17.誰かを殺すような人には見えないのに
夜でも明るい、雑多な通りに面したバーの前に立つ。黒く縁取られたガラスの向こうは人で賑わってる。酔っ払った人々を隠すかのように、所狭しと鉢植えが並んでいた。それらはピカピカ光る、丸くて小さなライトで飾り立てられていた。
一呼吸して、履き慣れない、高めのヒールがついた赤いパンプスに目を落とす。大丈夫。この時間なら、悪質な酔っ払いはいないはず。何かあったら、先輩が助けてくれるし。もう一度、深呼吸する。ガラス扉の細長い取っ手を掴み、開いた。
(ああっ、どうかどうか、元彼がいませんように……!!)
殺人犯のオリバー・ノートン(決めつけ)を追いかけるということは、元彼に遭遇するかもしれないってこと。あいつらが今でもずぅっと仲良くしてるタイプには見えないけど、可能性はある。嫌だなぁ、このバーで待ち合わせしてたらどうしよう。
入り口付近で飲んでいた酔っ払いどもの視線を浴びつつ、辺りを見回して、オリバーの姿を探す。木目調の天井は高く、開放的で、無数に下がったライトから火花が散っている。おしゃれ~、魔術仕掛けの演出だ。白いタイル張りの床には人影が浮かび、流れている音楽に合わせ、踊り狂っている。時折、ピカっと眩しい光を放つ。
(薄暗いところじゃなくて良かった~。店の奥で飲んでるのかな、見当たらない……)
露出が多い服を着ているからか、口笛を吹かれた。うー、イライラする! でも、これが一番。元彼と一緒で女好きのクズだから、胸や足を出していれば気が緩むでしょ。着ているのはハイネックだけど、ノースリーブで、胸の谷間だけ見えてる黒いニットワンピース。もちろん、丈は短めで太ももが丸見え。
髪の毛は緩く巻いて、後ろでまとめた。チェーン付きの赤いショルダーバッグと赤いパンプス。いつもよりメイクを濃くして、キラキラの派手なイヤリングをつけてるから、どこからどう見ても軽そうな女! 落ち着かないから、さっさと見つけて、自白剤盛って、警察署に連れて行こう……。
カウンター席をさりげなく見てみると、いた。知らない男と並んで喋ってる。みぃつけたぁ~!! 絶対絶対、刑務所送りにしてやる。青いシャツとだぶだぶのズボンを着たオリバーに近付いて、曲がった背中を叩けば、すぐに振り返り、青い瞳を見開いた。意識して、可愛らしい笑顔を浮かべる。
「久しぶりね! 覚えてる? 私のこと。前にアレックスと付き合ってた……」
「あ~、フィオナちゃん!? えっ、偶然すぎ! もちろん忘れてないよ。誰かと飲みにきた?」
「ううん、一人で来た。良かったら一緒に飲まない?」
「いいよ、いいよ! アレックスの近況を教えてあげようか?」
「やだ、も~。そういう話がしたくて声をかけたわけじゃないのに!」
「じゃあ、どういうつもりで俺に声をかけてくれたの?」
すんなりと二人の間に入って立ち、ワインとおつまみを注文して、楽しく喋る。チョロすぎない? 思ったよりも簡単だった……。短く刈り込まれた金髪の男、ジャンが元彼の友達ということもあって話が弾む。
オリバーはどんどん酒をあおって、食べて、私にご自慢の逞しい腕や胸元を触らせ、甘い声で褒めちぎってやると、気を良くして、なれなれしく肩に手を回してきた。こいつ! 嫌だけど我慢、我慢。
「なあ、本当にフィオナちゃんって可愛いよね。バカじゃねぇの、手放すなんて」
「そうかなー」
「連絡先交換しようよ。あーあ、俺だったら絶対にフィオナちゃんのこと、泣かせたりしないのになぁ! 贅沢だよな、あいつ。こんなに美人で、喋っていて楽しい彼女がいるのに浮気するとか」
「昔の話はしたくないなぁ。ねえ、オリバーの話を聞かせて? 今、彼女っているの?」
「いない、いない! 彼女欲しくて探してるんだけどさ、なかなか見つからないんだよね~。フィオナちゃんみたいな子が理想なんだけど、滅多にいないし」
オリバーが私の腰に手を回して、甘くささやきかけてくる。……彼女を自殺に見せかけて殺して、大事にしていたものを勝手に売り払って、あれからまだ、二週間も経っていないのに、他の子を口説くの? 信じられなかった。
自惚れているチャラ男にしか見えないよ。本当に殺したの? アレックスと三人で会って喋っている時、面白くて、よく笑う男の子にしか見えなかった。静かに血の気が引いてゆく。
(嫌だな、信じたくない……。普通に喋ってる相手が殺人犯だって)
何かの間違いだったりしない? 女好きでチャラいから、良い人ではないかもしれないけど、お金目当てで誰かを殺すような人には見えない。優しさを持ち合わせてるって信じたい。甘い雰囲気になりつつある私達を見て、ジャンが気を利かせ、立ち去ってくれた。
「ねえ、オリバー」
「ん? どうしたの、フィオナちゃん」
「移動しない? 人目を気にせず、ゆっくり飲める店に行きたいの」
「じゃあ、個室に行こうよ。奥にあるんだよ、個室が」
「へー、知らなかった! 楽しみ」
別料金を払ったら、個室でゆっくり飲めるらしい。ちょうど空いていて、案内して貰えることになった。私の腰に回された手をつねって、叩き落としてやりたい衝動に駆られながらも、店の奥にある個室へ向かう。
ふと、先輩のことが気になって振り返ってみると、お店の人と何か話していた。あー、かっこいい! 今日は全身黒色でますますかっこいい。ほのかに銀色が混ざった七分丈のジャケット、胸元が覗き見える黒シャツと黒いズボン。オーラが半端ない。マフィアっぽいけど、かっこいいなぁ~!!
(これが終わったら写真撮らせて貰おう。ふっふっふ)
個室の出入り口に、黒い縄のカーテンがかけられていた。うげ~、思ったより狭い。三人入ったら身動きが取れなさそうなほど、狭い個室に、黒いラタン編みのハンキングソファーが置いてある。南国っぽい。
丸いソファーの中には、白い座面とクッションが入ってた。しぶしぶ腰かけると、吊り下げてあるから、軽く揺れる。酒臭いオリバーがすぐさま、私の隣に腰かけた。うえっ、き、気持ち悪い。
「追加で何でも頼んでいいよ~、奢ってあげる!」
「いいの? ありがとう。だけど大丈夫? お財布忘れてきちゃったって言わない?」
「言わない、言わない! 俺、今かなり儲けてるからさ」
「へー。ギャンブルで儲けた? それとも、私が知らないだけで飲食店って儲かるの? 教えて」
甘えるようにオリバーの胸元へ寄りかかって、可愛い上目遣いで見つめたら、ごくりと喉を鳴らした。うーん、想像を絶する気持ち悪さ。吐きそう。まったく警戒せず、私の肩を抱き寄せ、酔った眼差しで見下ろしてくる。
「じいちゃんの家を片付けるの手伝ったらさ、ほら、よくある話だろ? 物置から見つかったガラクタが実はお宝でした~って」
「……あるねぇ」
「高値で売れたんだよ、びっくりした。興味ある? フィオナちゃんが欲しいのならあげようか? アンティークの人形とか、レースとか全部」
「レース? 見てみたいかも」
「おいでおいで、家にあるんだよ、今。どうせ売れないしあげる」
顔が引き攣りそうになった。お姉さんが把握してないだけで、この男、妹さんの家から他にも盗んでるんじゃないの? 高く売れないかもしれないけど、大事なものなんだよ。お店の商品棚に並んでいるレースを見て、好きになったから、買って帰って大事にしてたんだよ。
あ、でも、大事にしてたとは限らないか。私は気に入ったものをうっとり毎日眺めるタイプだけど、妹さんは違うかもしれない……。お姉さんが「あの子にとって、ハイブランド品は精神安定剤なんです」って言ってたし。
「じゃあ、このあと家に行って見せて貰おうかな?」
「ああ、うん。フィオナちゃんならいつでも大歓迎だよ」
「やった! ありがとう~。ねえ、追加で何頼む? 私、さっき飲んだカクテルにしようかと思って。甘くて美味しかった」
「俺は飲みすぎてるからもういいや。ポテトでも頼むか。フィオナちゃんもちょっとつまむでしょ?」
「太るから、どうしようかな~。少しだけ貰っちゃおうかな」
「スタイル良いし、ちょっとぐらい大丈夫だって! 可愛いね」
やだやだ、吐きそう……。ふー、我慢我慢。こういう時は先輩のことを思い出そう。先輩の腹筋、大胸筋、鎖骨が心の支えになる。ありがとう、先輩。定期的に見せてくれて。私の網膜に焼きついてますよ! 追加注文し終えてすぐ、酔っているのか、腰を抱き寄せてきた。うえっ、キスされそう。絶対に嫌だ。
「ちょ、ちょっと酔いすぎじゃない? 店員さんに追加でお水を頼めば良かったね」
「あー、ごめん。つい。嫌?」
「ほ、ほ、ほら、雰囲気ってあるじゃん!? そういうのはあとでにしようよ……。あっ、聞かせて! 友達とお店経営してるんでしょ?」
「実は片手間にやってるだけなんだよ、あれ。でも、俺が店に出た日は儲かるみたいでさ。本当は面倒臭いけど、俺が店に行ったら売り上げ上がるから、どうしてもって友達に頼まれちゃって……」
延々と興味がない自慢話を聞かされた。つらい。残業代出てるからいいけどさ、残業代出てなかったら、今すぐ先輩に連絡して、脅して貰って、自白剤無理やり飲ませてる。でも、迫ってこないからいっか。死んだ魚の目で「わあ、すごい~」って言ってると、ポテトとカクテルが運ばれてきた。天の助け! ありがとう、ありがとう。もうこのお酒に自白剤混ぜて……。
(あれ!? しまった、酔っ払ってるのかも。こいつに飲ませなきゃ意味が無いのに。私が飲んでどうするの!?)
可愛く酔っちゃった、飲めないから飲んで~って言うしかない。どうしてこいつ、ポテトだけ頼んだのよ。私の作戦が台無しじゃん……。細いグラスの底にグリーンの液体が沈み、上にはしゅわしゅわと弾けるオレンジ色の泡が載っていた。がっとグラスを掴んで、半分ほど一気に飲む。オリバーがちょっとだけ引いてた。
「い、いい飲みっぷりだね、フィオナちゃん……。大丈夫?」
「大丈夫。歩けなくなっちゃうかも、私。残りは全部、オリバーが飲んでくれない?」
「あー、うん。いいよ、飲んであげる」
「ありがとう」
テーブルの上にグラスを置いて、戸惑い気味のオリバーの青い瞳をじっと見上げる。動きが止まったら、オリバーと見つめ合ったまま、グラスに指先をかざす。指先から数滴、自白剤を滴り落とさなくちゃいけない。魔術で。バッグの中に入ってる小瓶から、グラスへ移動させる。
私からすれば難しい魔術だけど、大丈夫。上手くやれる。上手くいく予感しかしなかった。オリバーがその気になって身を乗り出した瞬間、カクテルの中へ自白剤を滴り落とす。絶対にキスしたくないから、目と鼻の先でオリバーの口元を塞いでやった。
「だーめ!」
「むぐっ!?」
「ふふ、ドキドキした?」
「えーっ!? フィオナちゃん、そりゃないだろ! いいじゃん、キスぐらいしても……」
「私ね、男の人を焦らすのが好きなの。ほらほら、飲んで! 全部飲んでくれる約束でしょ?」
「ええ~、もう、まんまと引っかかっちゃったなぁ、俺」
意外にも不貞腐れず、にやけた顔でカクテルを飲み干した。よぉっし!! ガッツポーズしそうになった。心の中でガッツポーズしておく。自白剤の効果が現れるのは数分後。お手洗いに行くふりをして、店のどこかにいる先輩に報告しなきゃ。黒く染まった縄のカーテンを潜り抜けると、目の前に先輩が立っていた。腕を組んで、銀色の瞳に怒りをたぎらせている。
「うわっ!? ど、どうしたんですか? ひとまずこっちに」
「もういいだろ? 俺が無理やり飲ませる」
「飲ませましたよ! どうしたんですか、一体……。協力する気が無いでしょ? 合図だって決めたのに」
「あるさ。でも、こうなると知っていたら反対した」
「ええっ? 順調ですよ、今のところ。お手洗いに行ってきます。飲みすぎちゃいました、へへっ」
「……」
「飲ませたばかりなので、もう少し頑張ってくださいね」
先輩が通り過ぎようとする私の腕を掴んできた。こ、困る。そろそろ限界なのに……。奢りだからって、たらふく飲むんじゃなかった。腕を振り払ってトイレへ行こうと思っていたのに、あまりにも真剣な目で見つめられ、言葉を失う。
「キスしたのか? あのクソ野郎と」
「してませんが!?」
「ならいい。……頑張ってくださいねって、どういう意味だ?」
「あれ、気が付いてないんですね、先輩。人をボコボコに殴って海へ沈めそうな顔してますよ? でも、先輩はなんだかんだいって理性的な人でしょ! 頑張って我慢してくださいね、という意味です」
驚いたように銀色の瞳を瞠った。ああ、綺麗だな。膀胱が我慢の限界を迎えていなければ、じっくり眺めたのに!
「うわぁーっ、もう限界です!! この年で漏らしたらさすがに街を歩けなくなっちゃうので、行ってきますね!」
「……」
先輩が背後で大きな溜め息を吐いた。すみません、すみません……!! でも、ここで漏らしたら泣いちゃう。さっきまで平気だったのに立ち上がったとたん、尿意が襲ってきた。あーあ。無事に漏らすことなく、辿り着けた。
はー、やれやれ。トイレの鏡を見てみると、すっかり口紅が落ちていたから、丁寧に塗り直してから戻る。普段なら適当に塗って終わりなんだけど、綺麗な格好してるから、ちゃんとしておきたい。どうせまだ、自白剤は効いてないだろうし。あれ、数分ってどれぐらいなんだろう。
「おう、フィオナ。安心しろ、もう済んだぞ」
「はい!? 待って、この状況……えっ!?」
個室に戻ったら、晴ればれとした表情の先輩がオリバーの胸ぐらを掴んでいた。えっ、ええ、早くない? どうやって自白させようかなって悪役顔で考えていたのに、もう終わっちゃったんだ……。先輩に脅されたのか、オリバーの顔色が青を通り越して、真っ白になってる。しかも、がたがた震えてるし。
「えー、私の出番が無い! 来た意味がありませんっ!」
「いっぱい出番はあっただろうが! 嬉々として甘えてたくせに」
「あんなの全部演技ですよ……。吐きそうでした、うえっ。これから警察署へ?」
「フィオナちゃん、こいつとグルになって俺を騙してたんだな!?」
「へえ、わめく元気がまだ残ってるのか。それはありがたい」
「うっ……」
「だめですよ、暴力は! また先輩の評判が落ちちゃう」
私という無邪気で明るい相棒を手に入れて、先輩の評判がじわじわ上がってきたところなのに。先輩を押しのけて、ソファーへ座る。あ、ポテトが冷めてる。早くない?
「も~、しなしな! ここのポテト、ほら、見てくださいよ! かりっとしていなくて、しなしなで美味しくないんです。まずい~」
「さては酔っ払ってるな!? フィオナ、水を飲め、水を……。ポテト食ってる場合じゃないだろ?」
「ん? はっきりしてますよ、大丈夫です。あっ」
「あっ!?」
チャンスだと思ったみたいで、オリバーが先輩の手から逃れ、走り出した。すぐさま先輩が追いかけて連れ戻す。やたらと長くて鬱陶しい金髪はボサボサ、青いシャツはよれよれ、おまけにくちびるの端が切れていた。もー、笑うしかない! まずいポテト片手に、指を差して笑ったら、先輩まで呆然とした顔になる。
「はっはっはっは! ざまあみろ、妹さんを殺すからでしょ!? ねっ、ねっ、先輩、こいつ自殺に見せかけて殺してましたよね!?」
「フィオナ、店内の客が集まってくる。静かにしろ」
「むぅっ」
先輩が私の口へ、ポテトを数本突っ込んできた。まずいのに、これ~……。でも、先輩がくれたポテトだから美味しい。先輩の指には何でも美味しくなる、魔法のスパイスがまぶしてあるのかも。私がソファーに座ってポテトを食べている間、先輩は暴れるオリバーを床に押さえつけていた。
「くそっ! くそっ、バカにしやがって!! 聞いてるのか、フィオナ! お前のせいで俺は捕まったんだ!」
「やかましい。パトカーを呼んで貰うか、その方が早そうだ」
「俺は被害者なんだよ! 付きまとわれる恐怖なんて知らないだろ!? お前! あの女が今すぐ金を返さなきゃ店に突撃するって言ったあげく、俺のことを訴えるって言いやがったんだ! 俺は被害者なんだって!!」
「殺せば、問題が解決するとでも思ったのか? 借金も帳消しになり、被害者の家族に怪しまれることなく、人生の再スタートを切れるって?」
「……」
「静かにしていれば殴らない。……大体だ。フィオナに甘えられて良い思いをしたくせに、騒ぐのか? 被害者面するなよ、オリバー・ノートン。たっぷり良い思いをしただろうが!!」
「ぐえっ!?」
あー、そろそろ先輩を止めに入らなくちゃ。ポテト全部食べちゃったし。オリバーが床の上で腹を抱えながら、「静かにしていれば殴らないって言ったくせに!」とわめき、それを見た先輩が眉をひそめる。
「顔がうるさかったんだ。お前は無表情で黙るべきだった」
「はあ!? う、訴えてやる! 不当に暴力を……」
「不当に? 店の店員や客は逃げるお前を見ているぞ。ここへ来てからも暴れ続けた」
「……」
「まあ、でも、所詮金だよな? 金が欲しくて訴えるんだよな? 払うから骨の一、二本折らせてくれ。暴力を振るわれた証拠作りに協力してやる。どうだ、嬉しいだろう?」
「ひっ、ぐ……!!」
先輩が床にしゃがんで、もう一度オリバーの胸ぐらを掴む。大変、大変、止めなくちゃ! このあと先輩と飲み直したいし、警察に捕まったらたいへーん! 後ろから先輩に飛びついて、ぎゅっと抱きしめる。
「へっへっへー! 先輩の背中、広くて大きいですねえ! 安定感ばつぐん~!」
「……フィオナ。お前、酔いすぎだ」
「酔ってません! ねえねえ、二軒目行きませんか? ノンアルで楽しみましょうよ~、ふふっ、私はお酒飲むけど!」
「もう飲まない方がいい。オリバー、次逃げたら、無駄に高い鼻を叩き折ってやる。いいな?」
「わ、分かったよ……。大人しくしてるから」
先輩が私を背負ったまま、懐から魔術手帳を取り出して警察に通報した。温かい。先輩の良い匂いがする。オリバーはこっちを見たくないと言わんばかりの様子で顔をそらし、片膝を立てていた。
「ねえ、先輩? 私……頑張りましたよ。教えて貰った魔術、上手くできましたよ! 褒めてください、ねえってば」
「ああ、よくやったな。成功して良かった。依頼者も喜ぶだろう。さて、水を飲みに行こうか」
「嫌だ!!」
「酔っ払いめ……。おい、どこ触ってるんだ?」
「ご褒美に胸筋触らせてください、胸筋! へへへっ」
「まったく。俺の心配を返せよ、フィオナ」
シャツの下に手を突っ込んで探す。あれ、どこもかしこも硬い! これじゃどこが胸筋か分からない。というか、後ろから抱きついてるから分からない。失敗した~……。でも、腹筋を念入りに撫でておく。嫌がられなかった。
「俺は一体、何を見せられてるんだ……?」
「フィオナは俺の筋肉に弱いんだ、俺の」
「っくそ! 二人がかりで騙しやがって、ちくしょう! ……男をとっかえひっかえしてる顔だけがとりえの女に、」
「静かにしろって言ったよな? さっき」
「何だよ! 事実だろうが!! お前は知らねーだろうが、フィオナは」
「毎日そばで見ているから知ってる。気安く名前を呼ぶなよ、鬱陶しい」
「うあっ!?」
「だ、だめですよ! 私のことはもういいから……」
先輩がオリバーの顔面を片手で掴んだ。床に叩きつけそうな勢いだった。私が先輩の筋肉を愛でている隙に、なんてことを! 止めたいけど、先輩の背中にしがみついていたい。こういう時じゃないと、甘えられないから……。低く、ドスが利いた声なのに心地良い。ずっと聞いていられる。
「なあ、さっきフィオナが止めに入ってくれたよな? 腹が立って腹が立って仕方ないんだよ、俺は。フィオナが止めなきゃ、お前のことをさらってボコボコに殴って、自白剤を流し込んで終わりにするつもりだった」
「っう、放せよ! 放せ!」
「なのに、俺の目の前で堂々と貶しやがって……。クソカス野郎が! フィオナはただ、男を見る目がないだけなんだよ」
「あっそ。だから?」
「……殴らないと分かり合えないのか」
「先輩、大好きっ! ありがとうございます! 私のこと、かばってくれて……」
眠い、あくびが出ちゃいそう。喋ってる最中に出ちゃった。うー、眠い。先輩が黙って立ち上がり、私を背負った。
「うわーっ、背が高いですねえ! さすがは先輩、見上げるほど大きいから」
「行くぞ、フィオナ。水を飲んだ方がいい」
「ええっ、オリバーは? どうしてやりますか!?」
「魔術でとっくに気絶させた。……酔いすぎだって。自分が今、何を言ったか理解できてないだろ?」
「できてますよ! 先輩、大好き!」
「はいはい、はいはい……」
気が付くと、ソファーの上だった。見覚えがある白い天井。あれっ? 体にはタオルケットがかけられている。やけにごわごわするなぁ、腕がと思って確かめてみたら、先輩のジャケットを着て、ソファーに寝転がっていた。あ、靴が脱げてる。ここ、私の家のソファーだよね……?
明かりが落とされているせいで、薄暗い。違う場所だったらどうしよう、怖いな。でも、ぼんやりと棚の上にぬいぐるみが並んでいるのが見える。ふわふわシャギーの白い絨毯、脱ぎ散らかした服。テーブルの上に置きっぱなしになってる食器とお菓子のゴミ。うん、どこからどう見ても私の部屋。良かったのか、悪かったのか……。後悔して目を閉じると、人の気配がした。
「えっ? 先輩、ですよね……?」
「ああ、起きたのか。良かった。今、鍵をテーブルの上にでも置いて帰ろうと」
「いやああああっ!! 汚いのに! 私の部屋、汚いのに!!」
「落ち着け、もう真夜中だぞ。普段の様子からして、部屋は散らかっているだろうなと思っていたから大丈夫だ」
「微妙にフォローになってない! そんなぁ~……!!」
「水でも飲むか?」
「いたって冷静ですね……。飲みます、ください。普段はきちんとお皿を洗って、シンクをぴかぴかに磨き上げてるんですよ?」
「そんな嘘、ついて虚しくならないのか」
「うっ、うう……先輩のいじわる!」
くすりと笑って横を通り過ぎ、コップに水を注いで渡してくれた。あ~、生き返るぅ。どさくさにまぎれてこっそり、先輩の腹筋と胸筋を触ったところまで覚えてるんだけど……。オリバーが騒いでいたような? 上手く思い出せない。薄暗い中、空になったコップを手渡すと、無言で受け取ってくれた。
「あれからどうなったんですか? よく思い出せなくて……」
「被害者だって訴えることにしたらしい。警察署でベラベラ喋ってくれたよ。捕まった」
「ほっとしました……。ありがとうございます!」
「もう二度とこの手の依頼は引き受けねぇからな」
「ええっ!? どうしてですか?」
「少しは自分の頭を使って考えろ。トイレ借りるぞ」
「は、はい。すみませんでした……」
機嫌が最悪。も、もしかして、私、酔っ払ってやらかしちゃったのかも。絶対そうだ、やらかしちゃったんだ! おわび、おわびを考えないと……。頭が痛い。起きているのがつらくなって、もう一度ソファーへ寝転がる。多分、先輩は途中ですやすや眠り始めた私を背負って、暴れるオリバーを警察署に連れていって、事情を説明して、家まで送ってくれたんだ。
(怒って当然じゃん! うわぁ、どうしよう……)
せっかく、気まずい雰囲気が解消されたのに。今度はきっと、無言でお菓子を渡してくれない。冷たくされる。やらかしちゃったんだ、私。泣けてきた。さめざめと泣きながら、タオルケットの中に入る。
あんなに飲むんじゃなかった!! どうしよう、どうしよう。みんな、私が先輩に特別扱いされてるって言うけど、違う。やらかしたら切り捨てられる。私は先輩にとって、特別な存在じゃない……。
(いつまで経っても魔術は上手くならないし。こうやってやらかすし)
涙があふれて止まってくれない。迷惑かけたから、泣きたくないのに。神妙な表情で申し訳ありませんでした、先輩って言うんだ。ちゃんと言うんだ。泣かずに顔を見て、ちゃんと謝りたいのに。できそうにない。うー、つらいよ。時間を巻き戻したい!
(そもそもの話、私は押しかけちゃったから……。助けて貰ったお礼がしたいというのもあって、先輩のバディになったのに)
優しいところがあるから、みんなにも知ってほしい。人助けになる依頼をどんどん引き受けて、着実にこなしていったら、みんな、きっと先輩のことを怖いって思わなくなる。
でも、先輩にとっては迷惑だったんだ。私の尻拭いをするはめになっちゃうから……。どうして、こんな簡単なことに気付けなかったんだろう。嫌われるまで気付けなかった。もうこの手の依頼は引き受けないぞって言われちゃった。
胸が苦しくなる。でも、気を使わせたくなくて、タオルケットの中で体を丸めながら、声を押し殺して泣いていると、先輩が戻ってきた。突然、揺さぶってくる。
「急にどうした!? ……悪い、言い方がきつかったよな? ごめん」
「わ、私のこと、嫌いにならないでください……!! 何度でも謝ります。だから、もう、迷惑をかけたりもしないから!」
「どうしてそうなった? 分かった、まだ少し酔ってるんだろ、フィオナ」
「酔ってません! お願いします。嫌いにならっ、ならないで、私のこと」
「なるわけがない……」
起き上がったら、腕を引っ張って抱きしめてくれた。わんわん泣いてる間、ずっと優しく背中を擦ってくれた。喉の奥が痛い。先輩にとって私は足手まといで、迷惑な存在で、お荷物なのに優しくしてくれる。申し訳なくて、胸が締めつけられた。
「バディ、解消した方がいいのかもしれませんね……」
「絶対に嫌だ。受け付けない」
「私、みんなに先輩の優しさを知って貰おうと思って頑張ってきたんですよ。でも、今回、はっきりと迷惑だってことが分かって」
「泣くな、大丈夫だから。迷惑じゃない」
「本当に……?」
「本当に。どうしてそんな勘違いをしたんだ? 俺は、やけに手慣れてるフィオナを見て」
「手慣れてる?」
えっ、魔術はポンコツだから違うよね? 先輩が暗がりの中でもはっきりと分かるぐらい、苦々しい表情になった。足が痺れてきたからと言って、私の隣に腰かける。
「男に言い寄るのが上手いなと思ったんだ」
「はい!? 全部、演技なんですけど……?」
「普段からしているんじゃねぇかって」
「してません!! あ、私が夜な夜な出歩いて、吸血鬼のごとく、若いイケメンを物色してたぶらかしてると思ったんですか!?」
「バカげたことを考えてる。知っている。でも、男を焦らすのが好きって言ってたよな……?」
「キスを拒んだ時、怪しまれないためについた嘘ですよ」
「分かってるんだ、分かってる……」
先輩が頭を抱えた。もしかして、私が沢山の男に言い寄って、夜遊びしてると勘違いして怒ったのかな? 普段、仲良くしてる人が遊んでたら複雑な気持ちになっちゃうよね……。先輩にとって私は守るべき存在だから、混乱したのかも。ほっとした。
「良かった~!! じゃあ、私、お酒でやらかしてないんですね!?」
「……ああ。俺の腹筋をまさぐっていたけどな」
「良かったぁ、ほっとしました! あ、晩ご飯の残りでも食べます? 今日、一旦戻って着替えるついでに食べたんですよ」
「いらない」
「そっか、お腹空いてないんですね。わああっ、もうこんな時間!? 先輩、早く帰って寝た方がいいですよ。明日も仕事だし!」
改めてきちんと謝罪して、お礼を言ったけど、ものすごくどうでもよさそうな表情で帰っていった。うーん、嫌われたわけじゃなくて一安心だけど、お礼をしなくちゃね。何がいいんだろう、お肉しか浮かばない。




