10.夜のカフェにて、うんこと連呼する
わっくわく~、うっきうっき~。今なら私、空が飛べちゃいそう! ロッカールームで制服から、白いボウタイブラウスとピンクのツイードチェック柄スカートに着替え、さらにトレンチコートを羽織ってから、部署へ向かう。廊下の壁に取り付けてあるランプが、ぼんやりと草花柄絨毯を照らしていた。この部署は少し外れたところにあって、夜になると身構えちゃう。少し怖い。でも、今はまったく気にならないかなー! うっきうきで歩いていくと、すぐに先輩が見えてきた。
もたれるのが好きなのか、廊下の壁にもたれつつ、腕を組んで待っている。すらりとした筋肉質の足は、ジーンズに包まれていた。そうそうそうそう、先輩はこういう明るい色をしたズボンの方が怖そうな雰囲気が中和されていて合っていると思うんだよね!! それにぴちっとした白Tシャツの上から、黒いジャケットを羽織って、グレーのワンショルダーバッグを身につけていた。
(もう、もう、永遠に声をかけたくない……!! このまま、薄ぼんやりとした明かりの下で佇む先輩を永遠に見つめていたい! ちょっと虚空を見つめている感じがまたアンニュイで素敵なんだけど、多分あれ、絶対絶対に、今から私に勉強を教えるのが面倒臭いなって思って、憂いているだけですよね!? うふふふ、やだ~、どうしよ~! 先輩気の毒~! 私が先輩を悩ませちゃってるんだ~、うふふふ)
両手で口元を押さえ、指の隙間から「ぐふっ、ぐふふ」と声をもらしていると、先輩がこっちを見た。私の奇行に慣れてしまったのか、さして気にも留めずに、廊下の壁から離れる。
「おう、フィオナ。それじゃ、」
「ぎゃああああああ!! かっこいい! かっこいい!! 先輩、先輩の私服姿って見るの初めてですよね!? ぎゃあ、かっこいい~……!!」
「いや、前も偶然街で会っただろ? あれが私服姿だよ……」
「でも、一緒に働いている時に見る私服姿と、働いていない時に見る私服姿はぜんっぜん違いますよね? 後輩になって見る私服姿と、赤の他人になって見る私服姿はまるで違うんですよ。分かりますか?」
「だから、目が怖いんだって……。それに分かるわけねぇだろうが。行くぞ。それじゃ、お疲れ様です」
「えっ?」
先輩が虚空に向かって話しかけたかと思ったんだけど、違った。先輩の向こうに人が二人も立っていた。耳の上を刈り上げた赤茶色の短髪に、グリーンの瞳を持ったおじさん。……おじさんって言ったら怒られそう。四十二ぐらいかな? 快活そうな男性で、半袖のベージュ色ジャケットに濃いグリーンのズボンを合わせていた。おしゃれだ。この人、自分のことがよく分かってる。もう一人は凝視してきたセドリックさんで、シンプルに淡い青色のシャツとズボンといった服装。人、人、人がいたんだ……。ずっと!?
「やっ、どーも。フィオナちゃんだっけ? 俺はディック。気軽にディックって呼んでくれ。堅苦しいのはどうも苦手だからさ~」
「あ、ど、どうも、初めまして……。いやぁ~、先輩、人と話していたんですね! 先輩しか見えていなくて、この二人が透明人間になっていましたよ~! ははは」
「見たら分かるだろ!? 確かに並んで喋ってはいたが」
「いや、ちっとも分かりませんでした。私、自分でも今、すごく驚いていて……廊下に先輩が一人だけいるのかと思っていたのに、違いましたね!」
「あれ? ひょっとして俺ら、邪魔?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……。テンションが下がったのは事実ですね、はい」
「お前は何でも素直に言い過ぎだ! 失礼だろ!?」
「いたっ!? くない……」
先輩が拳で優しく、頭をこつんとしたあと、二人に対して頭を下げ、「すみません、俺のバディが失礼なことを言って」と謝り出した。先輩、かっこいい! 私が悪いのに代わりに謝ってくれるんだ~、すごい~! ついにまにましちゃったけど、私も慌てて謝る。
「すみません、つい! 本当にびっくりするほど見えていなかったので、お二人のことが!」
「おいっ! それ、謝ってるか!?」
「あ、謝ってます……一応」
「はは、大丈夫だって! こいつも俺も気にするようなタイプじゃないし! なぁ、セドリック?」
「多少は気にする。が、その女には何を言っても無駄だろ」
「すごい! 今日が初対面なのに、私のことを分かってらっしゃいますね!?」
「フィオナ、お前な!」
「はぁい、ごめんなさい……」
軽く頭をぐりぐりされちゃった。ふふふ! 私が不気味に笑っていると、ディックさんが少し引いて、「じゃあ、俺はこれで」と言い、立ち去っていった。あれ? おかしいな……。もう少し無駄話をしそうなタイプだと思っていたんだけど。視線を前に戻すと、昼間の時と同じく、セドリックさんがじっと私のことを見下ろしていた。お、落ち着かない!
「あ、あの、セドリックさん? どうかしましたか? 私に何か用でも、」
「じゃあ、行くか。フィオナ。お疲れ様です」
「お疲れ」
「お疲れ様でーす……」
謎な人だ。でも、まあいっか! 後ろから先輩の尻尾をわし掴みにして、もふもふして、頬擦りして、匂いを嗅ぎまくりたい衝動を必死で抑えながら、センターを出て向かう。案内されたのは駅の裏側にあるカフェだった。辺りは暗く、おしゃれなバーやレストランが集っている。酔ったサラリーマンや女子軍団がひっきりなしに喋りながら、通り過ぎていった。
「ついたぞ、ここだ。俺の友達が経営していて、とは言っても今日、店にはいないが」
「へ、へえ……先輩もエリートでしたね、そういや」
どうやら一階は美容室になってるっぽい。二階へと通じる黒い階段の近くに、“魔術師のための勉強カフェ”と書かれた看板が置いてある。魔術師のための勉強カフェ……?
「エリート? 違うだろ。ま、まあいいから入ろうぜ。それにあいつは両親に甘やかされているわけじゃなくて、祖父母から相続した遺産を元手に、一から店を立ち上げてやってるし」
「へ~、なるほど! すごいですね」
もう多額の遺産が手に入る時点で、普通の家じゃないんだよ! そういうことを言いたかったけど、やめておいた。私だって女友達から言わせてみたら、お嬢様らしいし……。銀色の光を帯びて、揺れる先輩の尻尾に目が釘付けになりながらも、黒い階段を上る。高級感あふれる石の階段だった。すごい。出入り口のドアは分厚いガラスで出来ていて、壁には薄いグレージュと白色の石が積み重ねられている。おしゃれ! バーか美容室にしか見えない……。
先輩がドアを開けると、からんからんとベルが鳴り響く。中は明るくて、木の梁が見えている天井から、黒いペンダントライトがいくつも吊り下がっていた。女性の店員さんが出てきて、にっこりと笑う。白いシャツに黒いエプロンを身につけていた。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「二名です」
「申し訳ありませんが、魔術師の資格証を見せて頂けませんか? ……はい、ありがとうございます。こちらへどうぞ」
(資格証!? 私、持ってないんだけど大丈夫かな……)
まあ、先輩が提示してるし大丈夫か。周りをきょろきょろと見回してみると、ノートを広げて勉強している子ばかりだった。なんか受験生っぽい。カフェらしい無垢床の上に、座り心地の良さそうなソファーと木のテーブルが沢山並べられている。席と席の間はゆるく、フェイクグリーンが絡んだパーテーションで仕切られていた。思っていたよりも広くて、明るい。ほわぁ~。アホ面で見回していると、隅っこの席に案内された。四人掛けだ。壁際にソファーがある。
「申し訳ありません。ただいま、個室は満席でして……一時間半後に空く予定ですが、どうされますか? 予約されますか?」
「いや、大丈夫です。次回にします」
「ありがとうございます。ご注文、お決まりでしたらお呼びください」
「はい、ありがとうございます。……フィオナ?」
「あっ、はい! 座ります、ええっと」
トレンチコートを脱ぐのに手間取っていると、先輩が小さく溜め息を吐きながら、手伝ってくれた。丁寧に私のコートを持って、脱がせてくれる。横の白い塗り壁に何個かフックがついていた。
「い、嫌なら手伝わなくてもいいんですよ……!? 別に!」
「お前がうるさく騒ぐかもしれないと思っただけだ。距離が近いだろ?」
「はっ、はっ、はい……」
確かに顔との距離が近い! 先輩が端正な顔立ちでじっと、私のことを見下ろしていた。心臓が騒がしくなる。銀混じりの青灰色の瞳が、店のライトに照らされ、光り輝いていた。う、美しい……。砂漠の月を思わせるような瞳。息を呑み込んでいれば、ふっと、おもむろに色気のある笑みを浮かべる。いっ、息が止まっちゃったじゃん、今!! 硬直している私を無視して、素早くコートを壁にかけたあと、奥のソファー席に腰かけた。
「あっ、悪い、勝手に座って。どうする? こっちの席の方が良かったか?」
「い、いえ……。私にとって最高の席は、先輩のお膝の上なので!!」
「よし、そこの椅子に座っとけ。何頼む? 奢ってやるから好きなもん頼め」
「そんな、悪いですよ……。業務時間外に先輩の顔を見れるだけで至福なのに。私、お金を払わなくていいんですかね? そろそろ、先輩の顔に向かって札束でも投げ付けるべきなんじゃ?」
「申し訳なさそうな顔で言うな! ……後輩に払わせるわけにもいかないし、腹空いてるだろ? それとも、家に帰ってなんか食う予定があるのか?」
「いえ、別に。明日の朝ご飯に回すので~。じゃあ、何頼もうかなぁ? 先輩と同じものを頼みます」
「好きなもん食えよ、お前な……」
座ってメニュー表を開いてみると、記憶力を高めるための夜食セット! といきなり書かれていて震えた。ガ、ガチだ。この店、ガチ勢しか来ないんだ……!! 震えながらも、ページをめくる。私が食べたいのはそういうのじゃないから。でも、似たり寄ったりのメニューが並んでいた。
魔力を回復するキノコのポタージュとハンバーグのセット、ポテトグラタンと試練鳥のバジルソースパスタに、気力を養う蜂蜜鹿のグリル、ベリーソース添えと、青い宝石と呼ばれる果物がたっぷりのせられたフレンチトースト。ビタミンとミネラルが豊富で、ストレスが多い方にぴったり! と書かれてる。闇を感じる。
「あのっ、先輩? もう少し普通のメニューは無いんですか!?」
「じゃあ、脳を刺激して目を覚ますピザはどうだ? ちなみにこういうのしかない」
「ひどい! ええっ? それにどれもこれもお高いんですけど……!?」
「高級食材使ってるからな。お前はやる気を出すカレーセットにでもしておけ。好きなんだろ? カレー」
「覚えていてくれたんですね? ふふふ、嬉しい~! そうだ、先輩の好きな食べ物は?」
「……肉。しつこいなぁ」
ものすごくしぶしぶと、首の裏を掻きながら教えてくれた。は~、それにしても先輩のビジュが最高すぎてよだれが出ちゃいそう! このペンダントライトにぼんやりと照らされてる感じがまたもう、素敵で色気が出てる。浅黒い肌に、筋肉質の太い首。というか、シンプルで上質な白Tシャツと黒ジャケットの組み合わせが最高すぎる! イケメンはもう黙って、こういう格好をしていて欲しい。ハイブラ品とか身につけなくていい、チャラく見える……。私がにこにこ笑って眺めていれば、急に苦笑した。
「幸せそうだなぁ……」
「そんなしみじみ言うことですか? あ、先輩は何にします? 私はおすすめされたカレーにします! というか、やる気を出すカレーセットって?」
「使われているスパイスが紅殻ヘビの糞で、」
「ふっ、糞!? えっ、うんちをカレーに使ってるんですか!?」
「大丈夫だ。紅殻ヘビはスパイスしか食わない。糞もさらさらしていて砂っぽいらしいぞ。ランクの高いものだと、高級店のカレーに使われてる」
「えええええ、高いお金を出してまでうんち食べたくない……」
「っふ、まあ、大丈夫じゃないか? 博物館で嗅いだことがあるが、本当にカレーの匂いしかしなかった。マグネシウムが豊富で、脳を刺激する成分がたっぷり入ってる」
「脳を刺激する成分が!?」
「ああ。目の前のことに何が何でも取り組みたくなるらしく、」
「こ、怖い……」
「魔生物だからな。当然だ」
勉強には良いのかもしれないけど! 不思議に思って「それ、飲食店で食べたらどうなるんですか?」と聞けば、「効果が出るほどの量を一般の店では使わない」と返ってきた。ほーん。先輩、物知り。
「このまま勉強しないで、ずっと先輩とお喋りだけしていたいです……」
「それで? 何にする? カレーはやめておくか?」
「じゃあ、せっかくだから記憶力を高めるキノコのポタージュとハンバーグセットにします」
「そこはカレーに挑戦して欲しかったところなんだがなぁ」
「ええええっ? 先輩があーんしてくれるのなら食べますけど! まあ、そんなこと、天地がひっくり返ったとしてもありえないって分かってるんですけど!」
「……いいぞ? してやろうか?」
「へっ?」
先輩、そういう冗談言う人には見えなかったんですけど……!? あ、人じゃなくて獣人か。フリーズしていると、色気を漂わせ、にっと笑う。あうああうああうあ!!!
「せせせせせ先輩!? そういうことされちゃうと、術語一切覚えられないんですけど!? ただでさえ、床の埃を綺麗にする術語の組み合わせを忘れちゃったのに!」
「マジかよ……。単純だろ、あんなの。それで? カレーを嫌そうに、おそるおそる食べるフィオナを見るためなら、あーんぐらい、」
「いじわる!? そういう!?」
「っはは、悪い悪い。からかってみただけだ、しねぇよ。そんなこと!」
先輩がやけに無邪気に、嬉しそうに笑う。やばい、だめだ。絶対勉強に集中出来ない。店員さんが持ってきてくれたコップを持ち上げ、一気飲みをする。先輩は呑気に「お~、良い飲みっぷりだなぁ」なんて言っていた。心臓がドキドキと騒がしくて、痛くてつらい。先輩が時折見せる優しさと、甘さに酔ってふわふわしてしまう。まるで、胸の中にいっぱい綿菓子を詰め込まれたみたい。
(っでも! 好きになって猛アタックして、付き合えたとしてもどうせ上手くいかなくなる!! 今までも全部そうだったんだもん……。それに、先輩だって浮気するような人かもしれないし)
どういう性格をしているかなんて、よく分からない。前に付き合っていた彼女に浮気されちゃってと、悲しそうに話していた黒縁メガネのイケメンは女好きで、自分が浮気するのはいいけど、彼女が浮気するのは嫌という、とんでもないワガママクソ下半身野郎だった!! 付き合ったけど、上手くいかなかった。私を大事に甘やかしながらも、他の女性と会えるような人だった。もう傷付きたくない。
「……いくらどんなに真面目に見えたって、浮気する人は浮気するんですよね。バカみたい、私」
「どうした? それ、実は酒だったとか?」
先輩、ごめんなさい。何故か甘酸っぱい雰囲気になっているので、ぶち壊しにします!! 恋の芽は早急に摘み取って、押し潰す。徹底的に雰囲気を叩き壊す。くらえ、今までのクソ男エピソード! 男性はこういうネガティブな過去の恋愛話を延々と聞かされるのが嫌なはず。先輩に面倒くさがって貰おう。
「いえね? 私だって顔で選んじゃだめだったな~という気持ちはあるんですよ! でも、爽やか系のイケメンも無邪気なイケメンも、真面目で仕事熱心なイケメンも、みーんなちゃっかり浮気したし、本当に男性不信気味なんですよね! 人は見かけにはよらないって知ってるけど、でも、」
「そいつら全員、見る目が無かっただけだろ。フィオナは何も悪くない」
「え……? 見る目が!?」
「おう。フィオナが良い女だってことが分からなかっただけだろ。よって、悩む必要はまったく無し」
耳が一気に熱くなる。あ、あ、あっさりとメニュー表を見下ろしながらなんか、かっこいいことを言い出したんですけど!? この人! ハンマーでぶん殴られたような衝撃が襲いかかってきた。私が? 悪くないの?
「で、でも、イケメンだし、女性にモテまくるし、私だって束縛しちゃいけなかったのに束縛しちゃったし……」
「で? だから浮気していいわけねぇだろ。お前も相手も見る目が無かった。それだけだ」
「あ、はい……」
え、何も言えなくなるんですけど。雰囲気ぶち壊しにしようと思ったのに、ますます良い雰囲気になっちゃったんですけど……。背中と首筋が熱い。泣きそうになった、顔が見れない。先輩がどういう表情をしているのか、見たいのにどうしたって見れない。泣きそう。よく分からない。泣くつもりはないけど、心臓がざわざわして喉の奥が熱い。黙りこくっていると、先輩が笑った。そんな気がした。テーブルに、メニュー表を置く音がする。
「普段、うるさいくせに本気で照れると黙りこくるんだな? フィオナは」
「ず、ずるいですよ、それは……。大体いつもお前って呼ぶくせに!」
「お前が名前で呼んでくれと言ったから、呼んでるだけだ。でも、嫌ならいい。やめておく。それで? どうする? カレーにするか?」
「うーっ、分かりました。カレーにします……」
こうなれば、「うんこ! うんこ!」って連呼して、カレーを食べるしかない。そうしないと、頬の熱が引かないような気がする。両手で頬を押さえながら、ちらりと先輩を見てみれば、目が合った瞬間、愉快そうに甘く微笑んだ。ああああああっ、写真が撮りたい! 我慢出来ず、隣の椅子に置いた白いトートバッグに手を突っ込み、カメラを取り出して向ける。
「勉強頑張ったら、腹チラを撮らせてください!!」
「腹チラ……!? あと、いつも思ってることなんだが、スピードがえぐいな。流れるような美しい動作で、カメラを取り出してる」
「あれ? ちょっと感心してませんか!? 腹チラは腹筋チラ見せの略称です。ちょっと先輩の白いTシャツをズボンから、私が出して、写真を撮らせて頂きたく、」
「却下だ。顔写真ならまだしも、それは嫌だ……」
「顔写真はいいんですね!? 分かりました! じゃあ、彼氏とデートしてる風な写真が撮りたいので、食べているところを撮ります。あっ、そのさい、視線をこっちにぼんやりと……うーん、それよりもあくまでも自然にカメラなんてないかのように振舞って貰うのがいいのか、それともただ、こっちを見てるだけの自然な表情を撮るのがいいのか、」
「勉強しにきたんだぞ? 分かってるか?」
「えーんっ、勉強なんかしたくありません!! いいじゃないですか、別に。ぼちぼちと覚えていくんで……」
「だめだ。ちゃんとしような?」
「はいっ!!」
「早……」
甘い声で言われたらもう、良いお返事をするしかない! 私がにっこにこと満面の笑みを浮かべていると、先輩もつられて笑ってくれた。笑う時、顎に手を添えるのがたまらなくかっこいい。くせなのかなぁ? これからしらみつぶしに先輩のことを観察して、くせを見つけ出して、ノートにびっしり書き出していきたい。あ、どういう色が好きなのかも調べないと。他の人だったら、私が知らない先輩を知ってるよね? どういう状況でどういう反応をしていたのか、暑い日には何を食べていたのかとか、休みの日に偶然会ったことはあるのかとか、そもそもの話、プライベートで交流があるのかとか、皆さんを尋問して聞き出さないと……。
「……フィオナ? フィオナ。ほら、ノート持ってきてやったから感謝しろ。全部覚えろよ」
「え? 私が今欲しいのは、先輩のプロフィールなんですけど。てか、多いですね!?」
「基本だからな、それ。全部」
分厚いノートをどどんと、五冊ぐらいまとめて目の前に置いた。えっ、嘘。基本? これ基本!? というか、薄いブルーグレーのノートが黒ずんでいるんですけど。使い込まれているんですけど!? これは……もしや? 急に、悪夢をもたらす勉強ノートがお宝に見えてきた。生唾をごくりと飲み込めば、先輩が呆れた顔で「やっぱりな」と呟く。そっと表紙を撫でてから持ち上げ、開いてみると、予想通りで泣きそうになった。
「これ、先輩が昔必死になって勉強していた時に使っていたノートじゃないですか!! 何歳!? 字が可愛くて初々しい! 何歳の時に使ってたやつですか!? これ!」
「詳しくは忘れた。でも、十六から十八の時に使ってたやつか。その時は一等級国家魔術師を目指していたから」
「一等級……!! えっ? でも、一等級ってほんの一握りの人しかなれないんじゃ」
「ああ。だから早々に諦めた。二等級になるのもけっこうきついしな」
先輩がコーヒーを飲みながら、ちょっと気まずそうな顔をする。コーヒーって、いつの間に頼んだんだろう? やばくない? 私。まるっきり記憶が無いんだけど? 私が先輩のプロフィール作るべきと思っている間にひょっとして、店員さんが来て、コーヒー置いていったとか? もしかして注文も済ませちゃってるとか?
(……カレーがきたら分かるか! やめようっと、考えるの)
それよりも何よりも今はまず、この十八歳の少年である先輩が使っていたノートを舐め回すように見たい! ところどころ、苛立ったように“効率が悪い”とか、“これは友達に合ったやり方で、俺には合っていなかった”って殴り書きがしてあった。は~、尊い!
「でも、いいんですか!? これ! 貰っちゃっても……。先輩が見つけた、魔力消費量が少ない術語の組み合わせなのに。先生がそういうの、みんな、知られるのを嫌がるって言ってましたけど……?」
「やるとは一言も言ってないが? まあ、別に大丈夫だ。それに、術語は自分に合ったものを見つけなくちゃならない。片っ端から試していくか、今から」
「……はい?」
「成功するまでやるぞ、フィオナ。そのあとはただひたすら暗記だ。数学の公式を覚えるがごとく、術語を覚えていけ。あと瞑想もやっておくか。嫌がってやらないやつも多いが、毎日瞑想しておいた方が、いざという時スイッチが入って、落ち着いて魔術が使える。不安定な状態で使うと、事故を引き起こす。分かったか?」
「は、はい……」
先輩の目がガチだ!! さっきまでの甘酸っぱい空気はどこへいっちゃったの!? 震えていると、先輩がトントンと、指先でテーブルを叩いた。は~、指先が美しい。先輩の指紋を暗記して、紙に書き写すことなら、いくらでも出来ちゃいそうなんだけど……。というか、先輩を眺め回して堪能したいんだけど。
「まずはここに石を出してみろ。三ページを開け。赤と青と黄色が混じった石を出すための術語が書いてあるから、その通りにしてみろ」
「ひぃん……必要ありますか!? 色つきの石を出す魔術なんて!」
「だから、相性を確かめるって言ってるだろ? 石系統の魔術が得意なやつなら、たとえ複雑な魔術だったとしても、少ない魔力であっさりと出せる。だから、合うかどうか試してみろ」
「はい……。先生は得意、不得意を作らないようにっておっしゃってましたけど?」
だから、こういうのもしたことないんですけど! あまりにも勉強がしたくなくて、不満いっぱいの目つきをしていれば、何故か苦笑する。怒って「いいから、黙ってやれ!」って言われるかと思った。怒らないんだ?
「それはちょっと古臭い考え方だな。まあ、勉強法は色々あるから、一概にこれが良いとは断言出来ない。でも、人には向き不向きがある。俺としては、すべての魔術を完壁に使える一等級を目指すんじゃなきゃ、使えない魔術があってもいいと思ってる。基本的なやつだけ出来てりゃあ、それでいい」
「そ、それは確かに……。先生は保守的な考えをお持ちの人だったので、それが合っていると思っていたんでしょうね」
「おう。それにしても、一年半だけ担当か。よく飲んで貰えたな、その条件」
「あっ」
魔術を友達に教えて貰ったっていう、嘘を吐いてたんだった……。まあ、最初からばれてたみたいだけど! 冷や汗をだらだらと掻いていれば、面白くなさそうな表情になって、コーヒーカップに口をつける。ああ、私、あのコーヒーカップになりたい。先輩に優しく洗われたあと、ふきんで丁寧に磨き上げて貰って、戸棚の中にそっとしまわれたい。時々、底に染み付いたコーヒーのシミを取って貰うんだ。漂白して貰うんだ……。
「ふぅん。言いたくなきゃ、別に言わなくてもいいが……そこまで隠し通すようなことか?」
「すみません、言いたくないわけじゃないんですけど」
他人に愛人の子だって、知られるのが嫌だ。絶対に知られたくない。だから、個人情報は出来るだけ渡したくない。……知らなかった。一年半だけ教えて貰うのって、そんなに難しいの? 師弟関係のようなものだって、お兄様がそう言ってたけど。また冷や汗が背中を伝う。とうとう先輩が溜め息を吐いて、話題を変えた。
「じゃ、とりあえず石を出せ。片っ端から試していくか」
「あっ、はい……。頑張ります」
力めば、ぽんっと、何故かアヒルのぬいぐるみが降ってきた。可愛い、紫色の花柄の頭巾までかぶってる。先輩が大きく溜め息を吐いた。
「前途多難だな……どうしてアヒルのぬいぐるみを出した? いいや、そんなことよりも一体どうしてあの術語の組み合わせでこうなるんだよ!?」
「す、すみません……読み間違えていたみたいです」
「気をつけろよ。ミスったら、最悪人が死ぬような事故に繫がるからな?」
「はい……」
今度は紫色と青の気持ち悪い石が出た。先輩は諦めることにしたらしく、どれくらい魔力が減ったのか、クリップ型の機械に指を挟んで、調べてみるとあんまり減ってなかった。
「……まあまあといったところか。じゃ、次」
「あの、私、何時に帰れるんでしょうか……?」
「送ってやるから安心しろ、二十二時になったら帰してやる。あ、攻撃魔術の術語を一通り覚えたらテストするからな? 死ぬ気で覚えろ、俺のバディでいたいのなら」
「ふぁい……」
運ばれてきたカレーは美味しかった。でも、怖々と残りを食べていれば、からかうつもり満々の先輩がにやにやと笑いながら肘を突き、「どうだ? うまいか?」と言ってきた。そんな仕草も様になるし、イケメン! でも、甘酸っぱい恋の芽を摘み取っておこう。いざ、撲滅!!
「美味しいですよ、うんこ! ヘビのうんこ!!」
「お前な!? 連呼するなよ、恥ずかしくないのか……?」
「うーんこ、うーんこ、うーんこ!!」
「ちょっ、やめ、やめろって……くくく!!」
ツボに入ったのか、お腹を抱えて笑っていた。よしよし、これで大丈夫! でも、思ったより本格的に勉強させられてつらかった……。




