表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔術犯罪防止課のトラ男と面食い後輩ちゃんの推しごと  作者: 桐城シロウ
二章 先輩と距離を縮めたくないのに、どうしたって縮まっていくんですけど!
56/78

24.初めて先輩のトラ耳を触った日

 






 アンソニーお兄様に、こってり絞られて疲れた……。なに、あの人。暇なの? 奥さん妊娠中なんだから、さっさと帰って子どもの世話でもしたらいいのに。今日は心穏やかに仕事がしたい……。顔を上げると、ばっちり目が合ってしまった。先輩がちょっと不服そうな表情を浮かべ、目を逸らす。手元に置いてあるティーカップにスプーンを突っ込み、かき混ぜた。珍しく、砂糖とミルクを少しだけ入れていた。


 深紅色の制服じゃなくて、明るいベージュ色のシャツを着た先輩は新鮮で、ついつい見惚れてしまう。晴れてきたのか、徐々に後ろの窓から眩しい光が射し込んできた。壁面に並んだチョコレート色のソファーと、木製のテーブル。ところどころに配置された観葉植物に、天井で回ってるおしゃれなファン。このままゆったりご飯を食べて、帰りたい。うたた寝しちゃいそうなほど、良いお天気になってきたのに。


「どうする? 今ならまだ断れるぞ」

「ん、んん~……。先輩がいるから、大丈夫じゃないですかね?」

「俺がいても、不測の事態は起きる。どうする? 出来ればこのまま、フィオナをセンターに連れて帰りたいところだが」


 憂鬱そうな溜め息を吐き、ティーカップに口をつけた。絵になる~!! でも、微妙に服が似合ってない。だぼっとしたおしゃれシャツが似合わないんだ、ふふふ、新発見。きっと、先輩はゆるゆるなワイドパンツも似合わない。うっとり眺めていたら、呆れた表情を浮かべる。


「おい、聞いてるか? 人の話。見惚れてないで返事しろよ」

「ふふふ、聞いてましたよ~。そんなに心配しなくても大丈夫ですってば! 女の子が相手だし、酷いことにはならないでしょ」

「いやぁ、でも、相手は頭のネジが何本かぶっ飛んでそうな女だぞ? 殺されかねない」

「えー、大げさ。大丈夫ですって、身代わり人形がありますから!」

「それ、高いんだけどなぁ……」

「えっ?」


 アンソニーお兄様から貰った防犯グッズなんだけど、高いの? これ。嘘、どうしよう……。かなり高い防犯グッズよりも、服とコスメとバッグを買って欲しかった!! 小さい子が持ってるような、目がボタンで出来た赤毛の人形を見下ろしていると、先輩がもう一度溜め息を吐いた。


「まあいい。それ、一体誰から貰ったんだ?」

「えっ? ああ、ええっと、しん、心配した父親からですね!」

「へー、金持ちなんだな。車一台買えるような値段のものを、ぽんと買って娘に渡すとは」

「ぶぁっ……!?」


 車、一台買える値段って!? 嘘でしょ、使わない方がいい? 突き返して、その代わりに服とバッグ買って貰おうかな。先日見かけた超絶可愛い服とバッグが頭から離れない。というかさ、他の防犯グッズはいくらなの……? 考えないようにした方がいいかも、うん。人形を持って、ぷるぷる震え出した私を見つめ、先輩が笑う。


「知らなかったか。まあ、専門店でしか買えないからなぁ、それ」

「わあああああっ……服とバッグが欲しい!! こんなのいらなかったのに!」

「耐えろ。服とバッグを買うより断然良い、実用的で」

「うっ、うう、良くないです。服も買って貰います……」


 アンソニーお兄様には頼みにくいから、他のお兄様に頼もうかなぁ。最近、連絡取ってない。そんな危険な職場で働かなくてもいいのにって、散々文句言われたから。白いフォームミルクをちびちび吸い込んでいたら、また笑う。


「俺が買ってやろうか? 服でもバッグでも、何でも」

「い、いらないです……。先輩でもそんな冗談を言うんですね」

「別に冗談で言ってるわけじゃないけどな」


 平然と言いながら、紅茶を飲む。先輩からしたら、ヒヨコちゃんに美味しいミミズをあげる的な……? 女性にプレゼントするって感じじゃないのかもしれない。焼き目がついた固めのチーズケーキにフォークを入れた瞬間、店の奥にある階段から一人の男性が降りてきた。


 彼は薄い茶髪と青い瞳を持った、優しげな雰囲気の男性で今回の依頼者。さっきとは違う服に身を包んでいた。爽やかなベージュ色のリネンジャケットと白いTシャツ、それにグリーンがかったズボン。もしかして、ベージュ色が好きなのかな? 先輩に貸したシャツもベージュ色だもんね。


「あ、先輩。来ましたよ、ブラウンさんが」

「分かった。飲み干すか」

「えっ? 別に飲み干さなくてもいいんじゃ……」


 落ち着かない気持ちになってるのかもしれない。構わず、ごっごっと一気飲みし始めた。不思議、お酒に見える。ティーカップなんだけどね。面白くて眺めていたら、ブラウンさんがすぐそばまでやって来た。


「すみません、お待たせしてしまって」

「いえいえ、大丈夫ですよ。チーズケーキ、美味しいです!」

「良かった。それ、うちの人気メニューなんですよ。アディントンさんは? 何も頼んでいないんですか? デザートは……」

「食べに来たわけじゃないので、どうぞお構いなく。さて、本題に入りましょうか」


 有無を言わさない様子の先輩が、ティーカップを置いた。居心地悪そうな顔をしたブラウンさんが、黙って私の隣に腰かける。向かいの椅子に座ってる先輩が、ぴくりと眉毛を動かした。相性が悪すぎる! 確かにこの手の問題はあらかじめ相談して欲しいんだけど、でも、連絡がきたのってついさっきみたいだし、そこまで怒らなくていいんじゃ……。


 すかさずやって来た店員に、ブラウンさんが「すみません、紅茶をお願いします」と頼んだ。オーナーの息子なんだけど、腰が低い。ある程度付き合いがあるのか、おじさん店員が屈託のない笑顔を浮かべ、「分かりました!」と言って頷く。注文し終えたあと、気まずそうな表情で向き直った。


「急にすみません。お忙しいでしょうに、わざわざ制服から僕の服に着替えて貰って、」

「仕事なんで、どうぞお気になさらずに。それで? あなたの元カノはなんて言ってるんですか?」

「急に来るって言われても困るからって言ったら、じゃあ、二時間後に行くからとだけ」

「二時間後ですか。連絡が来たのって、ついさっきですよね?」

「はい。もう駅前にいるから、すぐ来れるそうです。あ、また連絡がきた」


 ズボンのポケットに入ってた魔術手帳がブー、ブーッと鳴り出した。こわ……。自分が浮気したくせに、新しい彼女が出来たって知って、よりを戻そうって迫ってるみたいなんだけど、さすがにもう少し情報が欲しい。


 パトロール中、このカフェの前を通りかかったら「ちょっと待ってください!」って二階の窓から言われて、引き止められて、激ヤバ元カノさんが怒り出すかもしれないからって言われて、先輩はブラウンさんの私服に、私はカフェの制服に着替えさせられて、今この状況なんだけど……。


 さすがに、今から来るって言わないよね? 作戦会議、まったく出来てないのに。嫌そうな表情の先輩と顔を見合わせていたら、ブラウンさんが魔術手帳片手に「もしもし?」って言い出した。


(電話するの!? 嘘でしょ……。無視したらいいのに)


 先輩を見てみると、眉間のシワが深くなっていった。あ、ああ、先輩、キレないでくださいね!? ブラウンさんが口をぱくぱく動かして、「すみません、ちょっと出ます」って言ったあと、去ってゆく。あー、うー、覚悟を決めとかなきゃ。私が新しく付き合ったばかりの彼女役だっけ? うわ~、どうしよ。私、誤魔化すの下手くそなのに。もしも、ばれたら。


「いいか? フィオナ。俺が絶対に守るから、やって来たクソ女を睨みつけろ。余計なことは絶対に言うなよ」

「えっ!? で、でも、煽ることになっちゃうんじゃ」

「ライバルだろ? 恋の。会うなり、水をぶっかけてやるぐらいがちょうど良くて、自然な演技だろうが」

「し、ぜん……?」

「おう。でも、フィオナはそこまで出来ないだろうから、睨みつけておけ。それで十分伝わるだろ」


 先輩が腕を組みながら、平然とした表情になる。嘘でしょ!? 自然? 出会い頭に思いっきり、水をかけるのが!? そ、そうだった、そうだった。獣人って情熱的で嫉妬深いんだった。じゃあ、先輩はもしも、恋のライバルが現われたら水をかけるってこと? 身を乗り出して、誰にも聞かれないように、口元に手を添える。先輩が察して、近付いてきてくれた。


「じゃあ、先輩はもしも、恋のライバルが現われたらどうするんですか……?」

「……俺の話か。仕事の話じゃなくて?」

「はい。すっ、すみません、気になっちゃって! 仕事の話をしましょうか」

「いや、少しぐらいならいいだろ」

「えっ?」


 ソファーに座り直そうと思って離れたら、先輩がぐっと腕を掴み、引き寄せてきた。手が熱い。そっか、私、今、白シャツしか着てないから。制服の布地って意外と分厚いんだなぁとか、どうでもいいことを考えちゃった。


「影で脅す。近付くなよって」

「えっ!? こ、心が狭い感じですか……?」

「ある程度は。束縛するつもりは一切無いけど」


 どうでもよさそうに呟いて、ぱっと手を離す。ち、近い近い! 思ったよりも近くてドキドキした。平常心、平常心、冷静に、冷静に……。何度か心の中で冷静になる呪文を唱えて、落ち着く。そうこうしている内に、憔悴しきった表情のブラウンさんが戻ってきた。


「彼女がいるって聞いたら、今すぐ行くって……」

「なんでそんなこと言ったんですか? 大体、電話に出るからいけないんでしょう。相手の思うつぼですよ」

「えっ? でも、アディントンさんは電話に出るなとは言いませんでしたよね?」

「……」


 ぴくって、また先輩の眉毛が動いた。この人、ボンボンなの? 何なの? それぐらい、自分で考えてよ……。言っても無駄なんだろうけどさ。あーあ。昨日、こってり絞られたから、今日はまったり仕事したかった。この仕事、基本的にまったりしてないけど。暇な日と忙しい日が交互に来る感じ。暇な時は本当に暇なんだけどね。目を逸らしつつ、カプチーノを飲んだ。美味しい。


「あなたには脳みそがあるんですから、それぐらい、自分で考えて欲しかったところですが……。まあ、いいです。文句はあとで言います」

(言うんだ!?)

「じゃあ、作戦会議をしましょうか。ブラウンさん、俺の隣に座ってください」

「あ、はい……」


 駅からここまで、歩いて十五分ほど。急いで作戦会議をして、ざっくり決めた。先輩は隣の席で待機、私は余計なことを言わずに、淡々と諦めて欲しい、迷惑だって言う。相手が脅してくるようなことを言ったら、先輩が即刻立ち上がって、危害を加えられないように魔術契約で縛る。契約を強制するのは違法なんだけど、こういう時は違法にならない。私はよく分かんないんだけど、それ専用の契約があるっぽい。忘れた!


「じゃあ、この作戦で行きましょうか。いつ来るか分からないので、隣の席に移動しますね」

「は、はい。僕が奢るので、好きなものを頼んでくださいね」

「……ここ、べったり甘いものしかないでしょう。どうせ」

「大丈夫です! 食事メニューもちゃんとありますから」


 横に置いてあったメニュー表を取って、広げて、先輩に見せつける。かなり不機嫌そうな様子で「どうも。じゃあ、頼みます」と言ってから、受け取った。機嫌が最悪。でも、そうだよね。分かる。


 新しく出来た彼女さんの名前とか、どこに住んでるのかとか、ざっくりだけど教えちゃったって聞いてから、ますます先輩の眉間のシワが深くなった。イライラする気持ち、よく分かる……。危機感が足りない、彼女さんが可哀相。前にもやらかしたって言ってたのに。


「す、すみません、迷惑かけちゃって。ハートリーさんも好きなの頼んでくださいね」

「あっ、大丈夫ですよ。チーズケーキ頂いたので」

「良かったら、お土産にケーキを何個か持って帰ってください。もちろん、お代は頂きませんので」

「え? 大丈夫です、大丈夫です。本当にお気遣いなく! でも、そうですね。美味しかったから、またプライベートで来たいなと思ってて。良かったら、クーポン券を一枚貰えませんか?」

「喜んで! 気に入って頂けたみたいで何よりです」


 にこにこと嬉しそうに笑いながら言う。隣の席にいる先輩がメニュー表を閉じ、大きめの声で「呑気だな」って呟いた。うわぁ、機嫌悪い……。大きめのひとりごと? を耳にしたブラウンさんが、暗い表情で縮こまる。


 先輩、こういう甘やかされて育ってそうなボンボンが苦手なんだなぁ。ここまで嫌悪感を示すのって珍しい。まじまじと先輩を見つめていたら、ちょっとばつの悪そうな表情を浮かべ、もう一度メニュー表を開く。真剣に見始めた。興味無さそうだったのに!


「っふ、ふふ、すみません。失礼なことを言っちゃって、私のバディが」

「嫉妬深い彼氏さんですね……」

「へっ!? ち、ちちちち違いますけど!? ど、どこをどう見てそう思ったんですか!?」

「違うんですか? へー。どこをどうって、見ていれば何となくですかね? 僕がハートリーさんに、彼女役を頼んだのが気に食わないのかなって、思って見てたんですけど」

「ち、違います、違います……。先輩は常に不機嫌そうにしてるし、あんなもんですよ!! いつも顔はあんなもんです!」

「おい、騒ぐなよ。元カノがいつ来るか分からないってのに」

「あっ、はい。すみませんでした……」


 先輩が不機嫌そうな顔をしてから、またメニュー表を見つめる。頼む気無いんじゃない? 先輩。ここ、サンドイッチとパスタぐらいしか無いんだけど……。先輩の好きなお肉はありませんよって言おうと思ったけど、やめた。彼氏? なんでそういう風に見えたんだろう。


「あのー、どうして彼氏に見えたんですか? 理由を詳しく聞かせて貰っても?」

「えっ? はい。でも、何となくとしか言えませんよ。僕がハートリーさんに話しかけたら必ず割って入ってくるし、うっすらそうなのかなって」

「へ、へ~……」

「あとは、ええっと、そうだ。僕が話しかけた時は目を合わせすらしないのに、あなたが話し出した瞬間、熱心に見つめてるような気がして」

「熱心に」

「そうです。ほら、彼氏が彼女を見つめる時の目ってあるじゃないですか。そんな感じだったので……」


 熱心に見つめてる? 熱心に話を聞いてるの間違いじゃないかな……。だめだ、やめようっと。これから激ヤバ元カノさんが来るのに、こんなこと考えてる場合じゃない。


 距離を置きたいって言ったら突然泣き叫ばれたとか、浮気を問い詰めたら逆ギレして「仕方ないでしょ! あなたもしてるくせに」って言ったとか(してない)、財布からお金を抜き取られてたとか、クレジットカードを勝手に持って行こうとしたとか、彼女の家に置いてあったパンツが別れたあと、ずたずたに引き裂かれて送られてきたとか、やばいエピソードの数々を聞いて震えていたら、唐突に現われた。


 きつめに巻いた黒髪に、怒りがこもった青い瞳。どこかで買い物をして、時間を潰していたのか、手には紙袋を提げていた。まだ季節的に早いような気がする、鮮やかなターコイズブルーのノースリーブワンピースと、金のネックレスを身に着けていた。


(び、美人。美人なんだけど、神経質そう……)


 向かいの椅子に座っていたブラウンさんが、緊張した様子で立ち上がった。激ヤバ元カノさんはそれを無視して、ひたすら私のことを睨みつけてくる。こ、怖い! ちらりと横目で先輩を確認したら、爆発寸前に見える、静かな表情を浮かべていた。先輩ってキレる直前、静かな表情になるんだよね……。


「クレア。その、とりあえず座ってくれると嬉しい。僕の隣に」

「……好きなもの、注文していい?」

「どうぞどうぞ」


 まあ、そう言うしかないよね! 不機嫌そうに椅子へと腰かけ、メニュー表を開いた。ブラウンさんが私を気にしつつ、腰かける。びっくりするぐらい、怯えてるなぁ。腕力に差があるんだから、いざとなったら押さえつけて、店の外に出したらいいって思ってるのは私だけ? 


 まあ、ナイフや銃を持ち出してくる可能性があるから、気持ちは分かるんだけど……。それにしたって、怯えすぎじゃない? 肩が小刻みに震えてる。震えてしまうぐらい、怖い女性にどうして新しい彼女の名前と最寄り駅教えちゃったの? 絶対覚えてる、忘れてないと思うよ。


「クレア。その、彼女は仕事を抜け出していて、今ここにいるんだ」

「だから何? 何が言いたいわけ?」

「話があるんだろ? もうこれで終わりにしよう。言いたいことがあるのならさ、僕が聞くから……」


 わざとらしく溜め息を吐いて、メニュー表を閉じた。こ、怖い。美人は好きだけど、神経質そうなのはちょっと。怯みながらも見つめ返したら、青い瞳を歪めた。こっわ!! やばめな女性に会ったことがないから、どうするのが正解なのかよく分かんない……。本当にこんな女性っているんだ。


「浮気してたの? この人と」

「し、してませんけど!? ちゃんとお別れしてから、付き合い始めました」

「ちゃんと? じゃあ、私とマークが付き合ってた時、女友達として相談に乗っていたとか?」

「いえ、あの、言い方が悪かったですね、ごめんなさい……。フリーって聞いてたから、付き合ったんです」

「いつの話? それって」

「ちゃんと別れてから、彼女と付き合った! 浮気なんかしてないから、もう勘弁してくれよ……。浮気したのはそっちだろ?」


 都合が悪くなったのか、黙り込む。せんぱーい、もう危害を加えない契約を強引に結ばせて帰りたいです! 怖い、肌がヒリヒリする。だって、完全に目がおかしいんだもん。今にも、刃物を持ち出して切りかかってきそう。まばたきせず、限界まで青い瞳を見開いていた。怖い怖い、夢に出てくるやつじゃん……。


「……本当に、彼と別れる気は無い?」

「なっ、無いです! もう、怖がってるのでやめて貰えませんか?」

「彼が女好きだって聞いても? 私と別れてから、すぐに彼女を作ったのがその証拠よ」

「やめてくれ、女好きじゃないから」

「どうせ、私の悪口を散々吹き込んだんでしょ? 自分だって浮気してたくせに。この人、嘘吐くのが上手いから。信じちゃだめ!」


 って、言われてもなぁ~。目がやばい人の話は信用できない。自分がおかしいことしてるって、本当に本当に自覚できてないのかな? 怖すぎる。私が押し黙ったのを見て、何を思ったのか、ふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「今なら、まだ遅くないから。喧嘩になった時だってコップを割ったりとか、」

「やめてくれよ! 全部クレアがしてたことだろ? それ」

「違う! この期に及んでまだ嘘を吐く気? 謝ってくれたら、帰ろうと思ってたのに」

「もうこりごりだ、やめてくれ。僕は彼女と結婚するつもりなんだ」


 はい? なんで、なんで、刺激するようなこと言っちゃうの!? 結婚って、結婚って……。新しい彼女と結婚する気満々なのはいいんだけど、今、ここで言っちゃだめでしょ! 先輩がかすかに、うめき声を上げた。額に手を当てている。ど、どうすれば、どうすれば……。クレアさんの顔が怒りに染まる。頬が紅潮していた。


「結婚って? 私が言ってもしてくれなかったのに!? やっぱり浮気してたんでしょ、この女と!」

「してない、してないよ、本当にしてない……。クレア、もういい加減分かってくれ。僕達は終わったんだ、あの時。僕達の関係はとっくに終わってるんだ」

「もういい。ねえ、ライラって名前だっけ? 彼と別れる気は無いの?」

「あ、ありません……。ちょっと落ち着いてください、もし私がここで別れたとしても、彼はあなたとよりを戻すつもりなんてありませんから。美人なんだし、すぐ他の相手が見つかるでしょう?」

「私はよりを戻したくて、ここに来てるわけじゃないから。ただ、幸せになって欲しくないだけなのよ。散々私のことを傷付けて、時間を奪っておいて、幸せになるだなんて許せない」


 あ、何かされる。不思議とよく分かった。すさまじく怒った形相で、紙袋へと手を伸ばす。私に向かって勢いよく、ボールを投げつけた。黒と紫の煙が渦巻いているように見えるボールを。目の前でそれがパンと弾けて、悲鳴が上がる。


 目を開けてみると、クレアさんの体から煙が上がっていた。嫌な匂いが漂ってる。しゅうしゅうと白い煙が不気味な音を立てている中、うめきながら、ただれた腕や顔を必死になって押さえていた。え……? 先輩が立ち上がって、冷静に告げる。


「彼女の顔を焼こうとしたんですね? 治癒魔術が効かないほどの呪いをかけるのは犯罪ですよ」


 呪い? 本当だ、焦げ臭い。泣き声なのか、悲鳴なのか分からない声を上げた。ブラウンさんが立ち上がって離れ、「まさかこんなことをするなんて」と涙ぐみながら言う。ショックだったのか、次の瞬間、泣き崩れた。私がブラウンさんの体を支え、バックヤードに引っ込んでいる最中、先輩は救急車を呼んだみたいで、すぐにけたたましいサイレンが聞こえてくる。


 あー、疲れた。呆気なさすぎて、現実味が湧かない。こうなったら、私達はあんまり関わらない方がいいみたいで、警察にも通報してた。駆けつけた警察官に、報告してから解散。いらないって言ったのに、苺タルトとチーズケーキ、ガトーショコラを貰った。先輩は何個かサンドイッチを押し付けられていた。


「あーっ、怖かった! 先輩、どうします? これ。家に持って帰りますか?」

「俺、甘いもの好きじゃないしな……。ステラと分けたらどうだ」

「そうします。ひやひやしましたよ、もー! 顔を焼く気だったなんて」


 彼女の顔は一生、元に戻らないらしい。目の前で誰かの人生が壊れていくのを見るのは初めて。割り切らないといけないんだけど。でも、あんなに美人だったのに。気にせず、違う男性と幸せになったら良かったのに。ケーキが入った箱を見下ろしながら歩いていると、先輩が呟いた。


「反転させる魔術をかけておいて良かったな。だから言っただろ? 殺されかねないって」

「は、はい。すみませんでした……」

「別に謝る必要は無いけど。良かった、フィオナに怪我が無くて」

「……腹筋を触らせてくれたら、心の怪我が治るんですけど。先輩」

「はあ? 却下」

「えーっ!? ケチ! 先輩のケチ!! いつもは触らせてくれるのにーっ!」


 わあわあ騒いでたら、先輩がくすりと笑って、尻尾を腰に巻きつけてきた。えっと、これは? 思わず周囲を確認してしまう。昼間の住宅街は静まり返っていて、誰もいなかった。


「尻尾の先なら触らせてやる。それで我慢しろ」

「みっ、耳は……? 獣人にとってデリケートゾーン並みに大事なところだって、分かってるんですけど」

「お前に恥じらいは無いのか」


 先輩が信じられないという顔をしていた。だ、だって、本に書いてあったから……。触らせてくれって、頼むなって。じーっと見つめていたら、ものすごく嫌そうな顔をして、背中をかがめてくれた。もっ、もしかして、もしかして!?


「ほら、ちょっとだけだぞ」

「わーっ、ありがとうございます!! ふっ、ふわふわ! ふわっふわ、すっごい、ふわふわ……」


 銀髪から生えてるトラ耳を、両手でわしゃわしゃっと撫でる。うわぁ、すごく柔らかい! 毛が肌に吸いついてくるような感じ。あ、思ったより分厚くない。そっか、毛に覆われてるもんね。見た目より分厚くないのかも。指でつまんで楽しんでいると、先輩が急に元の体勢に戻った。手首を掴まれる。


「はい、もうおしまい」

「えーっ、もうですか!? あ、あとちょっとだけ! あとちょっとだけでいいから、触らせてください!! お金を払いますから、触らせてください!」

「お前な……。どうしても触りたかったら」

「触りたかったら? 何ですか!? お金払いますよっ!?」


 先輩が微妙な顔をして「いや、何でもない」と呟いた。ちぇっ、残念。でも、触れただけよしとしなくちゃ。嫌な気持ちが一気に吹き飛んだ。弾むように歩いて鼻歌を歌っていると、先輩が穏やかな笑みを浮かべる。


「へっへー、ありがとうございます! 初めて触りました、先輩の耳。今日のことは一生忘れません、記念日にします!」

「いちいち大げさなんだよ、フィオナは」

「でも、二度と触らせてくれないでしょ!?」

「まあ、うん。恋人にだけ触らせるもんだからな」

「ほら~、一生触る機会が無い! そうだ、サンドイッチってどういうの貰いました? ガトーショコラと交換しませんか?」

「別にいいけど……」

「あっ、もしかして嫌なんですか? 渋ってる!」

「うるせえな! 全部やるよ、ほら」

「ぜ、全部はさすがにちょっと……。機嫌悪いですね、も~」












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ