12
悲鳴を上げかけたが、寸でのところで堪えた。堪えた自分を褒めたくなったほどに、オーベルの声は低く威圧感に満ちていた。
「見境なく使用人を誑かしていたのか? そんな真似をされると困るんだが」
「違うわ、そんな……」
違うのだが、説明ができない。いっそオーベルにも色仕掛けを仕掛けてみようかとも思ったが、上手くいく未来が見えない。
表情には出さないながら内心でおろおろとしているモイラだったが、助けはニックから出された。
「旦那様、ご冗談を。立場もですが、年齢をお考えくださいや。こんな孫みたいな娘っ子とどうこうなんて、なるわけがないでしょう」
「……。それはまあ、そうなんだが……」
「それに旦那様。僭越ながら申し上げるんだが、奥様とのお時間をもっとお作りになってはいかがか? 奥様がこんな老いぼれを相手に時間をつぶさなくてもいいようになさればいいと思うんだが。わしが相手ならまだいいが、若い連中にこんなことをされたらこちらこそ堪らん。奴らが間違いを起こす前に奥様を躾けておいていただきたいんだが」
「…………」
オーベルは渋面だ。
モイラも内心はらはらしながら聞いている。昔気質のニックの男性優位な考え方が垣間見えるが、口を出すところではないだろう。悪い人でないことは知っているし、モイラを案じてくれているからこその言葉だ。元はといえば誤魔化そうとして下手を踏んだモイラが悪い。
「さて、わしはもう行くが、旦那様。くれぐれも奥様から目をお離しになりますな。危なっかしくてかなわん」
「……分かった」
「それと奥様。媚薬は旦那様に作ってさしあげればいい。間違っても他の奴に使うんじゃあないぞ」
(ひええええ……)
オーベルがどんな顔をしているのか見るのが怖い。モイラは頬が引き攣りそうになるのを堪えて笑みを作った。肯定も否定もせず、微笑んで誤魔化す。
ニックが庭仕事に戻るのを見送りつつモイラも立ち上がる。石に腰かけたまま放心してしまいたいところだが、公爵が目の前にいる以上そんなことはできない。
「それでは、私もこれで……」
「…………媚薬」
そそくさと立ち去ろうとしたが、オーベルのぼそりとした呟きがモイラをぎくりとさせ、足を止めさせる。
「……あの、ちょっと言ってみただけですわよ?」
「……作れるのか?」
え、とモイラは瞬いた。
「閣下、お使いになりたいお相手がいらっしゃるのですか? それなら……」
「いるわけないだろう! それに、それなら……とは何だ!? 求めたら作ってくれるとでもいうのか!?」
オーベルが慌てている様子なのがおかしい。モイラは思わずくすりと笑い、補足を続けた。
「体の働きを助ける薬ならありますし、物によっては作れますわ。でも、一般に信じられているように、その気のない人を意のままにしたり、人の心を変えたりなどといった薬はありません」
オーベルはほっとしたようだった。
「そうか……。それならよかった。君がちゃんと良識的だったようで」
「……安堵なさるところはそこですの?」
むっと口を尖らせると、オーベルは吹き出すように笑った。精悍な顔立ちだが、笑顔は意外と親しみやすくて感じがいい。
(……って私! 何を考えているの!)
モイラは気をそらそうとして、オーベルの目元に目を留めた。少し疲れが見える。
「閣下、もしかして、あまりお眠りになれていないのでは?」
ああ、とオーベルは頷いて目元に手をやった。
「分かるか? 少し忙しかったのと、夢見の悪いのが続いてな……」
「それなら、いいものがありますわ。お持ちいたしますが、お時間を取ってくださる?」
「忙しいのは終わったし、それは構わないが……睡眠薬のたぐいは要らんぞ」
「執務をお邪魔するようなものではありませんわ。神経の興奮や緊張を和らげて寝つきをよくする類のものです」
「まあ、それなら……」
「執務室にお届けするのでよろしいかしら。着替える時間もかかりますし、用意もありますし、一時間ほど後でも構いませんか?」
「……そんな大層な用意が必要なものなのか? だったら……」
断られそうな気配を察し、モイラは先んじて封じた。効能には自信があるから、できれば試してほしい。
「単なるお茶ですわ。ですが、お湯はすぐに用意していただけるとしても、毒見とかが必要でしょう? それに、私の格好も。泥だらけの格好で執務室には参れませんものね」
毒見、と聞いたオーベルの表情が少し険しくなった。変に警戒させてしまったかもしれないと思いつつ、そこを曖昧にしたまま押し付けることはしたくなかったから仕方ない。
それに、薬草茶を供するにあたって、最低限の保証や信頼は必要だ。飲んでも大丈夫だろうかとか、絶対に効かないだろう、などと思いながら飲んだ場合、効果は半減するだろう。できればリラックスした状態で飲んでほしい。
「毒見は……構わない。要らない」
まあ、とモイラは瞬いた。
「よろしいの?」
「ああ。その代わり、同じものを君にも飲んでもらう」
「それはもちろん、構いませんが……」
「それと、服装も。そのままで構わない。むしろ露出過多の趣味の悪いいつもの格好でいられる方が困る」
本当に嫌そうに言われ、モイラは苦笑いした。
いまモイラが着ているものは、いちおうはドレスと呼べる形ではあるが、首元がきっちりと詰まっており、袖も腕の七分ほどを覆い隠している。特に汚れやすい前腕部は長手袋で覆っており、肌を出していない。植物を扱うときの基本的な装備だ。スカートも生地をたっぷりと取ってあり、多少動いたところで足は見えない。皮の長靴で足元を固めてあり、いつもの華奢な靴とはまったく違う。
全体的な印象で言えば、野遊びに出てきた鄙のお嬢様、といったところだ。武骨な手袋を取って籐のバスケットでも提げればそのものだろう。
(お金が自由に使えて、こんな服まで買えるなんて本当、嬉しすぎるわ……!)
心の中で喜びを噛みしめる。ドレスの布地は高価なものではないし、縫製もモイラとサリアで行ったから人件費もかかっていない。それでも伯爵邸にいたころは全く手の出せなかった贅沢品だ。そもそも使う機会もなかった。
(サリアへのお手当ても充分に出せるし、公爵夫人の立場が有難すぎるわ。だからこそ、立場とお金をくださった閣下には報いないと)
悪女のふりをするだけでは見合わなさすぎるだろう。せめてもう少し役に立ちたい。薬草茶がその一歩になれば嬉しい。
考えながら、庭の道を辿る。公爵が隣を歩いているが、ふと、何かを思い出したようにモイラへ声をかけた。
「君は……服が汚れるのを厭わないんだな。つかぬことを聞くんだが……猫にアレルギーはあったりするか?」
「……いいえ」
アレルギーと聞いて一瞬びくりとするが、問われているのは芋ではなく猫だ。どこからそんな考えが出たのか気になったが、深掘りして北嶺芋の話題へ移っては困る。モイラは短く否定した。
「……そうか」
公爵の声が心なし残念そうだ。モイラは首を傾げた。
「それはともかく、この格好で執務室に伺うのも気が引けますから、閣下が私の部屋へお越しになりませんか? すぐ下が厨房ですから用意も簡単ですし、お待たせしませんし」
「ああ、それはいいな。お邪魔しよう。新しくなった厨房の様子も知りたいしな」
「えっ……!」
モイラは思わず声を上げた。あの厨房を見られるのは、ちょっとばかりまずい。
「どうかしたか?」
「いえ、何でも。ご案内しますね」
自分の迂闊さを悔やみつつ、モイラはぎこちなく笑顔を浮かべた。