9.廃ビルの見回りと嬉しそうな先輩
今、絶賛後悔中。そりゃあね!? あの先輩の美しく整った顔立ちから、滲み出てくるフェロモンシャワーを存分に浴びたいと思って、転職したんだけれども!! ……とんでもなくかっこいいから、好きにならないと思ってた。というか、先輩が超絶塩対応だったから、私のことなんて絶対に好きにならないだろうなって、距離なんて近くならないだろうなって思ったから、転職したわけで。
(ん? でも、考えてたっけ? ちゃんと。あの顔を見たいとしか考えてなかったような? 憧れの魔術師になれることも嬉しくて……)
何も考えずに突っ走ってたけど、もうちょっとよく考えるべきだったんじゃない? 私……。ものすっごく今更な話なんだけど!! でも、先輩の顔を毎日間近で見て、拝みたかったし、後悔しているかと聞かれたら後悔してないし、でも、先輩がちょくちょく甘めの行動を取るから、だんだん気持ちが傾いてきちゃってるような気がするし、あ~……!!
怖いから、あれこれ考えちゃう。いつの間にか、人けが少ない通りに出ていた。さっきまで賑やかだった繁華街は遠くて、古いビルが立ち並んでいる。車も通っていなくて、しんとしていた。あるよね、昼間は賑やかなのに、夜になると嘘みたいに静まり返る通りって……。
先輩が何も言わずに、すたすたと歩いている。歩道は狭くて、ガードレールには落書きがされていた。どことなく薄汚い。治安が悪いからか、植込みにはペットボトルやレシート、食べかけのお菓子やタバコ、誰かの靴が散乱していた。何故か、たまに自転車のサドルが転がっている。すらりとした黒い街灯が、ちかちかと光を点滅させ、私達の頭上を照らしていた。
「あの、先輩? もういいですよ、手を繋がなくて」
「……ああ、悪い。気が付かなかった」
「いえ。うっわ、汗びっしょり! すみません、濡れてますよね!? 私の手汗でじとっと濡れてますよね!?」
「脇汗とかならまだしも、手汗なんて気にならねぇよ。だから気にすんな」
「ええ~……すみません、なんか。でも、そんな時は~? じゃじゃーんっ、先輩に貰ったハンカチ! これで汗を拭きますよ! この先輩から貰ったハンカチに、先輩の汗が染み込むことによって初めて完成するんです」
「は?」
私が無理やり羽織っているカーディガンのポケットから、濃いピンク色のレースハンカチを取り出して、ばーんっと掲げてみれば、あからさまに眉をひそめた。
「また変なこと言い出したな。でも、これ、フィオナの汗だぞ? 多分」
「うぐっ、じゃ、じゃあ、しょうがないから、先輩? 脇の辺りを拭いてください。仕事が終わったあと、これで首の裏とか首筋とか、鎖骨の辺りとか、胸元とか脇とか、とにかくハンカチを体に突っ込んで拭いてください!! それを私にください、お願いします!」
「仕事中だって意識をもうちょい持て。ほら、着いたぞ。これが例のビルだ」
「うぁっ、うわぁあん……!! 怖いです、入りたくないです、嫌だ……」
「大丈夫だって。警察が調べたあとだから、死体も犯人もいない。実体が無い方が楽だろ?」
「さ、さらっと怖いこと言わないでくださいよ!? うわぁ~……」
目の前にそびえ立っていたのは、おどろおどろしいビルだった。黒ずんだ壁に、抜け落ちた窓。隣に木が密集した小さな公園があるからか、怖さが増している。誰? こんなものをビジネス街の端っこに放置している人は……!! だから、私が入る羽目になるんだよ~、嫌だよ~って思いながら、ぎゅっと先輩の腕にしがみつけば、おかしそうに笑った。
「大丈夫だって、フィオナ。魔生物かなんかだろ。それか人外者?」
「どっちも怖くて嫌です……。どうして先輩は平気なんですか?」
「いざとなったら、殺せばいいと思っているからだな。人外者だったとしても、まあ、銀等級、金等級はこの辺りにいないから大丈夫だって。よし、入るぞ」
「早い~……!! うう、頑張ります」
「どうしても嫌なら、ここで待ってるか?」
「それも怖いのでいいです。なんだかんだ言って、先輩の傍が一番安全ですから」
ビルの外で待ってて、誰かに声をかけられたら嫌だし……。いきなり男が来て、刺されるかもしれないし。先輩の腕にしがみつきながら、震えていると、穏やかに笑った。
「……そうか。ならいい。勝手にあちこち見て回るなよ? いいな?」
「もーっ、子どもじゃないんですから! 余計な心配ですよ、もう。私が勝手にどっかに行くはずないじゃないですか」
「どうだかなぁ。いっつも余計なことするからなぁ」
「うっ、す、すみません……」
尻尾が軽く、とんとんと私の腰辺りを叩いてきた。えーっと、これは慰め? それとも無意識? どっち? 腕にしがみついていると、先輩が歩き出した。うわぁ~、嫌だなぁ。でも、頑張らなくちゃ。腕にしがみついたまま、低い三段ほどの階段を上って、重たいガラス扉を押し開ける。片面はガラスが割れていた。
歩道からの光が薄く射し込んでいる中、先輩がポケットを探って、ライトのスイッチを入れた。すぐに眩しい光が放たれる。むきだしになったコンクリートの壁に、グレーのタイル、少し汚れた郵便受け。何故かすみっこの方には、枯れ果てた観葉植物がぽつんと置いてある。チラシが床に、何枚か落ちていた。
「あ、良かった……。そこまで酷くないですね?」
「だな。じゃあ、行くぞ」
「はぁーい……。怖い、怖い、それでも怖い、怖い!! 先輩、どうします? もしも幽霊に遭遇しちゃったら」
「吠えるか脅す」
「どっ、どうやって!?」
「えーっと、クソガキどもの溜まり場にするぞとか? まあ、いざとなったら走って逃げたらいいだろ」
「先輩、本当に怖くないんですね!? どうでもよさそう!」
「見たことないからなぁ、俺。幽霊なんて。実体がある時点で勝ちだから大丈夫だ。俺の方が強い」
「その発想はありませんでした……」
そうだった、獣人って脳筋なんだっけ。先輩が穏やかで優しいから、忘れちゃってたけど……。腕にしがみついて歩いていれば、エレベーターに近寄り、急にボタンを押した。もちろん動かない。
「だよな~、動かないよな。妙な感じだ」
「……先輩、ひょっとしてこの状況を楽しんでいるんですか!? 嘘でしょ!? 私、めちゃくちゃ怖いんですけど!?」
「まあまあ、落ち着け。フィオナ。階段を使っていくか」
「あ、はい……って、納得がいかないんですけど!! この状況でご機嫌って!」
ひょっとしてスリルを追い求める性格とか? 私はこんなにも怖いのに! ご機嫌で尻尾を揺らしてる先輩の腕に、ぎゅうぎゅうとしがみつきながら歩いていると、嬉しそうに笑った。
「こういうところって滅多に入れないだろ? だからだ。それに夜だしな。夜の方が何かと動きやすくて楽しい」
「た、楽しいって……。そう言えば、先輩と一緒にこうやって夜、見回りするのって初めてですよね? こういうの月に何回ぐらいあるんですか?」
「そんなにない。二、三か月に一度ぐらい。ステラとか、夜勤が好きなやつらがいるから任せてる」
「へー、夜勤が好き……」
「暴れても、文句言われないからだってよ」
「なるほど! ひっ、階段が怖い!!」
「確かに雰囲気あるな」
先輩が平然とした顏で、階段にライトを向ける。転がった空き缶がライトに照らされ、光っていた。かなり埃が降り積もってる。しかも、踊り場があって曲がってる。こ、怖い……。よく見えないその先に、私達を待ち受ける何かが潜んでいて、誘い込んでいるように見えた。怖い!! 震えながらしがみつくと、また笑う。
「大丈夫大丈夫、幽霊がきたら追い払ってやるから」
「バカにしてるでしょう、先輩! 絶対に!! どうして怖くないんですかぁ~……」
「怖がってるやつが傍にいると、怖くなくなるもんだ。よし、行くか」
「はい。……ねえ、何か聞こえません?」
「俺を怖がらせようたって無駄だぞ、フィオナ。大抵のことは怖くない。唯一怖いのは、お前のやばい目ぐらいか」
「酷い! そこまでやばい目なんて、してませんって!! そうじゃなくて、さっきから聞こえません? かりかり、かりかりーって、爪で何かを引っ搔いているような、小さい音が……」
黙り込んだ先輩と見つめ合う。階段の奥、真っ暗闇の向こうから、小さくかりかり、かりかりと、何かを引っ掻いているような音が響いてくる。先輩のトラ耳が、興味深そうに動いていた。これはもう、先輩の腹筋でも撫でて、心を落ち着かせるしかないと思って、撫で回していたら、止めずに顎へ手を添えた。
「ん~、すると言えばするな。気のせいかと思ってた」
「気のせいって! 気のせいなんかじゃありませんよ、絶対にこれは!! 何かいますって、帰りたい! もうっ!」
「魔生物がいると想定して、今、ここに来てるから特に怖くはない」
「強い~、先輩強い~!」
「外で待ってるか? その方が絶対にいいだろ」
「でっ、ででで出てこなかったら怖すぎます! 先輩が、先輩が幽霊に食われちゃったって思うので……」
この状況で外には出れない~!! ビルの中から先輩が出てこなかったら、私のせいだ。逃げた私のせいなんだ。それで、死体も見つからなくて、もう二度と会えないんだ……。暗い顔をする私とは対照的に、先輩は何を大げさな、と言いたげな顔をして笑っていた。
「大丈夫だ。幽霊の主食はきっと、カビたパンや腐ったワインだろ。じゃ、行くぞ。気をつけろよ」
「なっ、何にですか~……!? 魔生物にですか!? どうやって!?」
「怪我しないように気をつけろ。いざとなったら、アヒルの着ぐるみでも着てろ。怪我しにくくなるだろ?」
「はぁ~い……。先輩、腰にしがみついていてもいいですか!?」
「どうぞ」
「ありがとうございます……。こっ、怖い、何か出てきたらどうします!?」
「倒す」
「それしか言いませんよね、先輩って。もうちょっとこう、何かありませんか……?」
後ろから腰に手を回して、ぶるぶる震えながら階段を上る。もう見たくない、何も。うっかり幽霊を見たら死んじゃう。実は一度だけ、昔見たことがある。とは言っても、服の端を見たり、歌声を聞いただけだったけど、怖かった~……。おどろおどろしい血まみれの幽霊とか、赤ちゃんとか、だめだ、怖い。
子犬ちゃん、子犬ちゃんの幽霊だったらいいのに。それかおじさん。生気が無さそうな……だめだ、怖い。太っていて、陽気そうなおじさんがいい。それか、宝石をじゃらじゃらつけた、気の強そうなお金持ちのおばさん幽霊でもいい。それだったら怖くないのにな。
「あーっ、そうだ!! イケメンの幽霊がいい! ねえ、先輩!? 美男美女の幽霊だったら怖くないんですけど! 写真撮ってもいいですかって聞きます!」
「お前なぁ、死んでても美形だったらいいのかよ」
「はい! 私の心の潤いなので……あっ、に、二階に辿り着きましたね? わ、私達、二人とも死なないといいんですけど」
「死なねぇって。死なせないし、俺が」
「うっ、うう、先輩、もう帰りませんか!? 分からなかったでいいと思うんですけど!」
階段を上りきった。ああ、もう、これだけで達成感がやってくる。怖い怖い怖い怖い、もう帰りたい……!! 我慢出来なくなって、先輩にぎゅうううっと、後ろから抱きついていたら、困惑し出した。
「フィオナ? さすがにこれはちょっと」
「す、すみません、過剰だって分かってるんですけど……。すみません、怖いんです。離れますね」
「えっ?」
迷惑かけちゃだめだ。頑張らないと。私、頑張らないと。耐えないと、頑張らないと、我慢しないと。腕をほどいて、先輩から離れる。一気に嫌な汗が吹き出てきた。頑張らなくちゃ、耐えなくちゃ。私、頑張らないと。迷惑をかけたくない。片方の腕を強く握り締め、うつむいていたら、先輩が小さな声で「フィオナ」と呟いた。その声につられ、見上げてみると、銀色の瞳を見開いていた。暗闇の中で光っている。緊張して、背筋が強張った。
「……先輩?」
「別に無理しなくてもいい。腰にしがみつきたかったら、しがみついておけ」
「は、はい。あの、どうしてトラの目になっちゃってるんですか? あと尻尾が……」
尻尾が私の太ももに巻きついていた。む、無意識なんだろうけど、先輩は。自然と後ろへ下がったら、はっとした表情を浮かべ、自分の尻尾を掴んで回収する。わし掴みにした尻尾を見下ろしながら、深く溜め息を吐いた。
「悪い、フィオナ……。セクハラだよな、これって。すまん」
「大丈夫ですよ! 私がいつも先輩にしていることですから」
「……そこまで嫌じゃないから別にいいけど。じゃ、行くか」
「えっ? はい」
幻聴? 今のって。そこまで嫌じゃないって、どういう意味なんだろう……。いやいや、そのまんまの意味でしょ。きっと先輩のことだし、そこまで深い意味なんて無いって。うん。私が庇護対象になってるから、腹筋を撫で回されたって平気って話じゃない?
危ない、勘違いするところだった。気を抜いたら先輩に特別扱いされてるかも? って勘違いしちゃうんだけど、入ってきたばかりの後輩に優しくするのは当然だよね。私、手がかかるし。一緒にいて楽しいタイプみたいだし、特別な好意があるわけじゃないでしょ。ふー、危ない危ない。勘違いするところだった、恥かいちゃうところだった。先輩が慎重にライトを動かして、荒れ果てたオフィスを見回す。テーブルと椅子が散乱していて、埃が降り積もっていた。
「……何もいないな。フィオナ? 平気なのか?」
「あっ、はい! 先輩の……そうですね、乳首が何色か考えていました。それと、鍛え上げられたお尻について!」
「……」
なんでそういうこと言っちゃうんだろう、私。せっかく心配してくれたのに……!! 照れ臭さから変態発言するのやめたい。誤魔化すにしたって、もうちょっと他にあるのに。ああっ、この口が憎い!! 両手で口元を押さえ、ぎゅっと目をつむる。頬と耳が熱くて、先輩のことが見れない。もうちょっと、もうちょっと、まともなことが言えたらいいのに……。ここが夜の廃ビルだから? 変な汗が止まらないし、落ち着かない。
「す、すみません……忘れてください、今の!! て、て、照れ隠し? 照れ隠しなんです、今の。もうちょっと言えたらなぁって、もうちょっと、まともなことが言えたらなぁって思うんですけど」
「フィオナ? 照れ隠しって?」
「えっ? そ、そのままの意味なんですけど……」
先輩が腕を伸ばして、手を掴んできた。顏から引き剥がされる。こわごわとまぶたを開けて、見てみれば、愉快そうな笑みを浮かべていた。なんでーっ!? 読めない! 普通、ドン引きするところでしょ!? 先輩って読めない。ステラちゃんやルーカスさんは分かりやすいって言うけど、ぜんぜんそうじゃない。突然不機嫌になったりするし……。
「あ、の、ごめんなさい。手、手、なんでですか? なんで掴んでるんですか……」
「照れたってどこの場面でだ? 俺、照れるようなことしたか?」
「あ、えっと、そう言われると上手く説明出来ないんですが……し、尻尾が巻きついてきたのも、嫌じゃないって言われたことも、すみません、なんだか特別扱いされてるような気がして、わっ、わーっ!! もう忘れてください、今の! み、見回り、見回りっ!」
「どうでもいいだろ。フィオナ、俺は」
先輩が何かを言いかけた瞬間、足首にぬるっとするものが巻き付いてきた。血に濡れた手が、私の足首を掴んでいるシーンが一瞬で想像出来た。叫ぼうと思って叫んだわけじゃなくて、自然と喉から叫び声が出てきた。
「うっ、うわあああああああーっ!! 気持ち悪い、無理っ!」
「えっ!? フィオナ!?」
「ぬるっとした、ぬるっと! 先輩、ぬるっとしました!!」
「俺の手が!?」
「違いますよ、なんでそうなるんですかーっ!? いるんですよ、何か! やっぱり!」
怖くなって駆け出す。幸いなことに、ビルの二階には街灯の光が射し込んできていた。暗闇に目が慣れてきたということもあって、よく見える。散乱した椅子やテーブルを飛び越えて、すみっこの方に逃げ出してしまった。倒れたソファーの後ろから顔を出せば、オフィスの真ん中で、先輩が辺りを見回していた。
「……よーし、殺す! 絶対に殺す。何が何でも殺してやる!」
「いっ、いつもよりやる気満々ですね!? ゆ、幽霊じゃなくて良かった……」
先輩と対峙しているのは、てらてらと光っている、粘液をまとった大きなトカゲだった。毒を持っていそうな蛍光色のグリーン。しゅるしゅると、口から舌が出たり入ったりしてる。うえっ、気持ち悪い。私、爬虫類苦手なんだよね……。見ているだけで気持ち悪くなる。
先輩がブチギレた表情を浮かべながら、手だけトラに変身させた。肘の下から手にかけて、銀色の毛が生えている。本物のトラよりも鋭く、尖った爪が光っていた。あ、出来るんだ。そういうこと。
「八つ裂きにしなきゃ気が済まねぇな……。おい、フィオナ! そこから動くなよ! まだもう一匹いそうな気がしてる」
「もっ、もう一匹ですか……。んんんっぅぎゃーっ!! 虫! 虫いぃっ!」
「おい、フィオナ!? どこ行くんだ!?」
「逃げてます、ご心配なく!」
は、は、早く逃げたい!! オフィスから走って逃げた。でも、すぐに後悔した。先輩の傍にいる方が安全だっていうことを、嫌というほど思い知らされた。




