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「これは、頂けませんわ」
そう言った途端、夫の――アテナイ公オーベルの――形のよい眉がひそめられた。
(ああ、絶対誤解されてる……私のこと、鼻持ちならない女だと思ってるでしょうね……。それにしても、しかめっ面も絵になるなんて嫌味だわ……)
オーベルは夜のような黒髪に灰色の瞳が鋭く、どこか狼を思わせる精悍な美丈夫だ。軍役についていた経験があり、国の北部の守りを任される公爵という立場にあるため体は鍛えられて肌も健康的な色をしている。
外見は申し分ないのだ。だが……
(女嫌いだし、偏屈だし……二十五歳まで結婚せず婚約者もいなかったというのは、公爵位にある者として異例すぎるわよね……)
つらつらと考えつつオーベルを見ていると、彼の表情がどんどんと険しくなっていく。これはもしかしなくても、モイラの態度に腹を立てているのだろう。伯爵令嬢として自分を律し、みだりに騒いだり表情を醜く歪めたりしないようにという教育を受けてきたが、自分の顔立ちのせいで冷たく見えることは自覚している。彼からはきっと、つんと澄まして取り合わずにいる高慢な女に見えているのだろう。
(……その誤解を、解くわけにはいかないのだけど)
そのまま黙っていると、しびれを切らしたようにオーベルは言った。抑えた声だが、明らかに怒気がこもっている。
「君が『これ』と言っているものは、我が領の主食なんだが。王都育ちのご令嬢は、北嶺芋のような田舎っぽい野暮ったい食べ物は受け付けないか?」
(違う、そんなわけないじゃない!? それに何よ、その嫌味な言い方! 食べられるものなら私だって食べたいわよ、せっかく出してくださったものを粗末にするなんてもっての外なのに!)
心の中では勢いよく言い返しつつ、表情には出さない。
「気に入らないの。下げさせて」
(ああ、勿体ない……ごめんなさい、食べてあげられなくて……。せめて猫の餌にされるとか、無駄にならないといいけれど。そういえば昨日会った猫、可愛かったなあ……撫でたかったなあ……)
心の中で詫びつつ、皿を押しやる。
と、その皿が押し返された。
「いくら気に入らなかろうと、それは食べてもらう。自覚がないかもしれないが、君は我が領に嫁いできたのだから、これから一生付き合っていくものだ。寒冷な北部の高地では北嶺芋が重要な食糧なのだ」
強いられてはさすがに取り繕えず、モイラは表情をひきつらせた。公爵がそれを見とがめてさらに表情を険しくする。
(そのくらい知ってるわよ! 麦類がまともに育たない北部で芋が重要な主食になっているのは。そうじゃなくて、無理、無理なの。好き嫌いとかそういう問題じゃなくて……)
その時、モイラの後ろに控えていた侍女のサリアが小さく声を上げた。
「っ、いただきます!」
それを掻き消すように、モイラは急いで声を張った。少し驚いた表情をしている公爵の手元から皿を引き寄せ、詰め込むように口にする。多少マナーが乱れてしまったが、心はそれ以上に乱れている。
咀嚼もそこそこに飲み下し、モイラは素早く席を立った。
「これで文句ないでしょう。それでは」
モイラの無礼に唖然としている公爵を後目に、素早く部屋の外に出る。
そして、自室に急ぎ戻って、倒れた。
目が覚めると、今にも倒れそうな顔色でこちらを覗き込んでいるサリアと目が合った。
「お嬢様! お目覚めになってよかった……! 今、お水を差し上げますね」
「……ん、うん。ありがとう……」
「まあ、お嬢様ったら。小さい子供みたいに。……でも分かっておりますわ、さっきは私を庇ってくださったのだって。本当に、有り難すぎて、申し訳なさすぎて……。お体が治るまで、精一杯お世話いたしますね」
「……ん……」
返事をするのも億劫で、モイラは寝かされていた寝台から動かないまま生返事をした。
サリアを庇ったのはその通りだ。あのとき彼女は、モイラが北嶺芋を口にするのを止めようとしてくれていた。しかし、公爵のすることに一介の侍女が口を挟むのは御法度だ。公爵の人格が全く信用できない以上、大切な侍女を無礼打ちにされる危険にさらすわけにはいかなかったのだ。
(私が北嶺芋を食べれば、それで済むんだもの……すごく苦しいけれど……)
モイラは北嶺芋を食べるとアレルギーを起こす。だが、北部に嫁いだ身でありながら北部の主食を食べられないとなると大問題だ。だから味が気に入らないことにして避けようと思ったのだが、公爵が強硬だった。
(一度は食べてみせたんだもの、これきりにしてくれないかしら……。無理そうだったら、何かもっと他に気を逸らして何とかできないか試してみないと。それかいっそ徹底的に嫌われて食事の席も共にしたくないと思わせてみる?)
モイラが嫁いできたのはつい一昨日のことだ。昨日の食事は北嶺芋が使われず美味しく頂けたのだが、おそらくモイラの疲れや環境の変化を気遣ってなじみの食材や味付けにしてくれたのだと思われる。気遣ってくれたのはもちろん公爵ではなく、家令以下の使用人たちだろう。公爵には嫌われている自覚も自信もあるし、そのようにふるまってきた。偏見をあえて助長しているのだから不利益が出ても自分のせいだが、それでも彼の態度に何も思わないわけではない。
「お嬢様は頑張りすぎです。いろいろなことを我慢しすぎです。私はそれが悔しくって……」
「……大丈夫、だから……」
涙ぐむサリアを慰める。かすれる声にモイラへの負担を懸念したのか、サリアはそれ以上言い募ることなく口を噤んだ。「お召し物のお手入れをしてまいります」と身を翻した。
「……ありがと。お願い……」
苦しさの峠は越えて目覚めることができたから、あとは休んで回復を待つだけだ。サリアを付きっ切りにして拘束する必要はないし、それよりも自分ではできない日課を代わりに行ってもらえる方がありがたい。
できれば今着ているドレスも脱いで手入れを任せたいが、ろくに身動きができない。モイラはとくに大柄ではないといえ、サリアもとくに怪力であるわけではない。成人女性の体を動かして服を脱がせるのは無理で、着替えは諦めるしかなかった。
(まあ、皺にならない素材を選んで作ってもらったドレスだけどね……)
モイラはドレスを五着しか持っていない。伯爵令嬢にしてはあるまじき少なさだ。桁が一つ、もしかすると二つ違うかもしれない。
しかも、持っているドレスはすべて同じ色、真っ黒だ。それも体の線が出るものばかり。
(そのせいで悪女の評判がさらに加速するし……それは好都合なのだけど、私だってもっと違う色とか、違う形とかを着たいわよ……)
それができないのは、お金がないからだ。伯爵家の財政は火の車で、とてもドレスに回すお金などない。食べるものにさえ困るので、夜会に出たときはせっせと食い溜めをしておく。ドレスのラインが少しくらい崩れたところで暗いところではそこまで問題にならないし、そもそも向けられる視線は胸や腰に集中する。顔や腹部の印象を隠すことができるのは願ったりだ。
(誰も思わないでしょうね……。社交界きっての悪女の実際が、こんなものだなんて)
実のところ、立てられている噂のすべてが嘘だ。モイラは虚像の悪女なのだ。