17.ちょっとしたトラブルと美味しいカレーライス
待って? トラ姿に変身した先輩を見て、ときめいて胸きゅんしたはいいけど、いきなり私、置いてきぼりにされちゃってるじゃん!! そもそもの話、今日良い雰囲気になるかもしれない危険を冒してまで、ここへやって来たのは、先輩の顔を見るためなんですけど……?
先輩のえっちで素敵な腹筋を見るために、交通費を支払ったも同然。ここで呑気にぷかぷか流されている場合じゃない。ただちに先輩を見つけ出して、水着姿を鑑賞しなきゃ本当に本当に、今日来た意味が無いんですけど……!!
「浮き輪が邪魔! しまおう!」
イライラしながら浮き輪を脱ぎ捨て、水面にぽぉいっと放り投げる。すぐに浮き輪へ飛びつき、押さえたまま強く、三回ほど紐を引っ張ると、あっという間に縮んでいった。最後はドーナッツサイズになった浮き輪を手首にはめ、イチャイチャしてる獣人カップルから目をそむけて泳ぐ。ここ、わりと底が深い。水が私の鎖骨まであるんですけど! 底を蹴って、びょんびょん飛び跳ねつつ、先輩を捜す。
(メイクが落ちたら最悪だな~。もうちょっとちゃんとすれば良かった。でも、崩れ防止スプレーかける余裕無かったし。というか忘れてた!)
メイクが落ちたら、更にイライラするしかない。先輩の顔が見れたらイライラが吹き飛ぶのにな~。というか、先輩の顔が見れないせいでイライラしてるんですけど!? イケメンの顔からはギャバが出てるのかもしれない、見たらすっと落ち着くもん……。あと、お淑やかになれるような気がする。
「あっ! もしかして先輩、あれじゃない!? 見つけた!」
狼っぽい黒い耳を持ったワイルド系のイケメンと、ほわほわした感じの美女カップルの向こうに、ざぶざぶと、豪快に泳いでる銀色のトラが見えた。きっと、先輩はあれ!
でも、途中で小さな浮き輪をつけた、可愛いふりふり水着を着たチワワの女の子を見つけてしまったので、心の中で「触りたああああい!!」と叫びながら向かう。幸いにも、周囲のイチャイチャカップルは、ただ水に流されてるだけだったので、邪魔だったけど簡単に辿り着けた。後ろからトラ姿の先輩に飛びつき、ぎゅっと、濡れた毛皮に腕を回す。
「せんぱーいっ! もーっ、置いていかないでくださいよ! 照れ隠しなのかもしれないけど~、ははは」
「……あ?」
「えっ?」
も、もしかして人違い!? 違った、トラ違い!? 混乱していると、先輩とは違う青色の瞳を細め、低く唸った。誰だこいつって顔になってる。う、うっそー……。トラの獣人ってそんなにいるの!? 呆然としながらもよく見てみたら、トラ耳に赤いピアスがついていない。私が硬直してしがみついたまま、どんぶらこっこと流されていると、低い笑い声を上げた。
「へえ、俺の他にもいるのか。トラの獣人が」
「すっ、すみませんでした!! 思いっきり間違えてしまい! し、失礼しまーす……」
何だろう? 雰囲気がぜんぜん違う。肌を刺すような雰囲気が漂ってる。ステラちゃんが「あいつ、猛獣系にしては大人しくて真面目なんだよね~」って言ってたけど、その意味がようやく分かった。く、食われる! 少し話してるだけでも威圧感が半端ないし、食われるという恐怖感が襲いかかってくる。私が離れ、引き続き先輩を捜しに行こうと思った瞬間、がしっと手首を掴まれた。
おそるおそる振り返ってみると、人の姿に変身してる。日に焼けた首筋から腕にかけて、びっしりと入ったタトゥー。面白がっているような青い瞳に、先輩と同じ銀髪。呆然と見惚れていれば、水に濡れた銀髪を掻き上げ、にっと笑った。
「待てって、そいつに会ってみたい。親戚かもしれないし」
「ぎゃーっ!! イ、イケメン爆誕! い、いや、そうじゃなくて、先輩と親戚とは限らないんじゃ……? と、というか手! 痛いんですけど!?」
「逃げようとするからだろ? お前が」
う、嘘でしょ。先輩、ひょっとしてかなり優しい……? 見てみると、鋭い爪が手首に食い込んでいた。赤くなってる。この人、私の血を止めて手を壊死させようと思ってる!? そう言いたくなるぐらい、強く掴まれていた。
怖い。そっか、先輩って優しかったんだ。額をデコぴんされた時も、手首を掴まれた時もぜんぜん痛くなかった。むしろ、先輩の優しい人柄がよく分かるような握り方で……。先輩の良さについつい浸っちゃったけど、はっと我に返る。
「と、とにかくも痛いから放して貰えませんか!? 逃げませんし!」
「どうだかな。そいつ、トラの獣人なんだろ? 俺が捜してるやつかもしれない。名前は?」
「……そ、その前にどうして捜しているのか、教えて貰えませんか? 先輩の名前をほいほい、他人に教えたくありません!」
「へ~」
「っう!」
更に強く、手首に爪を食い込ませてきた。いった!! こいつ最悪。早く先輩見つけて、追い払って貰いたい。辺りをきょろきょろと忙しなく見回してみても、先輩らしき人はいない。私が困っているのを見ても、助ける気は無いのか、カップルや家族連れは困惑した表情を浮かべ、すっと目を逸らす。だよね~、分かる。私も同じ立場だったらそうするかも。
だって明らかにこの人、堅気じゃないんだもん……!! ファッションマフィアでありますように! ざぶざぶと、手首を強く握り締められつつ、一緒に流れるプールを歩く。この人も先輩のことを捜してるっぽかった。
「名前」
「えっ?」
「人違いかもしれん。名前を教えろ」
「え、い、嫌です……。もしも、先輩に逆恨みしてる人だったら嫌だし!」
「こういうところでどうこうしようとは思わねぇよ、言え」
「いっ、嫌だ……!! 知らない人にほいほい、名前を教えちゃだめって教わらなかったんですか!? 先輩の尊いお名前は、私だけが知っていればいいんです!」
「なんだそれ」
だめだ、怖い。頭が回らない。どうしよう? どうするべき? 上から照りつけてくる太陽と塩素の匂いで、頭の動きが鈍っていくような気がした。名前を言うべき? でも、教えたくない。ここで名前を言うのは気が引ける……。苛立った男が睨みつけてきて、ぐっと手首に爪を立てた瞬間、後ろから肩を掴まれた。びっくりして振り返ってみると、そこには先輩が立っていた。
「先輩!」
「……俺の連れに何か用ですか?」
あ、爆発寸前だ。やばい。目がトラになってはいないんだけど、今にも相手の男に飛びかかって、殴りつけてやりたい衝動を必死で抑えているように見える。肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返しながら、限界まで銀色の瞳を見開いていた。ひたりと、静かに男の急所に狙いを定めている。そんなことを感じさせるような、鋭い殺気。相手の男が気まずそうな表情を浮かべ、ぱっと手を放した。
「お前の彼女か」
「そうですけど、何か用ですか?」
「悪いな、捜してるやつの連れかと思った。それじゃ」
人違いだと分かって、あっさり引いていった。しかも、かなり申し訳なさそうに深々と頭を下げたあと、流されていった。え、嘘。頑なにごめんなさいしない人種だと思ってたのに、意外と素直な性格!? 呆然と見送っていると、私の肩を掴んで立っている先輩が、ふうっと息を吐き出す。
「良かった。……それにしても、なんであんなことになってたんだよ!? ナンパされたのか?」
「え、あ、ま、間違えて抱きついちゃって」
「はあ!? 抱きついたって、体にか!?」
「お、落ち着いてください! 体にしか抱きつきませんから……まあ、先輩が許可をくれるのなら、ぴったりと逞しい腹筋にだけ抱きつきますが!」
「……元気そうで良かった」
「はいっ!?」
謎なことを呟いたあと、やれやれとでも言いたげに、ふーっと息を吐き出し、優しく私の腕を掴んできた。そうそう、これこれ! まるで綿菓子を掴むかのように、私のぷにっとした二の腕を掴んでくれて……痩せようかな? 筋トレでもしようかな!? 掴まれたら急に、腕の脂肪が気になってきた。まあ、まだまだノースリーブは余裕で着れるんだけど、ちょっとぽっちゃりしてきたような気がする。内心冷や汗を掻いていれば、ざぶざぶと水を掻き分け、プールサイドに上がろうとした。
「あれ? もう上がっちゃうんですか? 先輩」
「さっきのやつと顔を合わせたくない。一発ぐらい、殴ってやれば良かった」
「えっ!? だ、だめですよ。犯罪ですよ、それ……」
「獣人同士ではよくあることだからな、大丈夫だ」
「暴力が!?」
「とにかくもほら、上がるぞ」
「あっ」
だめかも、さっきちょっぴり怪我した手首を見られたら。もっと怒るかもしれない。不思議そうな顔をする先輩に、曖昧な笑みを向けながら、怪我していない方の手を出し、引き上げて貰う。獣人専用のプールだからか、階段が無かった。私がプールサイドに上がったのを見て、先輩が苦虫を噛み潰したような表情になる。
「悪い。そもそも、俺が離れなきゃ良かった話だよな……?」
「えっ? 大丈夫ですよ、別に。怖い目には遭ってないし」
「そんなこと、無理して言わなくていいだろ。平気なふりをするのはよせ。なんで隠そうとするのか意味が分からん」
先輩がぎゅっと眉間にシワを寄せた。だって心配させたくないし、怖いって言っても何も変わらないんだもん。それにもう終わったことだし! 探るようにじーっと、見つめてくる先輩の眼差しから逃れたくて、笑いながら肩を叩く。
「ほっ、ほら! もう終わったことだし、別にいいじゃないですか! ご飯食べに行きましょうよ、ご飯! お腹減っちゃったな~!」
「……まあ、突っ込まれたくないのならいいけど。それにしても、本当に目を離すべきじゃなかったな~。休日のプールだし、いるに決まってるよなぁ」
「は、はい? あの人がですか? そうだ、あの人、わざわざ泳ぎにきたんですかね? のどかなプールに不似合いなんですけど!」
「ここは獣人フレンドリーだし、綺麗で安い。わざわざ山の方に行って川を探すより、効率的だからだろ」
「かっ、川を!? 何故!?」
「そりゃ泳ぐためだよ。フィオナだってよく言ってるだろ? たまにはおしゃれなカフェに行って、お茶が飲みたいって」
「えっ、そういう!? 獣人にとって川ってそういう!?」
「たまにはトラ姿に戻って、思いっきり泳ぎたいんだよ。すっきりする」
「ふ、ふーん……?」
やばい、よく分からない。帰って本を読もうっと。私が首を捻りつつ歩いていると、少しはしゃいだ様子で屋台の方を指差した。ぷぅんと、たまらなく良い匂いが漂ってる。はー、この匂いを嗅いでるだけで幸せ!
「何食う? フィオナは。俺はカレーでも食うかな、それか串焼きセット」
「串焼きセットってどういうものですか? 気になる!」
「そのまんま。串焼き肉が大量に載せられてる。まあ、獣人向けだな」
「へ~……私、脂っこいものはちょっと。サンドイッチとか売ってますかね?」
「どうかなぁ。ここ来るのは久しぶりだから」
「前は誰と来たんですか? 元カノさんとか!?」
「何故はしゃぐ……」
先輩が呆れた顔をして、首の後ろを掻いた。はー、かっこいい! さっきは腹筋と顔しか見てなくて分からなかったけど、シルバーっぽいネックレスをつけてる。浅黒く、日に焼けた胸筋の上で踊るネックレス。穴が開くほど見ても見飽きない……。感動して涙ぐんでいると、先輩が嫌そうに眉をひそめた。
「薬やってるような顔やめろって。ほら、何にする?」
「えっ!? 薬!? まあ、先輩みたいに私好みの顔をしたマッチョなイケメンはある意味、麻薬並みの中毒性があってたちが悪いんですけど……」
「お前が好きそうなサラダプレートがあるぞ、良かったな。草食系の獣人向けだけど」
「へーっ! でも、草とゼリーしかありませんね……」
「あいつらは肉食うと腹壊すからなぁ。当然だろ」
草食系の獣人さん専用と書かれたメニューの下に、本日のハーブミックスと野菜のグリル、ミックスナッツに全粒粉パンとフルーツゼリーがのせられた、おしゃれなワンプレート写真が載っていた。これじゃない。私が食べたいのはこれじゃない……。しぶい顔をする私を見て、屋台のお兄さんが苦笑していた。
「……次行きましょう、次。私もカレーが食べたくなってきました!」
「じゃ、俺と一緒の店で食うか。もうちょい奥まったところにカレー専門店があって、そこで食えるんだよ。普通はあっちの飲食エリアで食うんだが、そこの店と両隣の店だけ、ちゃんと席があって」
「先輩、なんかはしゃいでません!? 可愛い~」
「……肉が増量出来るんだよ。さっき怖い思いをさせたし、奢るから好きなのトッピングしろ」
「えっ!? いや、申し訳ないし、先輩のせいじゃないし、あれは」
「いや、俺がいたらああいうことは起きなかった。俺のせいだ」
真っ直ぐ前を見つめながら、虚ろな表情で歩いてる。こ、これはだめだ! 絶対に手首の怪我、隠さないと……。幸いにも袖は長いし、大丈夫大丈夫。ばれないでしょ。先輩の方をちらちらと見ながら、黒い袖で手首を隠す。ああ、もう、心配かけちゃったなぁ。獣人は庇護欲が強いって聞くから、もう少し気をつけないと。必死で隠していれば、急に先輩がこっちを振り返った。
「で? 聞きそびれていたが、大丈夫か? 本当に何もされてないな?」
「あっ、だっ、大丈夫ですよ~、ははは! ほ、ほら、カレー屋さん! 何にします!?」
「怪しい……」
「先輩!! お腹空いたから食べましょうよ、ねっ? ねっ?」
不満そうな先輩の腕を掴み、ぐいぐいとお店の方へ引っ張ってみる。先輩の言葉通り、赤と黄色で彩られた屋台の前には、古くなった白いテーブルとイスが置いてあった。席はほぼ埋まっていて、一つしか空いていない。
だから、交互に注文しに行くことになった。先輩は迷う素振りを見せず、角切りの牛肉がごろごろ入ったカレーの上に、追加で鶏肉と牛肉をトッピングしていた。カレーがお肉まみれになっている。私はちょっと珍しい、アボカド入り野菜カレーの上に目玉焼きをトッピングしてみた。向かいのイスに座った先輩が、いそいそと嬉しそうにスプーンを持つ。
「ああ~……この筋肉質でワイルドな感じの先輩がわくわくしながら、スプーン持って、カレー食べている姿って眼福でしかないんですけど!! 何なんですか!? 先輩は! 意外と優しいし、そうだ、さっき思ったんですけど、普通の猛獣系の獣人とはかなり違いますよね? 温厚な方ですよね?」
「んー、まあな。俺の親父が温厚でひょろくて」
「ひょろっ!? ま、まあ、先輩のお父さんが先輩と同じく、筋肉質とは限りませんよね……」
「俺の親父にまで期待すんなよ。まー、だからだな。お袋は気が強いけど」
「へー! 先輩のお母さんだったら、さぞかし美人さんなんでしょうね!」
「顔ばっかか、お前は」
「そりゃ、私は先輩の顔だけが好きなので! あっ、ここのカレー美味しい。黄身がとろとろしてる~」
私がはぐはぐと、必死で黄身とカレーが混ざった部分を食べていると、少し寂しそうな苦笑を浮かべた。あうっ、分かってる! 最近、私が顔だけ好きって言うとちょっと寂しそうにするのは。……恋愛感情なんて無いんだろうけど、顔、顔って、顔だけ褒められてたら良い気はしないよね? ごめん、先輩。許して欲しいです。
ちらりと見てみれば、長いまつげを伏せ、牛肉をかっこんでいるところだった。どっさりと肉が載せられていて、ルーがあまり見えないカレーをばくばくと、豪快に食べていってる。パラソルの間から見える空は青くて、夏の気配が漂っていた。立ち昇る自分の汗の匂いと、スプーンが皿にぶつかる音。
不思議な静けさが漂う中、先輩は夢中でカレーを食べていた。思わず笑っちゃう。刈り上げられた銀髪に、程よく鍛えられた筋肉質の体。うーん、ここに来て本当に良かった。すりすりと頬擦りしたくなるような胸筋に、銀色のネックレスが揺れてるのがセクシーで食が進まない! 先輩の筋肉を見てるだけで、ダイエット出来るかも。だって、食べるより筋肉を見る方を優先しちゃうもん……。容赦なくガン見していると、それまでカレーを食べていた先輩が、スプーンに目を落としたまま、気まずそうな表情になる。
「……食わないのか? フィオナは。そこまで見られると食いにくい! 緊張する」
「あっ、ご、ごめんなさい! 気持ちよく食べてるなぁと思って~、ははは! あ、このあとはどうします? まだ泳ぎますよね?」
「おう。あと二時間ぐらい泳ぐから、帰っていいぞ。先に」
「あと二時間!? いえ、ダイエットのために私も泳ぎます! それから、先輩の体にしがみつきながら泳いでみたいです。トラ姿に変身してくださいよ~」
「悪い。そういうのは家族か、恋人にしかさせられねぇから……」
「身持ちが堅い!! 先輩、もうちょいゆるゆるに出来ませんか? 身持ち!」
「絶対に嫌だ!」




