21.すね毛の話がしたいんですけど!?
お腹がぱんぱんでつらい。苦しい。あとからじわじわきた、胃が気持ち悪くて吐きそう……。横になりたいんだけど、二人乗りだからなれない。つらい、あんなに食べるんじゃなかった。今さら後悔したって、もう遅いんだけど! 私が胃の辺りを押さえて、「おえっ、気持ち悪い」って言ってると、先輩が呆れたように溜め息を吐いた。先輩は食べ過ぎていないから、涼しい顔してる。
「だから食うなって言っただろ? 無理にでも止めるべきだったか」
「いえ、食べ過ぎちゃった私が悪いんです……。どうぞお気になさらずに」
「気になる! どうする? 一旦、休めるようなところでも探すか?」
「うーん、いや、大丈夫です。最悪、歩いて帰りますから……」
「おいおい、大丈夫か? 歩けないだろ、絶対に」
「胃が気持ち悪いだけなので、歩けはしますよ。時間が経てば、収まると思うんですけどねえ……。でも、気持ち悪すぎて、この感覚が永遠に続くんじゃないかなって」
「それはない! 大丈夫だ。こんなことになるんだったら、俺が止めておけば良かったなぁ」
なんで先輩が責任感じちゃってるの? あ、真面目だから? 私が食べ過ぎただけなんだから、別に、気にしなくてもいいのに……うっぷ、また気持ち悪くなってきた。吐きそう。謝ろうと思ったんだけど、先輩がいちいち謝らなくてもいいって、そう言っていたのを思い出したからやめる。爽やかな風が、冷や汗を掻いた首筋を撫でてゆく。風があるからましになる。良かった、オープンカーで。こんな時のために備えて乗るものじゃないけど。
「次からは胃薬を持ってきます……。失敗しました」
「やめろ。胃薬を飲まなくてもいいようにしろ、食い過ぎるな」
「いつもは胃薬持って来てるんですけどね……。前回、先輩とご飯食べに行った時は持ってました。違った、スイーツビュッフェの時です」
「へー。でも、飲んでなかっただろ? あの時。あの時ぐらい、ちゃんとしていれば」
「いえ、隠れて飲んでました。先輩と別れたあと、速攻で胃薬を水で流し込んでました」
「やめろよ、聞きたくなかったぞ……」
「えっ? どうしてですか?」
答えてくれなかった、黙り込んじゃった。えー、なんで? 先輩ってこうやってよく黙り込むよね。やめて欲しいんだけど、言えないなぁ。だめだ、また気持ち悪くなってきちゃった。手で口元を押さえると、勝手に胃が震えた。やばいやばいやばいやばい……!!
「今、先輩の顔が見れないほど調子悪いです」
「まだそんなことが言えるのなら大丈夫だな。どうする? 海はやめておくか?」
「えーっ!? 行きましょうよ!! 私が何のために来たと思ってるんですか!? 先輩のすね毛を撮るためにでしょ!?」
「なぜすね毛を撮りたがる!? いいから落ち着け、具合が悪いのなら叫ぶなよ」
「すね毛、すね毛が撮りたい、うっ、うう、気持ち悪い、吐きそうです……」
胃の辺りを押さえて、ぐすんぐすん言ってみると、もう一度先輩が溜め息を吐いた。優しいからこうやって言えば、許可くれそうな気がする。
「分かったから、撮らせてやるから落ち着けって。意味分からん。前からだけど」
「だって、だって、すね毛を撮り損ねてたんですよ……!? 腹筋と背筋と胸筋は撮ったのに、腕の筋肉も撮ったのに、すね毛だけ、すね毛だけ記録に残ってないんですよ!? 覚えてないんですよ!?」
「なるほど、まったく分からん。改めてフィオナが変態だっていうことが分かった」
「全身撮りたいんですよね、ちゃんと。うっぷ、気持ち悪い」
「黙っとけって……。撮らせてやるから」
あー、だめだ。中々よくならない。まだ胃が気持ち悪い。今度はちゃんと、胃薬持って来よう……。ぱんぱんに詰め込まれた食べ物をなんとか消化したくて、海の方を見つめる。あー、綺麗だなぁ。ドライブデートって感じがしないんだけど(私のおえおえ言ってるせいで)、これってドライブデートなのかなぁ。
先輩がどう思ってるのか、ちょっとだけ気になってきた。午後の眩しい強烈な光に照らされた海面が、宝石のように光り輝いてる。なんかもう、どうでもよくなってきたかも。海って、いつまでも飽きずに見ていられる。ぼーっと眺めていれば、先輩が話しかけてきた。
「大丈夫か? フィオナが静かなのって珍しいな」
「ふふ、私だってたまには静かになりますよー! 先輩、海行きますよね? ねっ? 先輩のすね毛が見れたら、胃液が分泌されて消化が促進されそうな気がするんですよ」
「そんなことは絶対に無いだろうが、行くか。ただし、撮るのなら人気が少ないところで、」
「やったー、すね毛ー! ありがとうございます!!」
「こんなことで礼を言われたのは初めてだよ……。分かったから落ち着け、騒ぐな。じっとしてろ」
「はぁーい、子どもじゃないんですけどねえ」
「子どもみたいなことばっかりしてるからだ」
言葉とは裏腹に、楽しそうに笑いながら言う。やだ、今、シャッターチャンスだったのに撮れなかった! あー、もー、本当に先輩とのお出かけで食べ過ぎるのやめよう、そうしよう……。落ち込んでいたら、先輩があれこれ話しかけてくれた。私が静かで落ち着かないから? 別に気にしなくてもいいのに。潮風と先輩の深くて低い、穏やかな声を楽しみながら両目を閉じる。このシート、本当に座り心地がいい。固いんだけど、程よく柔らかくて、体を受け止めてくれる感じ。
「っと、悪い。つらいなら、あまり話しかけない方がいいか」
「えっ? 大丈夫ですよ。そうだ、先輩のご両親ってどんな感じですか? 詳しく聞かせてくださいよ~、気になります!」
「俺の両親かぁ。最近は結婚しろってうるさい」
「へー、そうなんですね。獣人って独身主義の人少ないって本当ですか?」
「だな。……フィオナはどうだ? そういうの言われたりしないか?」
しれっと探りをいれてきた。ばれちゃってるもんね、前に職場に来たアンソニーお兄様が親戚のおじさんじゃないって。あれからというものの、こうやってしれっと探りをいれてくる。どうして、私の家族について知りたがるんだろう。先輩が詮索好きには見えないけど。なんて言おう? 実際は彼氏がいるのなら連れて来いって言われてるし、結婚式に参加させてくれ、援助するからって言われてるけど嫌だ、絶対に嫌だ……。憂鬱な気持ちになっちゃった。楽しい話だけしていたいのに。
「ん~、ま、まあ、早めに動けよとは言われていますが。せ、先輩はどうですか!? 具体的にどう言われてるんですか!?」
「別に普通。のんびりしてたら三十五過ぎるぞってよく言われてるけど?」
「せ、先輩ならすぐに見つかりますよ! あっ、何なら紹介しましょうか!?」
「いや、いらない。変な気を回すな、いらないから」
さすがは先輩、人に紹介して貰わずに自分で探すことを選んだ。その方がいいかも。獣人の友達に頼んで、紹介して貰うという手もあるし、私が紹介するより断然いいよね……。地味に傷付いちゃったから、考えるのやめようっと。
あれこれくだらない話をしていたら、あっという間に着いた。サンダル履いてきて、ガチで良かった! 思いっきり乾いた砂浜の上を駆け回れる。砂浜に着くなり、全力で駆け出していった私を見て、背後にいる先輩が笑っていた。空が青くて広い。海は青く輝いていて、どこまでも続いてる。しつこかった気持ち悪さが一瞬で吹き飛んだ。こういうところに来ると、全力で走りたくなる。
「貝殻! 可愛い、小さい!」
波打ち際に落ちていた白い貝殻を拾って、陽にかざしてみる。かざすと色が綺麗になるわけじゃないんだけど、模様が浮かび上がってくるわけじゃないんだけど、ついついこうしちゃう。白い貝殻を見て笑っていると、先輩が後ろに立った。
あれ、早い。後ろを振り返ってみると、そこには初夏の陽射しを浴びて、いつもより色気がだだもれになっている先輩が立っていた。薄いサングラス越しでもはっきりと分かる、アーモンド形の美しい瞳。日に焼けた浅黒い肌に、愉快そうな口元。あっ、また、さらさらと砂になって崩れ落ちちゃいそうなんですけど……。
貝殻を見るより、先輩を見るべきなんじゃ? 私の角膜って何のためにあるの? 先輩を見るためでしょって思っちゃうぐらい、先輩の姿が見れて嬉しい。もう見るだけで、角膜が甘やかされているような気さえする。先輩すごい、計り知れない価値がある。生まれてきてくれてありがとう……。
「何かいいもん見つけたか? 持って帰るのか、それ」
「はい、見つけました! 先輩を持って帰りたいです……!!」
「俺かよ、なんでだ。まあ、家に行ってもいいけど。別に」
「ふふふふ、冗談です! そうだ、先輩の写真を撮るべきですね……」
「せっかく可愛い顔してたのに、幽霊みたいな顔するなよ。あーあ」
「えっ!? ゆ、幽霊みたいな顔って! 真剣な顔してただけです!」
「いーや、立ち上がり方も微妙に怖かったし、鬼気迫る顔してた」
か、可愛いって、可愛いってさりげなく言った!! 私はヒヨコちゃん、私はヒヨコちゃん、私は先輩にとってヒヨコちゃん。よし、冷静になれる呪文を唱え終わったことだし、写真でも撮ろう。撮りまくろう、引かれるぐらい! 私が撮る気満々で、首に下げたカメラを持ったとたん、先輩がくるりと背中を向けた。えっ、そんな!
「じゃあ、少し歩くか。意外と人が少ないな」
「えっ、そん、そんな、写真は……?」
「あとででも撮れるだろ? 少し歩こうか」
「あっ、はい。でも、ジャケットをこう、片手に持って振り回しながら歩いて欲しいんですけど!」
「なんで俺がそんな奇行に走らなくちゃいけないんだ?」
「奇行じゃありませんよ、奇行じゃ!! せめて髪を掻き上げたりとか、すね毛チラ見せしたりとか、服を脱いだりとか、脇を見せつけたりとかしてくれないと、海に来た意味が……!!」
「良い天気だなー、今日は」
だめだぁ、撮れないかも。落ち込む。仕方ないから、やたらとある砂粒を数えて歩いてると、優しい声で「フィオナ」って言って、私の手を柔らかく握り締めてきた。見上げてみれば、静かに苦笑を浮かべる。
「あとで撮らせてやるから。転ぶぞ」
「はい。……えーっと、手を繋ぐ必要ってありますか?」
「ある。転ぶかもしれないからな」
「転びませんけど?」
「いや、そんな気がする。いっつも俺の顔見て転ぶから、フィオナは」
「えーっ!? 今日は転ばないんですけど」
「……いいか? フィオナ。世の中に絶対は無いんだ。肝に銘じておけ」
「ぶっ、ふふっ、そんな真面目な顔で言うことですか!? 先輩、適当すぎる~」
「適当じゃない、本当だ」
「えー、嘘でしょう。絶対に!」
笑いながら、手を繋いで歩く。潮風が心地良かった。海の匂いと、さっきよりも複雑で甘くて、スパイシーな香りになっている先輩のコロン。うおあああぁ~、錯覚しちゃいそうになる。恋人同士って。青い海を見ながら、この甘酸っぱい空気をどうにかするため、すね毛の話を始めることにした。
「先輩、あとですね毛をちょっとだけ撮らせて欲しいんですけど!」
「……今日、パフェ食いに来て良かったな。楽しかったか?」
「た、楽しかったです。先輩、ねえ、すね毛の話をしましょうよ……」
「改めて言うけど、そういう格好も似合ってるな。フィオナは何を着てても可愛い」
「だっ、どっ!! す、すね毛は、」
「特にパフェ食ってる時が一番可愛かった。いいよな、フィオナは表情がくるくる変わるところが。冷たいアイス食って、頭がキーンってなってる表情も、」
「ばっ、ぶっ、先輩、ちょっと待ちましょうよ!! いきなりどうしたんですか!?」
緊張と恥ずかしさで耳たぶが熱くなってきた。急にどうして、なんで!? 私が勢い余って先輩を睨みつけていると、ばつの悪そうな表情を浮かべた。私の手をしっかり握り締めたまま、後頭部を掻く。トラ耳がびゃっと後ろになってて、可愛かった。
「……悪かった。フィオナがあんまりにもすね毛、すね毛って言うから、ついからかいたくなってしまって」
「もーっ、びっくりするじゃないですか! まるで」
「まるで? どうした?」
まるで、口説かれてるみたいだった。うおあぁーっ、良かった、言わなくて!! 先輩が不思議そうな顔になっていた。よし、大丈夫大丈夫、私はハンドルを握り締めた先輩の姿を見て騒がずに乗り越えた女。これぐらい、なんてことないから大丈夫。汗掻いてきちゃったから、先輩の手をふりほどく。一瞬だけ、残念そうな顔をしたように見えたけど、私の妄想からくる幻覚かもしれない。
「何でもありません!! すね毛の写真を撮っても!?」
「……なんで、そこまですね毛にこだわる。もういい、分かった。ほら、こんなの撮って何が楽しいんだか」
「うわぁーっ、ありがとうございます! 初めてちゃんと見た、先輩のすね毛!」
「こんなことで礼を言われたのは初めてだよ。まぁ、フィオナだもんなぁ……」
先輩が大きい溜め息を吐いて、さらにズボンの裾をめくってくれた。すごい、優しい! 撮りやすくて助かる~! なめらかそうなすねに、ちらほらとすね毛が生えていた。あっ、つまみたい。でも、どうなの? それって。白昼のビーチでズボンの裾をめくらせて、写真を撮らせて貰っただけでは飽き足りず、すね毛触らせてってどうなの? たとえ、法律が許したとしても、私が許さない。でも、先輩は許してくれるかも。頭が熱くなってきた。陽射しと欲望で脳みそが沸騰寸前、つらい……。
「せ、先輩? お願いがあるんですけど、一生のお願いが!」
「……どうした? くだらないことだろうけど。まさか、触らせろって?」
「は、はい」
「……」
「だめですかね!? すみませんでした、欲を出しちゃって!!」
「十秒だけな」
「えええええええーっ!? 先輩って見かけによらず、優しいですね!? うわっ、うわぁ~、ありがとうございます!! やっぱり私が先輩のヒヨコちゃんだから!?」
「ああ、うん。そうだよ……」
目を逸らしながら、虚ろな表情で肯定してくれた。喜んでちくちくした手触りを楽しんでいると、犬の散歩中だったおじさんが通りかかって、すごい表情で見てきた。茶色い大型犬はぶんぶん尻尾を振っていて、「遊ぶ? 遊んじゃう?」とつぶらな瞳で語りかけてくる。すぐさま先輩が手を掴んできて、私を立ち上がらせ、振り返らずにすたすたと歩き始めた。
「す、すみません、私のせいで、先輩が彼女にすね毛を触らせて、喜んでる変態になっちゃって……」
「さりげなく俺だけ変態にするな! 俺は喜んでなかったぞ、フィオナは喜んでたけど」
「先輩も変態ですよ、あのおじさんからすると」
「それ以上何も言うな。もう帰るか」
「えっ、他の写真は!? ポージングは!?」
「……じゃあ、それが終わったら帰るか」
無事に撮りたい写真が撮れた。ふっふっふっふっ、先輩のコレクションが増えたー! やったぁ、幸せ。私がうっとりしながら、延々と語っていれば、優しい先輩が「まあ、フィオナが楽しいのならいいんだけどな」って言ってくれた。本当に優しいなぁ、先輩って! 駅前のロータリーに着いて、オープンカーから降りようとした瞬間、まだブレスレットを渡していないことに気がついた。
「あーっ、わ、忘れてた! どうぞ、先輩。色々貰ったお礼です」
「良かったのに、気にしなくて。……おい、それなのに忘れてたって」
「す、すみませんでした! つい、先輩の顔が良すぎて忘れちゃってました」
「その一言で済むと思ってないか? 全部」
「ま、待ってください、帰ってから開けてください!! お願いします!」
紙袋から小箱を取り出した先輩が、嫌そうな顔をしてやめる。あー、びっくりした。開けようとするの早くない? なんで?
「分かった。変態的なプレゼントか、さては」
「違います。さすがにそんなもの渡したりしませんよ……。何だと思ってるんですか、私のこと」
「すね毛を撮って、触りたがる変態」
「先輩のすね毛はすね毛じゃないんです、もっともっと素晴らしくて貴重なものなんです!!」
「すね毛だよ! で? なんで今ここで開けちゃいけねぇんだ?」
思いっきり警戒されちゃってる……。理由は、ブレスレットの中にメッセージを入れちゃったから。いつもありがとうございます、どれもこれも素敵で、可愛くて、十年分の誕生日プレゼントを貰った気分になりました、明日会えるのを楽しみにしてますって。大したことないんだけど、恥ずかしい。ドアを開けて、もう一度オープンカーに乗り込む。サングラスを外した先輩が、銀と青が混じった瞳を瞠った。う、疑われてるから、ちゃんと主張しておかないと!
「メ、メッセージを入れたからです! かっ、帰って読んでください、大したメッセージじゃないんですけど!! それじゃっ」
「分かった。気をつけて帰れよ、またな」
「はいっ、また! ありがとうございましたー!」
全力でぶんぶん手を振ったら、嬉しそうな笑顔で手を振り返してくれた。帰ったあと、すぐに電話がかかってきて、笑いながら「照れるようなことじゃないだろ」って言われた。散々からかわれちゃった上に、最後、電話を切る前に「今日は色んな表情のフィオナが見れて良かった、嬉しかった」って言われて撃沈する。先輩、強い。最強……!! 油断してると、あっという間に落ちちゃいそうで怖い。どうしよう? 頑張って、沼の底から這い上がらなきゃ……。




