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不作の気配は徐々に色を濃くしていき、オーベルの心に暗い影を落とす。
このエラス王国は多くの島々から成っており、それらの間を流れる潮流の要因もあって、北部と中央部と南部とでは気候がはっきりと異なる。
北部には人が少なく、領地の広さを見てもアテナエ公爵が管理する領地が群を抜いて広いので、オーベルに並び立つ存在がいない。つまり、悩みを共有して相談できる相手も少ない。
「今年の夏は涼しそうですが、それでもやはり避暑には行きたいものですな。北部は涼しくて羨ましい」
そんなふうに呑気に笑ってのたまう相手を張り倒したい衝動をこらえつつ、オーベルはにこやかな表情を貼り付けて相槌を打った。夜会でそんな無粋なことをするわけにはいかないし、相手の機嫌を損ねるわけにもいかない。
オーベルは今、王都に来て、城で開催されている夜会に参加している。
「ええ、どうぞお越しください。何もないところですが」
「いやいや、風光明媚なところじゃないですか。高地にどこまでも広がる牧草地で家畜が伸び伸びとしている様子なんて、いつまで見ていても飽きません」
人が少なく、土地の栄養も少なく、牧草地にするくらいしか使い道がないから仕方なくそうしているのだ、と言いたいのをぐっと堪え、オーベルは歓談を続ける。
偏屈と言われることもあるオーベルだが、必要ならそのくらいのことは出来るし、今はそれをしなければならない場面だ。
目の前にいる話し相手は南部の貴族で、豊かな穀倉地帯を持っている。いよいよ北部の不作が避けられないとなると、民を飢えさせないために他所から購入するしかなく、そのための根回しはいくらしてもしすぎることはない。誼を通じておけば便宜を図ってもらえる、などと都合のいいことは考えていないが、そもそも関係が良くなければ交渉の場にも立てない。
「よろしければ特製のチーズをお出ししますよ。南部小麦のパンに合うものを揃えておきましょう」
当たり障りなく話をし、会釈をして別れる。
オーベルはあまりこういった場を好まないし、必要がなければ出ずに済ませたいのだが、好き嫌いとは関係なく立場といったものがある。好むと好まざるとに関わらずオーベルは公爵だ。少なくとも今は。いずれ親戚に公爵位を義務ごと譲り渡すつもりではあるものの、当代のアテナエ公爵は自分なのだから、祖先から受け継いできたものを維持し、領民を守っていかなければならない。
公爵として話しかけたい相手はたくさんいるし、逆も然りだ。北部の大貴族たるオーベルに近付きたい者は多く、そういった者たちも粗略には扱わない。どこで縁が生きてくるか分からないからだ。
大貴族であるのに驕り高ぶったところがなく、話しかければきちんと聞いて応答する、そんなオーベルが偏屈と言われるのは、ひとえにこれのせいだ。
「……私には妻がいますので」
アプローチをしてくる女性に対して冷淡。これに尽きる。
口調は丁寧ながら素っ気なく断られた令嬢は、少し拗ねるように口を尖らせて言い募った。
「でも閣下。閣下の奥様って、少し……問題のある方でしょう? 閣下がおかわいそうだわ。今日も一緒に来ていらっしゃらないみたいですし……」
こういった夜会には配偶者を伴って出席するのが普通だ。しかし、モイラとは社交界での互いの行動の自由を約束しており、彼女に同伴を頼むことはない。
暗黙の了解を破っている形だが、公爵ともなれば表立って文句を言う人は少ない。今回の夜会を主宰している王族には予め無礼を詫びる旨を伝えておいたためお咎めもない。この場にはオーベルよりも立場の高い者は何人かいるが何も言わず、オーベルよりも立場の低い者はとうぜん何も言えない。
公爵としての権力の使いどころを間違っている気がしなくもないが、偉ぶっているわけでもないし問題ないだろう、と気にしないことにしている。
そんな風に同伴なしでの出席を強行しているオーベルだが、弊害もしっかり出ている。
女性から誘いをかけられるのだ。
既婚の婦人から夜の誘いをかけられるし、未婚の令嬢からも愛人にと立候補される。
辟易するが、これは今に始まったことではない。オーベルの容姿は母親似で、母親は誰もが振り返る美女だった。この容姿に公爵という立場が合わさるのだから、女性たちが目の色を変えるのも当然だろう、と客観的に分かっている。
モイラという妻を得てからはましになるだろうかと期待したのだが、誘いは減らず、むしろ増えている気がしなくもない。未婚の令嬢の希望が妻から愛人へと変わったくらいだ。むしろモイラを――彼女も、誰もが振り返る美女だ――娶ったことで、偏屈な女性嫌いとみられていたオーベルもはやり男なのだ、と思われたらしい。迷惑なことだ。
(……かといって、離婚する気はないが)
別に自分がどう思われようと構わない。風評被害を受けている気がするが、そのくらいは甘んじて受ける。私的な場でのモイラは公爵夫人としての権力を振りかざすこともなく、オーベルを誘って煩わせることもなく、待遇に文句を言って困らせることもなく、形式上の妻として上出来すぎる。しかも睡眠不足の解消までしてくれる。
「……わたくしなら閣下をお一人で放っておかないのに」
上目遣いに見上げてくる令嬢に、頼むから放っておいてくれ、と言いたくなったが堪える。モイラと違って話が通じる気がしない。
さてどう断ろうかと視線をさまよわせると、視線の先に当のモイラがいた。普段の彼女なら着ないような明るい色のドレスを着て、年嵩の男性と談笑している。
(……!?)
驚いて見ていると、オーベルにつられてそちらを見た令嬢が言った。
「まあ、シーシュ夫人もいらっしゃったのね。本当に、よく似ていらっしゃること……」
シーシュ夫人、つまりはモイラの母だ。令嬢が言うように、確かにモイラとよく似ている。一瞬見間違えたくらいだ。
結婚式などまともに上げていない――立会人の聖職者を呼んだくらいで、互いの親戚すら呼んでいない――ため、モイラの家族とはそこまで顔を合わせる機会がなかった。だからこうしていちいち驚いてしまう。
(しかし、なんだか……)
オーベルが違和感に眉をひそめた、その瞬間。
ホールの入り口の方で、ざわめきが起こった。
いったい何事かと振り向く。そして、目を見開いた。
モイラが――今度こそ本物のモイラが――ホールに入ってきたのだ。
たったそれだけで、人目を奪う。公爵邸の邸内では飾り襟や羽織物で覆っていた肩や胸元を惜しげもなくさらし、魅惑的な体の線が出る漆黒のドレスを纏い、豊かな黒髪をゆるく結い上げて後れ毛を鎖骨のあたりに垂らしている。宝石類を身に着けていないのに、誰よりも煌びやかに輝いている。
彼女が少し腕を動かすと豊かな胸が強調され、歩を進めると腰のあたりに男性たちの視線が吸い寄せられる。彼女に突き刺さるように注がれる視線が目に見えそうなほど、モイラは注目のただなかにいた。
(そうだ、これが本来のモイラだ……)
私的な場で気を抜いた姿を見ていたから忘れていたが、彼女はこういう存在だ。夜会を優雅に泳ぎ回る、黒髪の妖婦。数多の男たちと浮名を流す、社交界の悪女だ。
こうしたモイラを目にしたから、オーベルは結婚を申し込んだのだ。誰かの子を孕んでもオーベルの子ではないと周りを納得させられるから。公爵家をオーベルから――本当に前公爵の子なのかも分からない自分から――公爵家の血筋へと、本来の持ち主へと穏便に譲り渡せるから。
(だが……これは、何だ?)
結婚前には分からなかったこと。素の彼女を垣間見てきたからこそ分かったこと。
(なぜ……そんなに、苦しそうなんだ……?)
妖艶に笑うモイラの表情が、どうしても心からの笑顔に見えないのだ。




