8.嫌がらせの××
熱が出た。悔しい、あの吸血鬼に負けたみたいで。早く先輩に会ってもう一度、ちゃんと謝りたいのに~……!! 先輩に連絡したら、解毒薬とゼリー、鉄剤を届けてくれた。や、優しい。でも、風邪じゃないし、ちょっとぐらい会ってくれたって。ドアノブにかけられた荷物を見て、悲しくなる。持ち上げたら、ふんわりとコロンの香りが漂った。いつもの爽やかでスパイシーな香り。
(やっぱり怒ってる? 私が無茶したから? だよね~。仕事が出来ない新人が無茶したんだもん、苛立ってるよね)
私がバカだった、あんなことしなきゃよかった。落ち込んで、泣きながら寝込むこと三日間。ようやく熱が下がって元気になったけど、顔を合わせづらい……。先輩はなんて言う? 私を見て、真っ先に。
いっそのこと、何か文句を言おうとした瞬間に「すみませんでした、もう二度としません!!」って大声で謝って、遮っちゃいたい。ずるいな、私。何だかんだ言って先輩は許してくれるタイプなんだろうけど、このまま、冷え切った関係が続いたらどうしよう? 悲しすぎる。
ステラちゃんに相談して、間に立って貰うことにした。朝陽が眩しい部署にて、笑うステラちゃんの後ろに隠れつつ、おそるおそる先輩を見てみたら、呆れていた。うわぁん、かっこいい! 久々に見る先輩、心臓に悪い。何日も会ってなかったら、リセットされちゃうのかな? 怖さと照れが交互にやってきてつらい。
「……もういいから、怒ってねぇから」
「ほっ、本当ですか!? でも、お金受け取らないって言うし!」
「お前への罰だ。反省しろ」
「はい……」
「大丈夫だって、フィオナちゃん。こんなことぐらいで嫌われたりしないって! ね? ヒュー。フィオナちゃんのこと、嫌いになってないでしょ?」
上機嫌なステラちゃんに聞かれ、先輩の眉間にくっきりと深いシワが刻まれる。うわぁ、機嫌悪そ~。かっこいい。品の良さとセクシーさが両立された、完璧すぎる美術品顔って言っても、大げさじゃないと思う。わわわわ、出会った頃を思い出しちゃった。顔が熱くなる。待って、本当にリセットされちゃったの? 数日間、顔を会わせなかっただけで!? 先輩が溜め息を吐き、腕を組んだ。
「怪我は? どうだ?」
「ちょっと、無視するの? フィオナちゃん、嫌われちゃったって言って心配してたのにな~」
「……嫌いにはなってない」
「だって! ほら、ちゃんと仲直りしなよ。大丈夫、大丈夫~!」
「あああああっ……」
ステラちゃんに押し出された。改めてすみませんって謝ったら、苦笑いと呆れ笑いが混じったような表情を浮かべ、「ああ」って呟いた。一度出来た溝を埋めるのは難しくて、街をパトロール中、ずっと黙りこんでいた。沈黙がつらすぎる。こういう時、無理してでも明るく喋っちゃうんだけど。いつもなら、喋って……。
騒音を注意しに行ったら、殴りかかってきたおじいさんを躊躇せず殴り返して、気絶したおじいさんの顔を覗き込んでいる先輩を見たら、我慢出来なくなった。ずっとずっと、このままの状態が続くなんて耐えられない! 普通に歩いてる時、話しかけられないのなら、今しかないじゃん。
「先輩、もしかして怒ってます!?」
「このじいさんにな。どうした? フィオナにはもう怒ってないぞ」
「で、でも、前、家に届けに来た時、会ってくれなかったし……!!」
「えっ?」
先輩が驚いた様子で振り返る。えっ? なに、そんな顔するようなこと言ったっけ。気まずそうに、ふたたびおじいさんへ向き直り、ちょっとだけ首を傾げた。
「気を使わせると思ったんだ。熱も出てるし、会わない方がいいかと思って。ごめんな、会って欲しかったのか」
「……」
「今度からはそうする。にしても、マイペースすぎるだろ! 何もこんな、じいさんを気絶させたあとで言わなくても……」
物が散乱しているリビングを見回して、溜め息を吐いた。部屋の隅っこには、腫れあがった頬を押さえている奥様と、震えながらも寄り添ってる娘さんがいた。二人とも呆気に取られてる。で、でも、今しかない。
「あっ、会いたかったわけじゃなくて、怒ってるのかなと思ったんですよ!! 風邪じゃないからうつらないし、会ってくれると思ってて」
「へー。会いたかったって言われてるような気がするけど。俺の気のせいか? フィオナ」
振り返って、私のことをまっすぐ見上げてきた。銀色の月を砕いて、粉々にして、瞳の中に敷き詰めたって言われても不思議はないぐらい、神秘的な銀色の瞳。
会いたかった? もちろん。だって、先輩は私の推しだから。今まで見てきたイケメンの中で、一番かっこよくて、優しくて……。何も言えない私を見つめ、おじいさんに向き直った。おじいさんは低くうめいていた。
「あとでな。また昼飯の時にでも」
「レ、レイラちゃんとエディ君と食べるので!! ちゃっちゃと片付けちゃいましょうか! こんなっ、こんな暴力おじいさん、私達の敵じゃありませんよ! 運ぶのは任せてくださいね!!」
「やめろ。腕、怪我してるんだから」
「は、はい……」
「しばらくの間、魔術を使うな、力仕事をするな。怪我が完璧に治るまで禁止」
「はい、分かりました……」
暴力おじいさんを警察署に連れて行って、何日か拘留して貰うことなった。その間、奥さんは弁護士に相談、娘さんの家に引っ越す。私達はおじいさんが暴力をふるおうとしたり、怒鳴ったりした瞬間、ねずみのぬいぐるみに変身する魔術道具を作ることになった。
不器用だから、作りやすいアヒルのおもちゃがいいな。でも、おじいさんはねずみが苦手だから、ねずみにしてやってくれって、目が笑ってない奥様に頼まれたからそうする。めっちゃ分かるよ。相手が苦手なものに変身させて、弄びたいよね……。
「じゃ、じゃあ、私、アンドリュー君と食べてくるので!」
「どうしてアンドリューと?」
「えっ? 本当はレイラちゃんと一緒に食べたかったんですけど、エディ君が一週間前から予約しなきゃだめだって騒ぎ出して。心の準備が一週間、必要だそうです」
「……」
「い、言いたいことがあるのなら、はっきり言ってくださいよ!」
「これをやる」
「へっ?」
先輩がポケットの中に手を突っ込んで、マドレーヌを出してきた。えっ、美味しそう! 無言で押し付けられたから、思わず受け取ってしまう。ほんのりピンク色のチョコがかけられた、綺麗な焼き色のマドレーヌ。嬉しいんだけど、なんで? 見上げたら、無表情だった。どういう気持ちからくる表情なんですか……。
「あ、ありがとうございます? どうしてですか」
「特に深い意味はない。昼飯のあとにでも食え」
「はっ、はい、そうします……」
「じゃあ、またあとで」
「はい、またあとで」
わ、分からないんだけど、これ食べて元気出せって? 去っていく先輩の後ろ姿と、手のひらの上にあるマドレーヌを交互に見たって、答えは出ない。先輩なりに気にしてるのかな……。マドレーヌをポケットへしまって、アンドリュー君のところへ向かう。
春の庭に通じてるドアの前で、ぼんやり突っ立っていた。最近はパーカーを着ていない。どこからどう見ても、かっこいい深紅色の制服を着こなした、物憂げなイケメンで眼福。
「お待たせ! ごめんね~、待たせちゃって。かなり待った?」
「そうでも。……ちゃんと持って来ましたか? 今回、昼食を」
「持って来たよ~! この間はごめんね、分けてくれてありがとう」
「一応、フィオナさんの分もパン持ってきたんで」
「やっ、優しい! ありがとう! 餌付けされてる気分。あれ? ひょっとして先輩もそうなのかも? だけど、おわびというか、怒ってないって言いたくて渡したような気がする……」
「何の話ですか? どうぞ」
アンドリュー君が不審がりながらも、ドアを開けてくれた。お礼を言って、芝生へと足を踏み入れる。すぐさま、ふんわりと春の風が通り抜けていった。気持ちいい~。外が暑いからか、涼しく感じる。今日は芝生一面に、青い鈴の形をした花が咲き誇っていた。小川のせせらぎが耳に心地良い。
「あのね、さっき先輩からマドレーヌ貰ったの。吸血鬼に襲われたての時も、チョコバー貰っちゃってさ」
「襲われたてって……。玉子じゃあるまいし、やめてくださいよ。怪我はどうなんですか? 熱は?」
「大丈夫、大丈夫! もうすっかり元気だよ。それでさ、先輩って私を餌付けしたいのかな? 先輩にとって可愛いヒヨコちゃんだから、何の不思議もないんだけど、あっ! ヒヨコちゃんレベルが上がったとか?」
「ヒヨコちゃんレベルが……?」
「うん。毎日お菓子あげたくなるほど、可愛く思えてきたんじゃないかな? やだ、太っちゃう~」
「はーあ」
「あからさまな溜め息やめてよ!! いいじゃん、別に夢見たってさ!」
いつもの公園に置いてあるような、木のピクニックテーブルへランチトートを置いて、木の長椅子に腰かける。多分先輩のことだから、もう怒ってないよって言いたくて、くれたんだと思う。不器用で優しい人だから。蓋を開けて、ピーナッツバターのサンドイッチを取り出せば、アンドリュー君が無言でパンを差し出してきた。アヒル柄のペーパーに包まれている。
「可愛いっ! 覚えててくれたんだ? 最近アヒル柄好きになってきたの」
「はい。二本買ってしまって使いきれないから、残り全部貰ってください」
「それは別にいいんだけど。なんで二本買っちゃったの? 一人暮らしだよね?」
「……不愉快だから、もう聞かないでください」
「あっ、うん。ごめんね!?」
何が地雷だったの、今。一人暮らしって言ったのがよくなかったのかな。自分でも二本買っちゃって後悔してるから、もうそれ以上言って欲しくなかったとか? よく分かんないけど、不貞腐れた表情で固そうなパンを食べていた。パンの間から、黄色いチーズとレタスがはみ出ている。美味しそう。
黙々と食べていて気まずいから、アヒル柄の紙をはがす。中から出てきたのは表面が固いパンで、間にバジルをまぶしたチキンと真っ赤なトマト、レタスと玉ねぎが挟んであった。指を跳ね返すほど、弾力がある。
「わああっ、美味しそう! ありがとうーっ! 嬉しいなぁ、本当に。血を吸われたからか、貧血気味でお腹が空くんだよねえ」
「……そこまで喜んで貰えるとは」
「私にとって、アンドリュー君が作ってくれたパンはご馳走だよ! あ、話聞いてくれる? 謎にモヤモヤしちゃってさ」
「いいですよ、どうぞ」
まず、吸血鬼事件のことを全部話した。途中、あまりにも美味しくて無言になっちゃう時があったんだけど、渋い顔をせず、待っててくれた。はー、美味しい。パンの表面に粉がふいてて、かりっとしてるのに、中がふわもちで美味しい。
バジルとほんのり苦味のあるオイルが、脂っこいチキンと合ってて最高。レタスはシャキシャキだし、トマトも新鮮。時々ぴりりっと、舌先が痺れるほど辛いスパイスがアクセントになっていた。天才、美味しい!
「でね、先輩にぎゅーって、一瞬抱き締められた時からおかしいというか、いっ、居心地が悪いの! ときめきじゃないんだけどね!? ときめきじゃないんだけど、そこまで私のことを気にかけなくてもいいのにって思っちゃってさ」
「はあ。それで?」
「わーんっ、興味無さそう! でも、聞いてね、お願い。……だから、私、距離取ろうと思って。先輩から。自分でも嫌なのか、心配されるのが居心地悪いのか、さっぱり分からないんだけど、落ち着かなくて」
あの真剣な眼差しと、一瞬抱き締められた時のことを思い出しただけで、冷や汗を掻いちゃう。なんで、ただの後輩をそこまで気にかけるの。私がヒヨコちゃんだからって、理由はよく分かってるんだけど、居心地が悪い。
心配して欲しいような、して欲しくないような? 自分で何とか出来るから、関わらないで欲しい。でも、ある程度気にして欲しい……。先輩の目を見るのが怖くなった。どんどん、どんどん甘えてしまいそうで怖い。
「いつか、愛想を尽かされちゃうじゃないかなって思っちゃってさ……」
「そんなことするようなタイプには見えませんが」
「うっ、だと思う。でも、嫌われる前に離れたいんだ。気にして貰えるのは嬉しいんだけど、あそこまで誰かに心配されるのは初めてだから」
二言目には無茶するな、無理するなって言う。でも、私、ポンコツだし、無理しないとやっていけない。常に先輩のお飾りバディ的な立ち位置なんだし……。頑張ったら、褒めて貰えると思っていた。多少無茶してでも、事件を解決した方がいいでしょ? 先輩はそんな風に思わなかったみたいで、怒られた。私が死ぬかもしれないと思って、動いていたと聞いた時、ショックだった。
「そこまで気にする必要ってある? どう思う?」
「目を離したら、死にそうな気がして怖いんでしょう。気にしすぎって、散々迷惑と心配をかけた側が言っていいセリフじゃないでしょ」
「うわぁん! 刺さる、その通りなんだけど!」
「ぐだぐだ言う権利なんてありませんよ。気にしすぎって、もう少しちゃんと出来るようになってから言ってください。心配されるようなことばっかりしているから、気にされるんですよ」
「っう、はい……」
「心配されると、落ち着かない気持ちになるのは分かります。でも、それを気にしすぎの一言でぶった斬ってどうするんですか?」
「ごめんなさい、ぐうの音も出ません!!」
確かにアンドリュー君の言う通りすぎる。だよね、私が未熟だから気にしちゃうんだよね……。変わらなくちゃいけないのに、先輩のせいにしていた。バカだ、私。あんなに心配してくれたのに。もう一度、抱き締められた時のことを思い出した。なんで、あんな風に。サンドイッチを食べられなくなって、口から離す。静かにアンドリュー君が、薄茶色の瞳で見つめてきた。
「本気で心配されてるって、気が付きたくないのかもしれない。向き合いたくない、怖いよ」
「どうしてですか?」
「よく分かんない。だってさ、普通あんな風に抱き締める!? 先輩にとって深い意味は無いのかもしれないけどさ、顔が見れなくなっちゃうじゃん!! こっちは、こっちは、好きにならないよう、必死で抑えてるのに……」
「なるほど。好きじゃないなら、気を持たせるようなことをするなって言いたいんですね?」
「あっ、うん。そうかも。すごいね、アンドリュー君。最初の頃に比べるとスラスラ喋れるようになったし、悩んでたら、的確に言い当ててくれる」
「毎日、彼女と喋っていますから」
彼女? あっ、そうだ。すっかり忘れてた。おすすめしたんだ、女友達! 自分のことで手いっぱいで忘れてた。私のしたことが、大好物の恋バナをし忘れるだなんて! 勢いよく立ち上がったら、びくっと怯え、両手でサンドイッチを握り締めた。
「どっ、どう!? あれから進展は!」
「……付き合おうかと思っていて」
「すごい、やったあああーっ! ありがとう、ありがとう! 優しくて可愛い子なのに良い男性が現われなくて悩んでたんだ! 幸せな恋愛がしたいって言ったから、幸せにしてあげてね! よろしく!」
「そんなに嬉しいんですか?」
「めっちゃくちゃ!! 早く言ってよ、も~! 言ってくれたら一緒にお昼ご飯食べなかったのに。ヴィオラちゃん、嫉妬深いから……あれ、そういえば、いつから付き合いだしたの? まだ聞いてないんだけど」
「告白してません」
「そうなんだ? あっ、分かる! 雰囲気が良いところでしたいよね。ミニブーケとか用意して」
「……」
顔にでかでかと、そんなこと考えていなかったって書いてある。なんで? 雰囲気の良いところで告白したいから、引き延ばしてると思ったのに。これは、さすがにちょっと文句言ってやりたい。
「なんで引き延ばしてるの? ひょっとして、まだぐじぐじ悩んでる?」
「最初はきっぱり断ろうと思っていたんですよ。好きな人がいるから」
「えっ」
待って、頭が追いつかない。じゃあ、私、好きな人がいるアンドリュー君に女友達を紹介しちゃったってこと? でも、乗り気だったよね、確か。うわぁ、どうしよう。ミスっちゃった? 混乱していたら、おもむろに立ち上がった。私も反射的に立ち上がる。
「ごめん、待って! 無神経なことしちゃって本当にごめん……!! だけど、付き合うんでしょ? ヴィオラちゃんと。私に文句が言いたかっただけ?」
「そうです、文句が言いたかった。今まで言えなかったから、ぶちまけてしまいたかった」
「あー、だよね。ごめん。でもさ、文句があるのならちゃんと言ってよ! 謝りたかったのに! む、無神経なことしちゃった私が悪いんだけど、早く謝りたかった」
アンドリュー君が苦笑いを浮かべ、近付いてきた。張り詰めた空気が漂う。な、殴られる? そんなことするわけないか。好きな人がいるのに、女友達紹介しちゃっただけで殴られたくない……。一歩後ろへ下がったら、手首を掴んで、引き寄せられた。
「ごっ、ごめんね!? 殴るのなら軽く手のひらで、ぺちっとして欲しい。それぐらいなら、それぐらいなら耐えられるからっ……」
「どうして殴られる前提なんですか」
「あれ? そうじゃないの? だよね、アンドリュー君はそういうことするタイプじゃないよね!!」
「目を閉じてください」
「うっ、ごめ、ごめん、デコピンか、優しくぺちっと叩かれるぐらいなら大丈夫……!!」
「いいから、早く」
「あいっ!」
思いっきりぎゅうっと、目をつぶる。大丈夫大丈夫、アンドリュー君のことだから、デコピンぐらいで済ませてくれるはず。きっと、私に文句が言いたいだけなんだ。おでこをぺちっと叩くか、ほっぺをつねるか、とにかく何か痛いことして、文句をぶちまけたいだけなんだ……。
頬にアンドリュー君の両手が触れる。少しだけ迷っていた。おそるおそる目を開けてみると、顔がすぐ近くにあった。茶色い瞳が見開かれる。まつげがくっきりと見える距離だ。
(えっ、え?)
くちびるに何かが触れた。キスされたって分かった瞬間、アンドリュー君が離れて、口元を覆う。鈍いって言われる私でも、さすがに分かった。アンドリュー君の顔が赤い。茫然自失状態になっちゃった。でも、春の庭に吹いている風は心地良くて優しい。今のって白昼夢?
「ごめん、あの、好きな人ってもしかして私……?」
「そうです。あーあ、上手くいかなかった。こんなはずじゃなかったんですけど」
「……なんでキスしたの」
「嫌がらせです」
「嫌がらせっ!?」
「はい」
大真面目な顔で頷いた。嫌がらせでキスされるのって、初めてなんだけど……。あれ? 本当に今、キスされたのかな。頭が追いつかない。意識されてるって思ったことがないから、ガチで頭が追いつかない。どうして、ヴィオラちゃんと付き合うつもりなのにしたの。頭にヴィオラちゃんの笑顔が浮かび、つらくなった。
「ねえ、嫌がらせって!」
「顔が合わせづらくなるじゃないですか。相談に乗るのが嫌だったんですよ」
「だ、だからって、こんな真似は……」
「それと、彼女に連絡が取れなくなるでしょう? フィオナさんのことだから、遠慮して連絡を取らなくなる」
「正解。でもね、こんなことする必要あった!?」
「嫌がらせですから」
「うーっ……!!」
ぐうの音も出なくてつらい。だよね、嫌がらせなんだから、これは。あああああっ、ヴィオラちゃんに申し訳ない。今日はこんなところに行ったよ、二人でこれを食べたよって、嬉しそうにデート報告してくれたのに……。うわ、罪悪感がすごい。昔に一度だけ、親友と好きな人がかぶっちゃったんだけど、その時以上に、すさまじい罪悪感が。口元を押えていたら、紺色のハンカチを差し出してきた。
「い、いらない、でも、ありがとう……」
「すみませんでした、唐突にキスして」
「嫌がらせだよね!? どうして謝るの!」
「……すみませんでした。傷付けたいわけじゃなかったのに」
「や、安っぽい謝罪なんていらないから、一生浮気せず、ヴィオラちゃんのことを大事にして! 本当にまだ付き合ってないんだよね!?」
「はい。疑うのなら、確認すればどうですか」
アンドリュー君の胸ぐらを掴めば、痛みで顔を歪めた。そんな顔をするぐらいなら、最初からしなきゃいいのに! 無神経だった私も悪いけど。胸ぐらから手を離して、一旦離れる。後悔してるような表情を浮かべ、突っ立っていた。春の心地良い風が、アンドリュー君の黒髪を揺らしている。
「……いつから好きだったの? 私のこと。ぜんぜん気付かなかった」
「隠していたので。イメチェンした時ぐらいから?」
「ああ、そうなんだ」
「アディトンさんに告白したらどうですか。はっきり言って、見るに堪えない」
「みっ、みるにたえ」
「好きなんでしょう? 分かってましたよ。かなわないから早々に諦めようと思って、付き合うことにしました。彼女は他に好きな人がいてもいいそうです」
「誠実じゃないよ、それ!」
「知ってます。でも、好きになれそうなんですよ。何日か連絡を取らなかったら、寂しかった。紹介して頂き、ありがとうございます」
特大のイヤミ爆弾! 私が渋い顔をしているのを見て、笑っていた。からかうような笑みだった。徐々に笑みが薄れ、疲れた表情になり、腰に手を当てて、足元を見下ろした。
「……本当にすみませんでした。じゃ、今後はステラさんにでも相談してください。ヴィオラにも俺にも近付かないでください」
「なーんーでっ!! こんなことしたの!? ヴィオラちゃんとはずっと楽しく、仲良くやっていきたかったのに!」
「気持ちが揺らぐからです。さようなら」
すっきりした表情で別れを告げ、サンドイッチを回収して、立ち去ろうとしていた。もっ、ものすごく、とてつもなくモヤモヤしちゃうんですけど……!? 嫌がらせしてやりたくて、ドアの方へ向かっていたアンドリュー君の腕を引っ張る。驚いて、振り返った。怯えているような、期待しているような茶色い瞳を見て、何も言えなくなった。袖から手を放す。
「……ごめん、何でもない。さようなら、ヴィオラちゃんを幸せにしてあげてね」
「はい。フィオナさんは本当に、友達思いですね」
「あっ、挨拶はするから! 周りに怪しまれたくないから、話しかけたらきちんと返事して! 必要以上に話しかけないから!」
「はい。まあ、転職しようかなと思ってますけど」
「そう。じゃあ、転職するまでの間よろしくね! 無視したら怒るから!」
「分かりました。挨拶ぐらい、返します。仕事では接点無いでしょ」
「まぁね、多分。じゃあ、さようなら!」
「さようなら」
おかしそうに笑っていた。ふと、子どもの頃、遊んでいた子と離れるのがちょっとだけ寂しくて、何度も何度も振り返って、ばいばいって叫んでいたのを思い出した。あの時とは違う。あの時とは違うんだけど、アンドリュー君は良い友達だと思ってたのに。いきなり、あんな風に、嫌がらせでキスされるとは思ってなかった。無性に悲しくなった。
(……先輩にも、ステラちゃんにも相談出来ないし。どうしようかなぁ)
アンドリュー君のことを知らない友達に話しても無意味だよね。ケチョンケチョンに貶して欲しいわけじゃないし。手元に残ったサンドイッチを見て、悲しくなる。もう食べられない、アンドリュー君お手製のサンドイッチ! やけになって全部、口の中へ詰め込んだ。あーあ、お腹いっぱい。もう食べられないんだから、味わって食べれば良かったかも。
『アディトンさんに告白したらどうですか。はっきり言って、見るに堪えない』
赤い絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、胸に突き刺さったままの言葉と、キスされた瞬間を繰り返し思い出す。ねえ、どうすれば良かったの。告白? 私が先輩に? だって、何とも思われてないのに。そもそもの話、付き合ったって絶対上手くいかないのに……。
(いっそのこと、好きだって言っちゃう? でも、本当に好きかどうか分からないし、転職なんてしたくないし、完璧な顔立ちの人と巡り会える気がしないし)
うわあぁん、悩みが深くなっちゃった!! 叫び出したい気分。シャンデリアがきらめく、吹き抜け階段へ足を向けたら、そこに先輩がいた。銀色の瞳がこっちを見上げる。ああ、素敵。かっこいい。深紅の軍服に身を包んだ先輩は、いつにも増して、かっこよくてセクシー。
その褐色の肌も、整った野生的な顔立ちも全部全部、ずぅーっと眺めていたいのに。たとえ、好きでも告白なんて出来ない。上手くいく保証があるのなら、好きな人と永遠にずっと仲良しでいられる魔法にかけられたなら、勇気を出して、告白出来るのに。
「先輩! 運命的な出会いですね、ここで偶然会えると思ってませんでした!」
「お、おう……」
「あっ、喧嘩中でしたね。そういえば」
「別に喧嘩してるわけじゃないだろ」
先輩が戸惑った様子で階段を上り、私の元へやって来る。うわぁ~、かっこいい。筋肉質なところが一番推せる。……もしも、私のことが好きだったら、アンドリュー君にいきなりキスされたことを話せば、少しは動揺するはずだよね!? 自信がない。で、でも、勇気を出して、一歩だけ。
「あっ、あ、あああああっ、のですね、私」
「どうした? 落ち着け。もう怒ってないから」
「さ、さっき、アンドリュー君にキスされたんですよ! どう思いますか!?」
「……どうって?」
「な、何でもありません」
びっくりするぐらい、無表情!! 平然としてる。分かってたんだけど、つらい。勇気を出して踏み込んでみたって、先輩は変わらない。獣人特有の庇護欲で優しくしてくれてるだけ……。好きになる前に、離れよう。
「どういういきさつでそうなったんだ? 教えてくれ」
「ほら、私、アンドリュー君に頼まれて女友達を紹介したでしょ? その子と付き合うことに、う、ううん、告白する前に突然キスしてきたんですよ。嫌がらせで!」
「……すまん。いまいちよく分からないんだが」
「ですよね! 私もよく分かりません。何でも、私が無神経に相談してくるのが嫌だったとか? うーん、言ってくれたらなぁ」
「フィオナは鈍感だし、デリカシーが無いからな」
「うっ、ごめんなさい。先輩は不満があったら、キスする前にちゃんと言ってくださいね!」
あ、間違えた。いつも通り、楽しく話してたから、言葉選びを間違えた。先輩が立ち止まって、面食らった表情で見つめてくる。私が言いたいのは、そうじゃなくて。
「違うんです!! 混乱してて、本当にごめんなさい……。先輩は嫌がらせでキスするようなタイプじゃないのに。そもそもの話、私のことが好きじゃないのに! アンドリュー君とは違って」
「……じゃあ、言いたいことがあったら言うよ。ちゃんとキスする前にな」
「わあぁっ、やめてください、恥ずかしいから! 言い間違えたんです!!」




