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私の妻は、高慢だ。
アテナイ公オーベルは、侍女を伴って食堂に入室してきた妻を冷たく見やった。
妻――不本意ながら――である女性の名前はモイラ。豊かに波打つ黒髪は艶やかで、肌は白磁の白、瞳は深い紺碧だ。顔立ちが端麗なだけでなく、黒いドレスに包まれた肢体は嫋やかで、まだ十九歳の少女だというのに妖艶な色気がある。
男性ならば誰もが求める美女だろう。オーベルも悪友たちから――そのうちの一人を除いて――さんざんやっかまれたり揶揄われたりしたし、彼女の美しさについて異論があるわけではない。
問題はその外見ではなく、内面だ。
男を誘うような外見からある程度は察せられるだろうが、彼女は、とんでもない――悪女なのだ。
男をとっかえひっかえ、社交界に浮名を通り越して悪名を流し、それに付随するさまざまな噂も流れている。
たとえば、隠し子がいるという噂。
大きな声では言えないが、彼女と寝所を共にした男たちが言うには、彼女には出産を経験したふしがあるというのだ。
また、媚薬を自作し、使っているという噂もある。
こちらは伯爵邸――彼女の結婚前の身分はシーシュ伯爵令嬢だ――の使用人が目撃している。彼女は浴室で何やら怪しげな黒っぽい液体を調合していたようなのだ。もちろんそれだけでは媚薬かどうか分からないが、彼女の不品行と、目撃されたときに慌てて隠そうとした様子から察するに、後ろ暗いものであることは間違いないだろうということだ。
それほどまでに男好きであるならと彼女に粉をかけようとした男は多いが、彼女は浮名を流す一方、気に入らない相手には剣突を食わせている。当然といえば当然のことではあるのだが、断られた男たちが根に持って悪名を広めるため、社交界の高慢な悪女の名前は広まる一方だ。
(本当に――とんでもない)
食堂の席についた妻を見やり、オーベルは深い溜息をついた。
互いの利益と打算だけで結ばれた縁だ。愛情など抱きようもないが、それでも不愉快な顔をこれからも見続けるのだと思うとやるせない。いくら美しかろうと、嫌いな相手の顔など見たくもない。
モイラはオーベルをちらりと見やり、しかし挨拶もせず席についた。新婚早々から寝室は別々で、食事も共にしないのでは外聞が悪すぎるだろうと席を設けてみたものの、これからは理由をつけて食事も別々にしたいものだと考える。
寝室が別々である理由は明確だ。
子を作るつもりがないから。
そして、これは悪名高いモイラを娶った理由でもある。仮に彼女がどこぞで子供を作ってきたとしても、その子がオーベルの子ではないと周囲に納得させられる。子を作るつもりがなく、家督を親戚筋に譲るつもりであるオーベルには、不品行な妻という存在は都合がよかったのだ。政略で仕方なく結婚したという体を取りつつ、形ばかりの妻を得て、公爵家の形だけを保ちつつ甥なり従弟なりに家督を譲る。そのためだけの妻だ。
オーベルにばかり都合がいいようだが、モイラの側にも利益はちゃんと出ている。
身持ちの悪い娘が嫁げる――それも格上の公爵家に――機会など、望んだとてそうそう手に入るものではない。モイラの浪費のせいで傾きかけている伯爵家も、彼女を片付けてしまえば持ち直すだろう。一応は公爵夫人だ、衣食に不自由をさせるつもりはない。
(もちろん、実家にいたときのように、好き勝手を許す気はないが)
とはいえ、問題を起こして嫁げなくなった娘が行き着く先の典型である修道院暮らしよりは比較にならないほどましな境遇だろう。
向かいに座るモイラは昨日と同じように黒いドレスを纏っているが、とうぜん意匠は異なるものだ。縫製だとか布地の種類だとか色々とあるのだろうが、正直言ってオーベルにはそのあたりの違いなどさっぱり分からない。首元の形が違うから違うものなのだろうと思う程度だ。
今はきっちりと閉じられているが、夜会などでは首元どころか胸元まで、それもきわどいところまで開けられていたりする。そんな彼女に鼻の下を伸ばす悪友たちに苦笑しつつ、オーベル自身は冷めた目で見ていた。
苦手なのだ。漆黒の髪も、妖艶な体つきも、放埓な態度も。嫌いと言っていい。
そんな苦手の塊である彼女をどうして娶ったのかという話だが……
(……克服したかったんだろうな)
他人事みたいに考える。オーベルにとってのトラウマの元であり、苦手な要素そのものである――というより彼女のせいで黒髪も妖艶さも女性も苦手になった――母親の存在を。
オーベルの母親も黒髪で、男の目を惹く体つきをしており、そして、放埓だった。――オーベルの父親が誰なのかを疑いたくなるほどに。
今ここにいる自分は公爵と呼ばれているが、実際のところは分からない。どこの馬の骨とも分からない男の子なのかもしれない。
そして、目の前にいる妻は、そんなどこの馬の骨とも分からない男を見境なく漁るような悪女なのだ。
その状況に溜息と、皮肉な笑いが漏れる。まったく、なんと自分にふさわしい妻なのだろう。
食堂に入って挨拶もせず、オーベルを横目にちらりと見るだけで空気のように無視して席についたモイラは、美しい所作で朝食をとっている。
その髪にも服にも、一筋の乱れもない。それも当然だろう、彼女は服が汚れるのを嫌う。
公爵邸は古城が元になっており、時代を経るごとに改築を重ねて拡大していったため、造りが複雑で広大だ。だからモイラは自分が見られていたなどとは気付かなかっただろうが、昨日偶然、彼女が中庭にいるときにオーベルが執務室の窓から視線を落としたのだ。
結婚式が一昨日で、それに合わせて執務も急ぎのものはあらかた終えていたといえ、急を要する用件は不意に出てくるものだ。新婚だから休みをと提案してくる爺やたちを体よく追い払い、自分から望んだとはいえ不本意な現状から目をそらすように、オーベルは執務に没頭していた。
ふと喉の渇きをおぼえてお茶に手を伸ばし、気分転換にと中庭の緑を見ようと視線を落としたら、先日嫁いできたばかりのモイラが歩いていたのだ。
不愉快なものを見て眉をしかめたが、視線をそらそうにも気になる。まさか嫁いで早々に誰かと逢引きでもし始めたのかと疑ってしまい、そのまま視線を向け続けていると、彼女は奇妙なことを始めた。美しく整えられた花壇の花々にはまったく目を向けず、自然のままに茂らせた草木を観察するように歩き回っていたのだ。
高慢な悪女のイメージとは外れた行動に面食らっていたが、それも彼女の次の行動を見るまでだった。
城に住み着いている猫の一匹が彼女の前に飛び出したのだ。
城には猫が多い。隅々まで管理をするのは不可能なほど広大な城であるため、住み着いた猫を追い出すのも現実的ではない。手入れの行き届かないところにはびこる鼠を捕食してくれるため、むしろ居ついてくれると好都合だ。だから半ば飼われているような形で、猫たちは城を我が物顔に闊歩している。
モイラの前に飛び出してきたのもそんな猫の一匹だ。人間を怖がるどころか餌をくれる相手と認識しているため、おやつをねだりに出てきたのだろう。
とりたてて猫が好きな者ではなくても頬を緩めずにはいられない愛らしい仕草でおやつをねだっていたものの、モイラの心には響かなかったらしい。
彼女はあとずさり、ドレスに猫の毛がついていないか気にするような仕草を見せたのだ。
それを見たオーベルは、一気に興が削がれた。まさかモイラが草木に興味を持ち動物を可愛がるようなタマだとは思っていなかったが、それにしても少しくらい心を動かされてもいいのではないだろうか。
猫の毛がつくのを気にしていたのは、これから誰ぞ男の元へ行くのだろうか。
そう思うと腹が立ち、オーベルは彼女から視線を外して再び執務に戻った。
それが、昨日のことだ。
それから何があったのかなかったのか知らないが、彼女は今日も澄ました顔でオーベルの前に現れて朝食をとっている。朝食を共にするのはこれで二日目だが、憂鬱さは一日目と変わらない。
その彼女がカトラリーを置き、高慢に言い放った。
「これは、頂けませんわ」