くほど耳になじんだ声が、モイラに触れようとしていた男を咎めていた。男たちに囲まれる悪女たるモイラへ、触れようとするのではなく、それを止めようとする救いの手が、伸ばされていた。
「閣下……!?」
オーベルもこの夜会に来ていたのか。それはそうか、彼は公爵だ。こういった場を好まないのは知っているが、必要になることもあるだろう。
それは理解したが、彼の行動の意味が分からない。モイラは混乱した。
(えっと……私、オーベルには嫌われていたはずよね? 最近は少しましになってきたとは思うけれど、それでも印象がいいとまでは言えないはず。それを抜きにしても、私とは不仲であると周囲に印象付けた方が、彼の目的には適うと思うのだけど……)
お飾りの妻として、悪女たるモイラを都合がいいと求めたのはオーベルだ。モイラの側も都合がよかったから話に乗ったが、互いの行動には不干渉であることを定めたはずだ。
それを破ってまで、彼の側の都合を無視してまで、オーベルはモイラを助けてくれようとしているのだろうか?
夫たる公爵にいきなり凄まれて、モイラに触れようとしていた男はもごもごと言い訳めいた謝罪を呟き、そそくさと逃げ出した。
正直、モイラ一人で何とでもなった。多少触れられるくらいなら我慢すればいいだけだし、程度がひどければ言葉で拒絶を伝えるし、それで駄目なら持ち歩いている薬の出番だ。香水を装って吹き付ければ、慣れていない者には少しくらりとする効果のあるものだ。あまり使いたくはないが、他にもいろいろと用意はある。
「……庇ってくださったのですか?」
「……余計なことだっただろうか。君が、嫌がっているように見えたものだから」
オーベルの言葉に、モイラは驚いた。モイラが男の手を喜んでいるのではなく嫌がっているのだと見て取ってくれたのか。モイラが悪女であると決めつけて色眼鏡をかけた状態であれば、そうとは分からなかったはずだ。
「悪女モイラ」の仮面が、オーベルに対しては剥がれかけている。それを理解した出来事だった。
そして。
(……駄目。これは、違う……)
なぜか胸が高鳴るのは、悪女の仮面が剥がれそうで動揺しているからだ。
ほかの理由などない。……はずだ。




