24.初めて先輩のトラ耳を触った日
アンソニーお兄様に、こってり絞られて疲れた……。なに、あの人。暇なの? 奥さん妊娠中なんだから、さっさと帰って子どもの世話でもしたらいいのに。今日は心穏やかに仕事がしたい……。顔を上げると、ばっちり目が合ってしまった。先輩がちょっと不服そうな表情を浮かべ、目を逸らす。手元に置いてあるティーカップにスプーンを突っ込み、かき混ぜた。珍しく、砂糖とミルクを少しだけ入れていた。
深紅色の制服じゃなくて、明るいベージュ色のシャツを着た先輩は新鮮で、ついつい見惚れてしまう。晴れてきたのか、徐々に後ろの窓から眩しい光が射し込んできた。壁面に並んだチョコレート色のソファーと、木製のテーブル。ところどころに配置された観葉植物に、天井で回ってるおしゃれなファン。このままゆったりご飯を食べて、帰りたい。うたた寝しちゃいそうなほど、良いお天気になってきたのに。
「どうする? 今ならまだ断れるぞ」
「ん、んん~……。先輩がいるから、大丈夫じゃないですかね?」
「俺がいても、不測の事態は起きる。どうする? 出来ればこのまま、フィオナをセンターに連れて帰りたいところだが」
憂鬱そうな溜め息を吐き、ティーカップに口をつけた。絵になる~!! でも、微妙に服が似合ってない。だぼっとしたおしゃれシャツが似合わないんだ、ふふふ、新発見。きっと、先輩はゆるゆるなワイドパンツも似合わない。うっとり眺めていたら、呆れた表情を浮かべる。
「おい、聞いてるか? 人の話。見惚れてないで返事しろよ」
「ふふふ、聞いてましたよ~。そんなに心配しなくても大丈夫ですってば! 女の子が相手だし、酷いことにはならないでしょ」
「いやぁ、でも、相手は頭のネジが何本かぶっ飛んでそうな女だぞ? 殺されかねない」
「えー、大げさ。大丈夫ですって、身代わり人形がありますから!」
「それ、高いんだけどなぁ……」
「えっ?」
アンソニーお兄様から貰った防犯グッズなんだけど、高いの? これ。嘘、どうしよう……。かなり高い防犯グッズよりも、服とコスメとバッグを買って欲しかった!! 小さい子が持ってるような、目がボタンで出来た赤毛の人形を見下ろしていると、先輩がもう一度溜め息を吐いた。
「まあいい。それ、一体誰から貰ったんだ?」
「えっ? ああ、ええっと、しん、心配した父親からですね!」
「へー、金持ちなんだな。車一台買えるような値段のものを、ぽんと買って娘に渡すとは」
「ぶぁっ……!?」
車、一台買える値段って!? 嘘でしょ、使わない方がいい? 突き返して、その代わりに服とバッグ買って貰おうかな。先日見かけた超絶可愛い服とバッグが頭から離れない。というかさ、他の防犯グッズはいくらなの……? 考えないようにした方がいいかも、うん。人形を持って、ぷるぷる震え出した私を見つめ、先輩が笑う。
「知らなかったか。まあ、専門店でしか買えないからなぁ、それ」
「わあああああっ……服とバッグが欲しい!! こんなのいらなかったのに!」
「耐えろ。服とバッグを買うより断然良い、実用的で」
「うっ、うう、良くないです。服も買って貰います……」
アンソニーお兄様には頼みにくいから、他のお兄様に頼もうかなぁ。最近、連絡取ってない。そんな危険な職場で働かなくてもいいのにって、散々文句言われたから。白いフォームミルクをちびちび吸い込んでいたら、また笑う。
「俺が買ってやろうか? 服でもバッグでも、何でも」
「い、いらないです……。先輩でもそんな冗談を言うんですね」
「別に冗談で言ってるわけじゃないけどな」
平然と言いながら、紅茶を飲む。先輩からしたら、ヒヨコちゃんに美味しいミミズをあげる的な……? 女性にプレゼントするって感じじゃないのかもしれない。焼き目がついた固めのチーズケーキにフォークを入れた瞬間、店の奥にある階段から一人の男性が降りてきた。
彼は薄い茶髪と青い瞳を持った、優しげな雰囲気の男性で今回の依頼者。さっきとは違う服に身を包んでいた。爽やかなベージュ色のリネンジャケットと白いTシャツ、それにグリーンがかったズボン。もしかして、ベージュ色が好きなのかな? 先輩に貸したシャツもベージュ色だもんね。
「あ、先輩。来ましたよ、ブラウンさんが」
「分かった。飲み干すか」
「えっ? 別に飲み干さなくてもいいんじゃ……」
落ち着かない気持ちになってるのかもしれない。構わず、ごっごっと一気飲みし始めた。不思議、お酒に見える。ティーカップなんだけどね。面白くて眺めていたら、ブラウンさんがすぐそばまでやって来た。
「すみません、お待たせしてしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。チーズケーキ、美味しいです!」
「良かった。それ、うちの人気メニューなんですよ。アディントンさんは? 何も頼んでいないんですか? デザートは……」
「食べに来たわけじゃないので、どうぞお構いなく。さて、本題に入りましょうか」
有無を言わさない様子の先輩が、ティーカップを置いた。居心地悪そうな顔をしたブラウンさんが、黙って私の隣に腰かける。向かいの椅子に座ってる先輩が、ぴくりと眉毛を動かした。相性が悪すぎる! 確かにこの手の問題はあらかじめ相談して欲しいんだけど、でも、連絡がきたのってついさっきみたいだし、そこまで怒らなくていいんじゃ……。
すかさずやって来た店員に、ブラウンさんが「すみません、紅茶をお願いします」と頼んだ。オーナーの息子なんだけど、腰が低い。ある程度付き合いがあるのか、おじさん店員が屈託のない笑顔を浮かべ、「分かりました!」と言って頷く。注文し終えたあと、気まずそうな表情で向き直った。
「急にすみません。お忙しいでしょうに、わざわざ制服から僕の服に着替えて貰って、」
「仕事なんで、どうぞお気になさらずに。それで? あなたの元カノはなんて言ってるんですか?」
「急に来るって言われても困るからって言ったら、じゃあ、二時間後に行くからとだけ」
「二時間後ですか。連絡が来たのって、ついさっきですよね?」
「はい。もう駅前にいるから、すぐ来れるそうです。あ、また連絡がきた」
ズボンのポケットに入ってた魔術手帳がブー、ブーッと鳴り出した。こわ……。自分が浮気したくせに、新しい彼女が出来たって知って、よりを戻そうって迫ってるみたいなんだけど、さすがにもう少し情報が欲しい。
パトロール中、このカフェの前を通りかかったら「ちょっと待ってください!」って二階の窓から言われて、引き止められて、激ヤバ元カノさんが怒り出すかもしれないからって言われて、先輩はブラウンさんの私服に、私はカフェの制服に着替えさせられて、今この状況なんだけど……。
さすがに、今から来るって言わないよね? 作戦会議、まったく出来てないのに。嫌そうな表情の先輩と顔を見合わせていたら、ブラウンさんが魔術手帳片手に「もしもし?」って言い出した。
(電話するの!? 嘘でしょ……。無視したらいいのに)
先輩を見てみると、眉間のシワが深くなっていった。あ、ああ、先輩、キレないでくださいね!? ブラウンさんが口をぱくぱく動かして、「すみません、ちょっと出ます」って言ったあと、去ってゆく。あー、うー、覚悟を決めとかなきゃ。私が新しく付き合ったばかりの彼女役だっけ? うわ~、どうしよ。私、誤魔化すの下手くそなのに。もしも、ばれたら。
「いいか? フィオナ。俺が絶対に守るから、やって来たクソ女を睨みつけろ。余計なことは絶対に言うなよ」
「えっ!? で、でも、煽ることになっちゃうんじゃ」
「ライバルだろ? 恋の。会うなり、水をぶっかけてやるぐらいがちょうど良くて、自然な演技だろうが」
「し、ぜん……?」
「おう。でも、フィオナはそこまで出来ないだろうから、睨みつけておけ。それで十分伝わるだろ」
先輩が腕を組みながら、平然とした表情になる。嘘でしょ!? 自然? 出会い頭に思いっきり、水をかけるのが!? そ、そうだった、そうだった。獣人って情熱的で嫉妬深いんだった。じゃあ、先輩はもしも、恋のライバルが現われたら水をかけるってこと? 身を乗り出して、誰にも聞かれないように、口元に手を添える。先輩が察して、近付いてきてくれた。
「じゃあ、先輩はもしも、恋のライバルが現われたらどうするんですか……?」
「……俺の話か。仕事の話じゃなくて?」
「はい。すっ、すみません、気になっちゃって! 仕事の話をしましょうか」
「いや、少しぐらいならいいだろ」
「えっ?」
ソファーに座り直そうと思って離れたら、先輩がぐっと腕を掴み、引き寄せてきた。手が熱い。そっか、私、今、白シャツしか着てないから。制服の布地って意外と分厚いんだなぁとか、どうでもいいことを考えちゃった。
「影で脅す。近付くなよって」
「えっ!? こ、心が狭い感じですか……?」
「ある程度は。束縛するつもりは一切無いけど」
どうでもよさそうに呟いて、ぱっと手を離す。ち、近い近い! 思ったよりも近くてドキドキした。平常心、平常心、冷静に、冷静に……。何度か心の中で冷静になる呪文を唱えて、落ち着く。そうこうしている内に、憔悴しきった表情のブラウンさんが戻ってきた。
「彼女がいるって聞いたら、今すぐ行くって……」
「なんでそんなこと言ったんですか? 大体、電話に出るからいけないんでしょう。相手の思うつぼですよ」
「えっ? でも、アディントンさんは電話に出るなとは言いませんでしたよね?」
「……」
ぴくって、また先輩の眉毛が動いた。この人、ボンボンなの? 何なの? それぐらい、自分で考えてよ……。言っても無駄なんだろうけどさ。あーあ。昨日、こってり絞られたから、今日はまったり仕事したかった。この仕事、基本的にまったりしてないけど。暇な日と忙しい日が交互に来る感じ。暇な時は本当に暇なんだけどね。目を逸らしつつ、カプチーノを飲んだ。美味しい。
「あなたには脳みそがあるんですから、それぐらい、自分で考えて欲しかったところですが……。まあ、いいです。文句はあとで言います」
(言うんだ!?)
「じゃあ、作戦会議をしましょうか。ブラウンさん、俺の隣に座ってください」
「あ、はい……」
駅からここまで、歩いて十五分ほど。急いで作戦会議をして、ざっくり決めた。先輩は隣の席で待機、私は余計なことを言わずに、淡々と諦めて欲しい、迷惑だって言う。相手が脅してくるようなことを言ったら、先輩が即刻立ち上がって、危害を加えられないように魔術契約で縛る。契約を強制するのは違法なんだけど、こういう時は違法にならない。私はよく分かんないんだけど、それ専用の契約があるっぽい。忘れた!
「じゃあ、この作戦で行きましょうか。いつ来るか分からないので、隣の席に移動しますね」
「は、はい。僕が奢るので、好きなものを頼んでくださいね」
「……ここ、べったり甘いものしかないでしょう。どうせ」
「大丈夫です! 食事メニューもちゃんとありますから」
横に置いてあったメニュー表を取って、広げて、先輩に見せつける。かなり不機嫌そうな様子で「どうも。じゃあ、頼みます」と言ってから、受け取った。機嫌が最悪。でも、そうだよね。分かる。
新しく出来た彼女さんの名前とか、どこに住んでるのかとか、ざっくりだけど教えちゃったって聞いてから、ますます先輩の眉間のシワが深くなった。イライラする気持ち、よく分かる……。危機感が足りない、彼女さんが可哀相。前にもやらかしたって言ってたのに。
「す、すみません、迷惑かけちゃって。ハートリーさんも好きなの頼んでくださいね」
「あっ、大丈夫ですよ。チーズケーキ頂いたので」
「良かったら、お土産にケーキを何個か持って帰ってください。もちろん、お代は頂きませんので」
「え? 大丈夫です、大丈夫です。本当にお気遣いなく! でも、そうですね。美味しかったから、またプライベートで来たいなと思ってて。良かったら、クーポン券を一枚貰えませんか?」
「喜んで! 気に入って頂けたみたいで何よりです」
にこにこと嬉しそうに笑いながら言う。隣の席にいる先輩がメニュー表を閉じ、大きめの声で「呑気だな」って呟いた。うわぁ、機嫌悪い……。大きめのひとりごと? を耳にしたブラウンさんが、暗い表情で縮こまる。
先輩、こういう甘やかされて育ってそうなボンボンが苦手なんだなぁ。ここまで嫌悪感を示すのって珍しい。まじまじと先輩を見つめていたら、ちょっとばつの悪そうな表情を浮かべ、もう一度メニュー表を開く。真剣に見始めた。興味無さそうだったのに!
「っふ、ふふ、すみません。失礼なことを言っちゃって、私のバディが」
「嫉妬深い彼氏さんですね……」
「へっ!? ち、ちちちち違いますけど!? ど、どこをどう見てそう思ったんですか!?」
「違うんですか? へー。どこをどうって、見ていれば何となくですかね? 僕がハートリーさんに、彼女役を頼んだのが気に食わないのかなって、思って見てたんですけど」
「ち、違います、違います……。先輩は常に不機嫌そうにしてるし、あんなもんですよ!! いつも顔はあんなもんです!」
「おい、騒ぐなよ。元カノがいつ来るか分からないってのに」
「あっ、はい。すみませんでした……」
先輩が不機嫌そうな顔をしてから、またメニュー表を見つめる。頼む気無いんじゃない? 先輩。ここ、サンドイッチとパスタぐらいしか無いんだけど……。先輩の好きなお肉はありませんよって言おうと思ったけど、やめた。彼氏? なんでそういう風に見えたんだろう。
「あのー、どうして彼氏に見えたんですか? 理由を詳しく聞かせて貰っても?」
「えっ? はい。でも、何となくとしか言えませんよ。僕がハートリーさんに話しかけたら必ず割って入ってくるし、うっすらそうなのかなって」
「へ、へ~……」
「あとは、ええっと、そうだ。僕が話しかけた時は目を合わせすらしないのに、あなたが話し出した瞬間、熱心に見つめてるような気がして」
「熱心に」
「そうです。ほら、彼氏が彼女を見つめる時の目ってあるじゃないですか。そんな感じだったので……」
熱心に見つめてる? 熱心に話を聞いてるの間違いじゃないかな……。だめだ、やめようっと。これから激ヤバ元カノさんが来るのに、こんなこと考えてる場合じゃない。
距離を置きたいって言ったら突然泣き叫ばれたとか、浮気を問い詰めたら逆ギレして「仕方ないでしょ! あなたもしてるくせに」って言ったとか(してない)、財布からお金を抜き取られてたとか、クレジットカードを勝手に持って行こうとしたとか、彼女の家に置いてあったパンツが別れたあと、ずたずたに引き裂かれて送られてきたとか、やばいエピソードの数々を聞いて震えていたら、唐突に現われた。
きつめに巻いた黒髪に、怒りがこもった青い瞳。どこかで買い物をして、時間を潰していたのか、手には紙袋を提げていた。まだ季節的に早いような気がする、鮮やかなターコイズブルーのノースリーブワンピースと、金のネックレスを身に着けていた。
(び、美人。美人なんだけど、神経質そう……)
向かいの椅子に座っていたブラウンさんが、緊張した様子で立ち上がった。激ヤバ元カノさんはそれを無視して、ひたすら私のことを睨みつけてくる。こ、怖い! ちらりと横目で先輩を確認したら、爆発寸前に見える、静かな表情を浮かべていた。先輩ってキレる直前、静かな表情になるんだよね……。
「クレア。その、とりあえず座ってくれると嬉しい。僕の隣に」
「……好きなもの、注文していい?」
「どうぞどうぞ」
まあ、そう言うしかないよね! 不機嫌そうに椅子へと腰かけ、メニュー表を開いた。ブラウンさんが私を気にしつつ、腰かける。びっくりするぐらい、怯えてるなぁ。腕力に差があるんだから、いざとなったら押さえつけて、店の外に出したらいいって思ってるのは私だけ?
まあ、ナイフや銃を持ち出してくる可能性があるから、気持ちは分かるんだけど……。それにしたって、怯えすぎじゃない? 肩が小刻みに震えてる。震えてしまうぐらい、怖い女性にどうして新しい彼女の名前と最寄り駅教えちゃったの? 絶対覚えてる、忘れてないと思うよ。
「クレア。その、彼女は仕事を抜け出していて、今ここにいるんだ」
「だから何? 何が言いたいわけ?」
「話があるんだろ? もうこれで終わりにしよう。言いたいことがあるのならさ、僕が聞くから……」
わざとらしく溜め息を吐いて、メニュー表を閉じた。こ、怖い。美人は好きだけど、神経質そうなのはちょっと。怯みながらも見つめ返したら、青い瞳を歪めた。こっわ!! やばめな女性に会ったことがないから、どうするのが正解なのかよく分かんない……。本当にこんな女性っているんだ。
「浮気してたの? この人と」
「し、してませんけど!? ちゃんとお別れしてから、付き合い始めました」
「ちゃんと? じゃあ、私とマークが付き合ってた時、女友達として相談に乗っていたとか?」
「いえ、あの、言い方が悪かったですね、ごめんなさい……。フリーって聞いてたから、付き合ったんです」
「いつの話? それって」
「ちゃんと別れてから、彼女と付き合った! 浮気なんかしてないから、もう勘弁してくれよ……。浮気したのはそっちだろ?」
都合が悪くなったのか、黙り込む。せんぱーい、もう危害を加えない契約を強引に結ばせて帰りたいです! 怖い、肌がヒリヒリする。だって、完全に目がおかしいんだもん。今にも、刃物を持ち出して切りかかってきそう。まばたきせず、限界まで青い瞳を見開いていた。怖い怖い、夢に出てくるやつじゃん……。
「……本当に、彼と別れる気は無い?」
「なっ、無いです! もう、怖がってるのでやめて貰えませんか?」
「彼が女好きだって聞いても? 私と別れてから、すぐに彼女を作ったのがその証拠よ」
「やめてくれ、女好きじゃないから」
「どうせ、私の悪口を散々吹き込んだんでしょ? 自分だって浮気してたくせに。この人、嘘吐くのが上手いから。信じちゃだめ!」
って、言われてもなぁ~。目がやばい人の話は信用できない。自分がおかしいことしてるって、本当に本当に自覚できてないのかな? 怖すぎる。私が押し黙ったのを見て、何を思ったのか、ふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「今なら、まだ遅くないから。喧嘩になった時だってコップを割ったりとか、」
「やめてくれよ! 全部クレアがしてたことだろ? それ」
「違う! この期に及んでまだ嘘を吐く気? 謝ってくれたら、帰ろうと思ってたのに」
「もうこりごりだ、やめてくれ。僕は彼女と結婚するつもりなんだ」
はい? なんで、なんで、刺激するようなこと言っちゃうの!? 結婚って、結婚って……。新しい彼女と結婚する気満々なのはいいんだけど、今、ここで言っちゃだめでしょ! 先輩がかすかに、うめき声を上げた。額に手を当てている。ど、どうすれば、どうすれば……。クレアさんの顔が怒りに染まる。頬が紅潮していた。
「結婚って? 私が言ってもしてくれなかったのに!? やっぱり浮気してたんでしょ、この女と!」
「してない、してないよ、本当にしてない……。クレア、もういい加減分かってくれ。僕達は終わったんだ、あの時。僕達の関係はとっくに終わってるんだ」
「もういい。ねえ、ライラって名前だっけ? 彼と別れる気は無いの?」
「あ、ありません……。ちょっと落ち着いてください、もし私がここで別れたとしても、彼はあなたとよりを戻すつもりなんてありませんから。美人なんだし、すぐ他の相手が見つかるでしょう?」
「私はよりを戻したくて、ここに来てるわけじゃないから。ただ、幸せになって欲しくないだけなのよ。散々私のことを傷付けて、時間を奪っておいて、幸せになるだなんて許せない」
あ、何かされる。不思議とよく分かった。すさまじく怒った形相で、紙袋へと手を伸ばす。私に向かって勢いよく、ボールを投げつけた。黒と紫の煙が渦巻いているように見えるボールを。目の前でそれがパンと弾けて、悲鳴が上がる。
目を開けてみると、クレアさんの体から煙が上がっていた。嫌な匂いが漂ってる。しゅうしゅうと白い煙が不気味な音を立てている中、うめきながら、ただれた腕や顔を必死になって押さえていた。え……? 先輩が立ち上がって、冷静に告げる。
「彼女の顔を焼こうとしたんですね? 治癒魔術が効かないほどの呪いをかけるのは犯罪ですよ」
呪い? 本当だ、焦げ臭い。泣き声なのか、悲鳴なのか分からない声を上げた。ブラウンさんが立ち上がって離れ、「まさかこんなことをするなんて」と涙ぐみながら言う。ショックだったのか、次の瞬間、泣き崩れた。私がブラウンさんの体を支え、バックヤードに引っ込んでいる最中、先輩は救急車を呼んだみたいで、すぐにけたたましいサイレンが聞こえてくる。
あー、疲れた。呆気なさすぎて、現実味が湧かない。こうなったら、私達はあんまり関わらない方がいいみたいで、警察にも通報してた。駆けつけた警察官に、報告してから解散。いらないって言ったのに、苺タルトとチーズケーキ、ガトーショコラを貰った。先輩は何個かサンドイッチを押し付けられていた。
「あーっ、怖かった! 先輩、どうします? これ。家に持って帰りますか?」
「俺、甘いもの好きじゃないしな……。ステラと分けたらどうだ」
「そうします。ひやひやしましたよ、もー! 顔を焼く気だったなんて」
彼女の顔は一生、元に戻らないらしい。目の前で誰かの人生が壊れていくのを見るのは初めて。割り切らないといけないんだけど。でも、あんなに美人だったのに。気にせず、違う男性と幸せになったら良かったのに。ケーキが入った箱を見下ろしながら歩いていると、先輩が呟いた。
「反転させる魔術をかけておいて良かったな。だから言っただろ? 殺されかねないって」
「は、はい。すみませんでした……」
「別に謝る必要は無いけど。良かった、フィオナに怪我が無くて」
「……腹筋を触らせてくれたら、心の怪我が治るんですけど。先輩」
「はあ? 却下」
「えーっ!? ケチ! 先輩のケチ!! いつもは触らせてくれるのにーっ!」
わあわあ騒いでたら、先輩がくすりと笑って、尻尾を腰に巻きつけてきた。えっと、これは? 思わず周囲を確認してしまう。昼間の住宅街は静まり返っていて、誰もいなかった。
「尻尾の先なら触らせてやる。それで我慢しろ」
「みっ、耳は……? 獣人にとってデリケートゾーン並みに大事なところだって、分かってるんですけど」
「お前に恥じらいは無いのか」
先輩が信じられないという顔をしていた。だ、だって、本に書いてあったから……。触らせてくれって、頼むなって。じーっと見つめていたら、ものすごく嫌そうな顔をして、背中をかがめてくれた。もっ、もしかして、もしかして!?
「ほら、ちょっとだけだぞ」
「わーっ、ありがとうございます!! ふっ、ふわふわ! ふわっふわ、すっごい、ふわふわ……」
銀髪から生えてるトラ耳を、両手でわしゃわしゃっと撫でる。うわぁ、すごく柔らかい! 毛が肌に吸いついてくるような感じ。あ、思ったより分厚くない。そっか、毛に覆われてるもんね。見た目より分厚くないのかも。指でつまんで楽しんでいると、先輩が急に元の体勢に戻った。手首を掴まれる。
「はい、もうおしまい」
「えーっ、もうですか!? あ、あとちょっとだけ! あとちょっとだけでいいから、触らせてください!! お金を払いますから、触らせてください!」
「お前な……。どうしても触りたかったら」
「触りたかったら? 何ですか!? お金払いますよっ!?」
先輩が微妙な顔をして「いや、何でもない」と呟いた。ちぇっ、残念。でも、触れただけよしとしなくちゃ。嫌な気持ちが一気に吹き飛んだ。弾むように歩いて鼻歌を歌っていると、先輩が穏やかな笑みを浮かべる。
「へっへー、ありがとうございます! 初めて触りました、先輩の耳。今日のことは一生忘れません、記念日にします!」
「いちいち大げさなんだよ、フィオナは」
「でも、二度と触らせてくれないでしょ!?」
「まあ、うん。恋人にだけ触らせるもんだからな」
「ほら~、一生触る機会が無い! そうだ、サンドイッチってどういうの貰いました? ガトーショコラと交換しませんか?」
「別にいいけど……」
「あっ、もしかして嫌なんですか? 渋ってる!」
「うるせえな! 全部やるよ、ほら」
「ぜ、全部はさすがにちょっと……。機嫌悪いですね、も~」




