教本
「ところで、学校の教本はまだ持ってるか?」
「はい」
「ちょっと持ってこい」
教本を持ってきて渡すと、新藤はそれをぱらぱらとめくった。一希は何を言われるのかと気が気でない。なぜなら、どのページにも素朴な疑問が素朴なるままに書き込んであるからだ。
新藤が手を止めた。
「ん? お前が中退前に習ったのは第三章の途中までじゃなかったか?」
なぜそれを、と尋ねかけて気付く。担当教官だった土橋に電話したときに聞いたのだろう。
「はい、そうです」
「その後のページにも延々と書き込みがあるようだが」
その通り。書き込みはほぼ全ページにあるはずだ。入学したばかりの訓練学生から見て、不可解な点や不十分な点は尽きなかった。
当然ながら人様に見せるつもりで書いたものではない。「○ページと矛盾」、「○○とは違うの?」、といった、何一つよそ行きでないメモ。筆跡が苛立ちを帯びていることも多々ある。
「自分で読んで、感じたことを書き留めておいたんです」
「その心がけは立派だな。ただ、これを全部質問されたんじゃ、二十人から相手にしてる教官には酷だ」
「はい……」
「これちょっと借りていいか?」
「えっ?」
「お前の思考回路が知りたい。いやなら無理にとは言わん」
「い、いえ……あの、はい、どうぞお持ちください。よろしくお願いします」
「これを奪われたら暇がつぶれなくて困るというなら、代わりにこれを読んでおけ」
棚から取り出されたのは、どっしりとした装丁の専門書らしき本。
「過去の事故例と、原因の考察、その後の対応をまとめたもんだ」
「事故」という言葉に、一希は身を固くした。
表紙には『不発弾処理に懸る事故筆録』とある。下の方に、執筆者、編集者一人ずつと、監修者三人の名。普段こういった個人名はあまり気にしないが、何かが一希の目に留まった。よく見ると監修者欄に新藤の名がある。
「あ、これ、先生が……?」
「下書きを見てあれこれケチを付けただけだがな。それでも小遣い程度にはなった」
なるほど。新藤ほどのレベルになれば、そういう仕事もあるのだ。
その晩、一希は夢を見た。赤い、三日月の夢。座敷に扇風機が出ていたのを見たせいかもしれない。
幼い頃、めったに抱っこしてくれないその胸にしがみつき、くたびれた丸首のシャツを引っ張って素肌を覗き込んでは、無邪気に指先で触れた赤い三日月の形。
周りの皮膚とは違うつるんとした感触が面白くて何度も輪郭をなぞり、そのたびに顔をしかめられて畳に下ろされてしまったものだ。
扇風機がゆっくりと首を振るのを見ると、今でも思い出す夏の風物詩。
その三日月が見て見ぬふりをすべきものだと一希が悟ったのは、あの事故の少し前のことだった。




