3.吸血鬼が住むビルと過保護なトラ男
ゆるやかな坂道を登っていくと、葉っぱとツタにまみれた低層ビルが現われる。周辺はさびれていて、古いマンションや飲食店が軒を連ねていた。ここ? なんか普通。もっと、おどろおどろしい感じのところだと思ってたんだけど……。ぽかんとしてる私を見て、先輩が「行くぞ」と言い、歩き出した。二、三段しかない低めの階段を上がって、ガラスのドアを押し開ける。
「待ってください、先輩。ここなんですか? 意外と普通ですね」
「期待は捨てろ。普通の人間とあまり変わらん」
「へ~……。血を吸うだけなんですか?」
「まともな吸血鬼はな。ごくまれに、人間をエサとしか思っていない吸血鬼がいる」
「ふーん、こ、怖い」
「そばから離れるなよ。まあ、大丈夫だろうけど。今、やつらの活動時間じゃないからなぁ」
「えっ!? 確かに……。昼間ですよね、今。大丈夫なんですか?」
先輩が私の言葉を聞いて笑った。一階はバーになってる。黒いカーテンがかけられていて、中は見えない。何も言わずに進んで、奥にある、エレベーターのボタンを押して待つ。へー、屋上があるんだ。二階は法律事務所で、三階と四階は住居部分、なのかな? 何も書いてない。
赤茶色のレンガと黒い石の床で出来ているからか、空気がひんやりしてる。振り返ってみれば、眩しいほどの陽射しが降り注いでいた。なのに、ビルの中は薄暗くて冷たい。先輩が口が開くのと同時に、音が鳴って、エレベーターの到着を知らせる。
「叩き起こすから大丈夫だ。先に入れ」
「たっ……」
「そうでもしないと喋れない。大丈夫だ、前に一度してる」
「ええっ!? だめでしょ、先輩! それはだめでしょ!!」
狭いエレベーターに乗ってすぐ、先輩が笑い出した。え、そんなに笑う? 距離が近い、かっこいい。筋肉質だからか、エレベーターの中にみっちり詰まってる感じ。壁にもたれて、長い足を組んでるところがまたかっこいい……!!
「立ち姿も様になりますよね、先輩って」
「着いたぞ、降りろ」
「はーい……。地下に住んでるわけじゃないんだ、意外」
「それ、本人には言うなよ。眺めが気に入って、ここに住んでるんだから」
「えっ!? じめっとした地下を好んで、住んでるイメージがあるのに!?」
「吸血鬼あるあるらしい。勝手なイメージ押し付けられるの」
「うっ、気を、気を付けます……」
先輩がすぐ近くにあった部屋のインターホンを、何のためらいもなく押した。ブーッて、古臭い音が鳴る。待って、心の準備がまだ出来てないのに! ところどころはがれ落ちている青いペンキ色のドアに、散乱したチラシ。枯れかけの鉢植えが、ドアの横に置いてあった。古いマンションっぽいな、ここ。押しても出てこないから、先輩が無言でもう一度押した。……出てこない。
「いないんじゃ……? それか寝てる?」
「寝てるんだろうな。よし、開いたぞ」
「えっ!?」
「知り合いだから大丈夫だ」
「ふほっ、不法侵入!?」
どうやって開けたのか分からないけど、申し訳程度にノックしてから、ドアを開けた。いっ、いいのかな!? てか、先輩ってここまで強引な人だっけ……? 礼儀正しくて真面目な人だと思ってたんだけど。言いようのないモヤモヤを抱えながらも、先輩に続いて入ってみる。
カビ臭かった。うんうん、吸血鬼ってこんな感じだよね! 薄暗くて辺りがよく見えない。玄関には長靴とブーツが置いてあって、うっかり踏んづけそうになった。ザー、ザーッて、水が流れているような音が聞こえてくる。先輩がフローリングを軋ませながら歩いて、近くにあったドアノブを回し、一気に開けた。
「どうするんですか? もしもシャワーに入ってたら!」
「いや、蛇口が開けっ放しになってるだけだ。横着するやつなんだよ、あいつ」
「へ~……。だらしない性格なんですね」
先輩が手を伸ばして、きゅっと蛇口を閉める。何日も洗ってなさそうなタオルに、赤い汚れがこびりついている便器。奥にバスタブが置いてあった。深めのグリーンと白いタイル床には、何十本もあるトイレットペーパーの芯、シャンプーボトルと石けんが転がってる。おまけに、大量の洗濯物が積み重なっていた。うわぁ、き、汚い。
「いかにも、一人暮らしをしてる男性の部屋って感じですね……」
「そうか? 汚すぎるだろ。俺はもうちょい綺麗にしてるぞ」
「え~、本当にですか? じゃあ、服を脱ぎっぱなしにしたりとか」
「しない。服はいつもWICに吊るしてあるから」
「へ、へ~。吊るし、へえ……」
私は脱ぎっぱなしにしてるけど。やばい、帰ったら片付けよう。先輩は案外、きちんと整理整頓するタイプだよね。知ってる。先輩が何も気に留めず、さっさとバスルームから出た。慌ててついて行けば、リビングへ通じるドアを開けて、真っ暗なのを確認してから、急に振り返る。
「やっぱり寝室だ。行くぞ」
「はい! いるんですかね? 留守という可能性も、」
「一応見てみる。俺の後ろにいろよ」
「はい、分かりました」
先輩、気が立ってる? 尻尾がゆっくりと左右に揺れていた。まるで、獲物を狙ってるトラみたい……。怖い吸血鬼なのかな~、嫌だな~。おそるおそる、ついて行く。
先輩が何のためらいもなく、寝室へ通じるドアを開けた。誰かのいびきが聞こえてくる。めっちゃ暗い! 何これ、光に弱いから? 見えないよ。遮光カーテン、窓にかかってる? 先輩は夜目が効くみたいで、すたすたと歩いて近付き、乱暴に揺さぶった。
「おい! おい、起きろ! 朝じゃないから起きられるだろ、お前!」
「んっ? んんん……」
「せ、先輩、もうちょっと優しく、もうちょっと優しく!!」
くぐもったうめき声が上がる。見ていて不安になるぐらい、揺さぶってる。音で分かった。ハラハラしながら見守っていると、ベッドの上の住人が起き上がる。ちょっと慣れてきたかも、目が。一人掛けの椅子と小さなテーブルの上に、薬とペットボトル、脱ぎ捨てた服が置いてある。予想してたけど、この部屋も汚い。床にもペットボトルが並んでいた。
(血? そんなわけないよね、多分……)
よーくよく見てみると、赤い液体がペットボトルの底にこびりついている。興味を引かれて近付いたら、男性が大きなあくびをした。
「ヒュー? ……鍵、かけてなかったっけ? 俺」
「おう、開いてた。久しぶりだな、クリフ。悪い、勝手に入ってしまって」
「いいよ、事件なんだろ? どうせ……」
先輩、さらっと嘘吐いた!! ええええっ、いいの? 黙ってるべきなんだろうけど、これ、でも。私が混乱していると、おもむろに先輩が振り返る。
「外で待っててくれ、フィオナ。詳しい話を聞いたら、すぐに行くから」
「えっ? 先輩、私も」
「女? 女の匂いがする……だっ!? うわ、いてぇな」
「血を吸ったら、殺すから覚悟しとけよ」
「冗談に聞こえないんだけど……? 女連れで仕事か? あのヒューが?」
「違う、バディだ。最近新しく入った」
「一緒だろ。ふあぁ~あ……」
ど、どうしよう、出た方がいいのかな? でも、私だって詳しく話を聞きたい。いつまでも先輩に任せていたらだめだし、ちゃんと仕事を覚えていきたいのに。先輩は深く考えていないんだろうなぁ。私を危険から遠ざけたいって、そればっかり! 嬉しいけど、こういうのありがた迷惑って言うのかな。ためらっていたら、先輩が早く外に出ろって、ドアを顎で示した。
「心配しなくても、急に襲ったりなんかしないって。何歳?」
「……最近、都内で吸血鬼に襲われた女性がいる。何か知らないか?」
「年齢を聞くぐらい、別にいいだろ? 教えてくれよ。フィオナちゃんだっけ? 何歳? 吸血鬼に興味はある?」
な、なんでしつこく年齢を聞いてくるの!? でも、吸血鬼に興味はある。すぐに襲ってこないみたいだし、話を聞きたいし、ちょっとだけなら近付いても……。私が部屋に入ったとたん、先輩がクリフさんの胸ぐらを掴んだ。うわっ、うわぁーっ!!
「いい加減にしろよ、クリフ。やめろって言ってるだろ?」
「……いいや? 一度も言ってないね、そんなこと。聞いちゃいないぞ」
「……」
「分かった、分かった!! 悪かったからやめろ。もぉ~、優しくしてくれよ。吸血鬼だって怖いんだぜ? 死なないだけだ、俺達は」
「脳みそを取り出して放置されたくなきゃ、フィオナには手を出すなよ。いいな?」
「はいはい、恋人? ヒューがこんなに殺気立ってるの、初めて見た。いつも淡々と仕事してるくせにな」
「淡々と!? 先輩が!?」
想像がつかない。いつも暴力的というか、感情的になって動いてるんだけど。ぎりぎりのところで踏みとどまって、冷静になって、事件を片付けている。そりゃ、淡々としてる時もあるけどさ……。不思議に思って首を傾げたら、クリフさんが低く笑った。
「意外だったか? フィオナちゃん。いつもこいつはどんな感じなんだ?」
「話しかけるなよ」
「……話しかけるのもだめなのか? へえ」
「余計なことを話さず、俺が知りたい情報だけ話せ。最近、自慢してるやつは? シェアしてるやつは?」
「いないな。でも、最近引っ越してきた怪しいやつがいる。まあ、俺の偏見かもしれないがね」
シェア? 何の話だろ。先輩が軽く、私のことを睨みつけてきた。まっ、負けない、動かないもん! 心配なのは分かるけどさ、話が聞きたいから……。無言の圧力に押し潰されそうになりながらも、洗濯物を避けて、ベッドのそばへ行く。口笛を吹いた。あ、汗臭い! すえた匂いが漂ってくる。
「フィオナ!」
「先輩は過保護すぎます! 大丈夫ですって。襲われたら、アヒルちゃんで攻撃してやりますから」
「アヒルちゃん? ……不穏な単語だな、どうしてだろう」
「シェアって何ですか? 何も分からなくて、すみません。教えてください」
「フィオナ、頼むから出てくれ」
「だっ、大丈夫だって言ってるのに……!!」
先輩が私の肩を掴んできた。無理やり部屋の外へ出そうとしてる。手を払いのけて、踏ん張ったら、何も言わなくなった。静かになった先輩を見て、もう一度、クリフさんが笑う。暗くてよく見えないけど、多分イケメン。声が良い!
「気が強い。さすがはヒューのバディだ、ぴったりだな」
「お前……」
「シェアってのはな、簡単に言うとだ。獲物を分け与えるっつうことだ」
「分け与える?」
「ちょっと待ってくれよ、寝起きで頭が上手く働かないから……。ああ、普通は金を払って、血を吸うんだ。まれに、外で狩ってきた獲物を共有する。みんながみんな、金を持ってるわけじゃない。貧乏な吸血鬼は人を襲って、飢えをしのぐしかないんだよ」
衝撃的な発言だった。お金で血を、だから、吸われてもいいって思う人が出てくるんだ……。そんな話、先輩から聞かなかった。焦って振り返れば、顔を背けて、素知らぬふりをする。なんで? たまに子どもっぽいことするよね、先輩って。クリフさんもそんな様子を見て、笑いを噛み殺している。
「じゃ、じゃあ、シェアって、女性を襲ってみんなで血を吸うんですか!?」
「おっと、改めて聞かれるとくるものがあるな……。そうだ。俺も以前はしていた」
「ちょっと待ってください。一人の女性を、自分だけちゅうちゅう吸った方がいいでしょ!? どうしてシェアするんですか?」
「気になるところってそこか? もういい、フィオナ! 出ろ。こいつは犯罪者なんだ、危険だから出ろ! 今すぐ」
「面白いバディがいるね。早く教えてくれたら良かったのに」
一瞬だけ、暗闇の中で目が赤く光った。き、気のせい? でも、確かに光った、今……。怖くなって後退れば、苦笑する。先輩が「ほらな、怖いだろ?」って言いつつ、私の背中を押した。お、追い出されちゃいそう。
「まっ、待ってください、気になるから……!! どうしてシェアするんですか?」
「君ら人間と違って寿命が長い。だからだよ。金が足りなくなってくるし、まともな吸血鬼に部屋を貸してくれる人間なんざいない。手を取り合って生きていくしかないんだ。うんざりさせられるけどね」
「手を?」
「そう。良さそげな獲物……若い女でも、若い男でもいい。とにかく、うまそうな獲物が手に入ったら、みんなで分け合うんだ。で、困った時に助け合う。より多く、人間の血を提供出来たやつが勝ちってわけさ。あーあ、眠たい」
ペラペラとよく喋るなぁ、この人。呆気に取られていたら、おもむろにスリッパを履いて立ち上がる。先輩が警戒して、私を背中の後ろに隠した。み、見えない。どんな顔をしてるのか、一度でいいから見てみたいのに!
「そんなに警戒しなくてもいいだろ? なぁ、ヒュー。隠したいほど、大事なものなら連れて来ちゃだめだ」
「……俺が何のために、昼間押しかけたと思う?」
えっ、夜動くのが嫌だからでしょ? 言う前に、先輩が素早い動きで窓際へ移動して、ざっと遮光カーテンを開けた。うわぁっと悲痛な叫び声が上がり、慌ててベッドに潜り込む。散らかった部屋の中で、先輩が得意げな顔をしていた。
「どうだ? これでもう、余計な口がきけなくなっただろ?」
「せっ、先輩! 悪い顔してる先輩も好き!! 写真撮ってもいいですか!?」
「だめだ。部屋の外へ出ろ。こいつ、一応陽射しの中でも歩けるんだよ」
「歩けるもんか! そこまで元気じゃない……。俺が悪かったから、カーテンを閉めてくれ。余計な口をきかないとも、ああ、約束する」
振り返ってみたら、タオルケットに包まってて笑っちゃった。さっきとは別人。丸くなったクリフさんをぽんぽん叩き、笑っていると、苦虫を噛み潰したような表情の先輩が戻ってくる。
「いいから、早く外に出ろって! すぐ済むから」
「ヒュー? やめておいた方がいいぜ。時たま、俺の友達が遊びに来るんだ」
「……昼間だろ? この部屋にいるより、断然良い」
「私なら大丈夫ですから! カーテン、閉めますね~」
「ありがたい……」
人間の声じゃないような気がした。元人間だっけ、吸血鬼って。忘れちゃった。ちゃんと勉強しておけば良かった。悔やみつつ、分厚い遮光カーテンを引っ張る。黒とブラウンのチェック柄だった。眩しい陽射しを遮り、たちまち暗くなる。色んなものを踏まないようにして戻ったら、クリフさんが乱暴にタオルケットをはねのけ、溜め息を吐いた。
「悪かった、謝るよ。そう殺気を飛ばさないでくれ、怖いから」
「……絶対に怖くないだろうが」
「ヒューがここまで愉快な人間だと思ってなかった。お嬢さん、ありがとう。楽しませてくれて」
「いえ! あとで窓際に立って顔を見せてくれたら、それでいいですよ!」
「俺に死ねと? ちょっと陽射しを浴びたぐらいで、叫んでしまうのに?」
「気にしないでくれ。あ~……フィオナは人の顔面に執着してるんだ」
「先輩、ひどい!! その説明だと私、変な人になっちゃう!」
「事実だろうが。大人しくしてろよ」
苛立ってるけど、許して貰えたー! やった。これで話が聞ける。うきうきしてる私を見つめ、クリフさんが笑う。も、もう少しで顔が見れそうなんだけど、見えない。しげしげと眺めていたら、手が現われて、私とクリフさんを引き離した。先輩、心配しなくても、イケメンを見て騒いだりしませんよ……。
「で? 怪しいやつって? 聞かせろ」
「俺達に関わろうとしない。匂いで分かるってのに、無視しやがる」
「……夜、すれ違っても無視するのか」
「そうだ。一度、バーに顔を出した。俺の友達と喧嘩して、それっきり来ない」
「どの辺りに住んでるか分かるか?」
「いいや? 詳しくは知らない。でも、話によると普通のマンションに住んでるらしい。血が吸い放題だって言ってた。自慢げに言ってたから、よく覚えてるよ。人間の女と付き合ってるって」
溜め息を吐き、先輩に「歯を磨いてくる」と伝え、部屋から出て行った。半開きになったドアを見つめてから、先輩が私に向き直る。
「廊下で待っててくれ、頼む」
「……先輩のバディは私ですよね?」
「そうだけど、気になるんだよ。いまいち信用ならないやつだから」
「二言目には私を追い出そうとして! こんなこと続けてたら、つ、続けてたら……」
「続けていたら? なんだ? 言ってみろ、フィオナ」
「っせ、先輩と口聞かなくなりますよ、いいんですか!? 無視しちゃいますよ!? これから毎日!」
先輩が黙りこんだ。あれ、意外。てっきり、笑いながら「そんなことか」って言うと思ったのに……。先輩を見上げていたら、顔を背け、ドアへ足を向けた。
「分かった。そこまで言うのなら仕方ない。ただし、危なくなったら出ろよ。廊下に立っとけ」
「嫌だ~……。心配しすぎですよ、もう!」
寝室を出て、リビングに入る。先輩がキッチンのライトを点けて、勝手にお湯を沸かし始めた。い、いいのかなぁ、怒るんじゃ? ソファーに座っとけって言われたけど、汚くて座りたくない。洗濯物だらけで虫が湧いてそう。立ったまま、リビングを見渡してみる。
壁は普通の白い壁。擦りきれた黒いラグの上には、本が積んであった。本の合間にゴミが詰まってる感じ。でも、寝室よりましかな。一応、足の踏み場があるし。カーテンで覆われた窓際に、観葉植物が置いてあるのを発見する。……植物、好きなのかな。辺りを見回してると、ふいにドアが開いた。
「お疲れ~。俺にもコーヒー、一杯くれ」
「紅茶にする予定だから」
「紅茶なんてあったか? うちに」
「幸いにもあった。しかも、賞味期限が切れていない」
「賞味期限が切れてないコーヒーもあるぞ、よろしく!」
「フィオナはコーヒーよりも紅茶が好きなんだ。よって、紅茶にする」
「あ~、そ~……。家主なんだけどいいよ、もう。はいはい」
いいんだ、勝手にお湯沸かしてても気にならないんだ……。ひょっとして、わりと仲良し? 先輩の男友達に会うのって、初めてかも。どことなくリラックスしてる。突っ立っていたら、クリフさんが通りすがりにじろじろと見てきて、何も言わず、ダイニングテーブルの食器を片付け始めた。
手伝わなきゃ。キッチンに立っている先輩が視線で「いいか? 何もするなよ、近付くなよ」って伝えてきたけど、無視する。だって、きりがないんだもん。暇だし、手伝おうっと。
「手伝いますよ」
「ありがとう。でも、いいや。ヒューに睨まれたくないんでね」
「こ、これぐらいで何か言ったりする人じゃありませんから……」
「お嬢さんにとっては、そうなんだろうな」
「あの、お嬢さんって? 子どもじゃないし、ちゃんと呼んでください。フィオナ・ハートリーっていいます」
「気付かなかったのか? あいつ、お嬢さんのことを名前で呼ぶたび、ここがぴくぴくするんだぜ、ここが。おかしいだろ?」
笑いながら、指で眉間を叩いた。青みがかった黒髪に、赤い瞳。真ん中が黒い? どうなってるんだろう……。皮肉めいた笑みが似合いそうな顔立ち。顎が尖っていて細い。華奢と言ってもいいぐらいの細さなのに、ひ弱そうだとは思えない。むしろ、怖い。得体が知れない感じ。目が離せなくなった。キーンって耳鳴りがする。ゆっくりと静かに、クリフさんが笑みを浮かべた。
「良い匂いがする。健康的な」
「っわ!?」
先輩が、クリフさんを掴んで引きはがした。袖をめくって、半開きになった口へ手首を突っ込む。えっ!? なん、ああ、そっか、なるほど……。自分の手首を強引にくわえさせていた。先輩の手首を軽く噛みながら、赤い瞳を見開いている。
「腹が減っているのなら俺の血でも吸え。いいな?」
「えっ、羨ましい!」
「フィオナ……」
「私が吸血鬼だったら、土下座でも何でもして先輩の血を吸わせてください、お願いしますって頼み込みますよ!」
「っふ、ぶ、くくく……!! 吸わせてやったらどうだ? 腹は減ってないよ、まだ」
「フィオナに襲いかかったら、全身の骨を折って放置してやる。絶対に」
「分かった、分かった。ケトルがお前のことを呼んでるぞ、ヒュー。行ってやれ」
「くそ!」
お湯が沸騰して、あふれ出した音が聞こえてくる。ほっと胸を撫で下ろせば、クリフさんが面白がるような笑みを浮かべた。
「血を吸わなくても殺されるだろうな。ちょっと頭を撫でただけで、指を、いいや、腕をへし折られちまいそうだ……」
汚れた食器を重ねて、キッチンへ持って行った。先輩の隣に立って「なぁ、これも洗ってくれないか?」と頼む。いやいや、先輩がそんなことするわけないでしょって言えなかった。どうしよう? どうしたらいいんだろう。あまりにも過保護で、どうすればいいのかまったく分からない。嬉しいんだけどね!? 嬉しいんだけど、なんだか複雑な気持ちになった。




