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悪女の結婚  作者: さざれ
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 モイラの提案に頷いたのは、ニックの忠告を思い出したからだ。奥様との時間を取れと言われて、普通の夫婦ではないのだから不要だろうと咄嗟に思ったが、それでも同居人であることに変わりはなかった。親交を深めるに越したことはないだろう。

 当初に覚悟していたよりもモイラがまともで、話が通じそうだから、というのもある。まともと言うと語弊があるが、なんだか方向性がおかしいところがあるだけで、褒められない行為をしているだけで、根はまともなのだと思える。小さい頃の教育がしっかりしていたのだろう。

 ……単なる使用人のニックとは仲良くなって、名目上とはいえ夫である自分とは疎遠なままというのが面白くないから、というわけではない。見上げてくるモイラの眼差しに絆されたからでもない。断じて。

「忙しいのは終わったし、それは構わないが……睡眠薬のたぐいは要らんぞ」

 不作への本格的な対策はこれからだが、各種の専門家を招聘して会議を開く段取りはつけた。備蓄の確認や租税の軽減案の作成などは今日明日でどうなるものでもないし、やろうとすれば細々とした仕事はたくさんあるが、あちこちと連絡を取り合って忙しくしていた段階は過ぎた。今は各所からの返答を待っている状態だ。

 かといって、憂いを忘れて眠りこけるようなことはしたくない。酒に逃げるのも論外だ。

「執務をお邪魔するようなものではありませんわ。神経の興奮や緊張を和らげて寝つきをよくする類のものです」

「まあ、それなら……」

「執務室にお届けするのでよろしいかしら。着替える時間もかかりますし、用意もありますし、一時間ほど後でも構いませんか?」

「……そんな大層な用意が必要なものなのか? だったら……」

 あまり大げさだと面倒だ。断ろうとしたが、モイラが食い下がった。

「単なるお茶ですわ。ですが、お湯はすぐに用意していただけるとしても、毒見とかが必要でしょう? それに、私の格好も。泥だらけの格好で執務室には参れませんものね」

 オーベルは思わず顔をしかめた。

 モイラのせいではない。彼女に媚薬を盛られないように、何か食用のものを持ち込まれても絶対に使うなと料理人たちに厳命していたことを思い出したのだ。元はといえばモイラの悪い噂のせいだし、自分は用心しただけだが、なんだか後ろ暗いような居たたまれないような気持ちになる。毒見が必要だなどとさらりと言われてしまうと、線を引かれたようでよそよそしく思えてしまうのだ。先に線を引いたのはこちらだというのに。

「毒見は……構わない。要らない」

「よろしいの?」

「ああ。その代わり、同じものを君にも飲んでもらう」

「それはもちろん、構いませんが……」

「それと、服装も。そのままで構わない。むしろ露出過多の趣味の悪いいつもの格好でいられる方が困る」

 服装といえば、とオーベルは思い出した。モイラに尋ねてみる。

「君は……服が汚れるのを厭わないんだな。つかぬことを聞くんだが……猫にアレルギーはあったりするか?」

 屈んで草を摘んだり土をいじったりしていたモイラのドレスは裾に土汚れがついているし、小枝や葉もついているし、引っかけたらしき鉤裂きもできている。これほど無頓着なら、猫を避けたのはアレルギーでもあったのだろうかと思ったのだ。

 貴婦人にとってドレスは消耗品だから、たとえ猫が飛びついて毛がついたところで買い替えれば済む。ましてモイラの散財っぷりを考えれば、買い替えを躊躇するとも思えない。ただ、そもそも汚れるのが気持ち悪い、動物になど触りたくない、着替えるまでの時間も我慢できない、そう思う女性もいるのだ。

 モイラがそうでなければいい、頭の片隅でそんなことを考えてしまったから、モイラの肯定の返事に、落胆して裏切られたような気分になってしまう。

「それはともかく、この格好で執務室に伺うのも気が引けますから、閣下が私の部屋へお越しになりませんか? すぐ下が厨房ですから用意も簡単ですし、お待たせしませんし」

 モイラの提案に気持ちを切り替える。そういえば古い厨房の改修については、信頼するなじみの大工に任せたきりで、仕上がりの確認も執事に指示しただけだった。モイラ個人の生活空間には近寄りがたかったのだが、本人からの誘いがあるなら大丈夫だろう。いちど自分の目で確かめておくのも悪くない。

「ああ、それはいいな。お邪魔しよう。新しくなった厨房の様子も知りたいしな」

「えっ……!」

 だから提案を受けたのだが、提案したはずのモイラがなぜか焦っている。

「どうかしたか?」

「いえ、何でも。ご案内しますね」

「?」

 首を傾げつつ、西側にある棟へ向かう。少し古い時代に建てられた来客用の建物が廊下によって連結されている、モイラに割り当てた場所だ。

 邸内でも西の方に位置しており、繋路が近い。来客を泊める都合でそうなったのだが、モイラにその場所を割り当てたのは、その方がお互いにとって都合がいいだろうと思ったからだ。遊び好きのモイラは頻繁に王都へ帰るだろうし、男の元へ通う様子をオーベルとてあまり目にしたくない。邸内をうろつかれるよりも繋路に近い場所を宛がった方が、話が早いだろう。

 思った通り、モイラは繋路をよく利用しているようだ。門番とは別に繋路番を置いているのだが、その者を通して朝食や、ときには夕食も要らない旨を律儀に伝えてくる。

 繋路番は下世話な興味を滲ませつつモイラの行動を報告してくる。彼女の放蕩は最初から分かっていたし、報告にいちいち腹を立てるのも馬鹿らしい。

(……と、思っていたんだがな……)

 自分でも意外なことに、報告を聞くのが不愉快だ。どうでもいいこととして淡々と受け止めればいいものを、なぜか心が掻き乱される。

 それと同時に、違和感が膨らむ。

 昼間には嬉々として庭を歩き回るモイラが、夜には社交界の毒花として夜会を優雅に泳ぎ回る。女性の二面性と言ってしまえばそれまでだが、二面性とはそういうことではないだろう。

 そういえば、オーベル自身は夜会でのモイラをあまり知らない。自身がそういった場所を好まないことに加えて、モイラもあまり長く夜会の場にいないようなので目にする機会が少なかったのだ。たまに目にしても、彼女はいつも多くの男に囲まれていたので、どんな様子なのかも見ていない。

 庭には半日でもそれ以上でも居続けるモイラが、好むはずの夜会には長時間出続けないというのは考えてみればおかしい気がする。短時間だけ、しかし強烈な印象とともに社交界へ姿を現すさまは、まるで美しく儚い蝶のようだ。

 夜会から夜会へ、花から花へ、蝶は幻惑するように飛ぶ。享楽的なだけだと考えてはみるものの、どうにも違和感が拭えない。

(分からん。君は一体、何を考えている?)

 抱いてみれば分かるのだろうか。――彼女にそうした多くの男たちのように? 友人のエジェールのように?

 そう考えると、表情が険しくなるのを自覚する。できるならばすぐにでも思考を止め、モイラを視界から追いやってしまいたい。しかしモイラはそこにおり、頭の中にも居座り続けている。

 エジェールはモイラに溺れ、憔悴し、生活も壊れた。その彼はオーベルに忠告した。同じ轍は踏むな、と。

 そんなことにはならないと一笑に付したが――本当に?

(……分からん。君は本当に、何なんだ?)

 オーベルの視線の先で、モイラの長い黒髪がゆるく風にそよぐ。

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