カップヌードル
僕はカップヌードルをよく食べます。料理はそこまで得意ではなく、かつめんどくさがりの性格であるためどうしてもカップヌードルに頼ってしまいます。頻繁にカップヌードルを食べているということは世間ではあまり評価が高くないようです。なぜなのでしょうか。親からはもっと栄養のことを気にしなさいと言われ、知人からはだらしない奴だと揶揄されます。僕に言わせればカップヌードルにだって卵やネギ、メンマといった”立派な食材”が入ってるし、カップヌードルの会社側としては料理するのがめんどくさいと思う人に食べてほしくて、カップヌードルという商品を提供しているのに、それに頼って何が悪いと思うのです。まあこんな支離滅裂の屁理屈を並べてみましたが、自分を正当化しているだけですね。すみません。前述に「カップヌードルに頼って”しまいます”」とありますね。本音が漏れてしまってますね。そうです。僕はカップヌードルに頼って”しまっている”ダメ人間です。許してください。
僕はカップヌードルが出来上がるまでの3分間が好きです。皆さんはあの3分間をどのように過ごしますか?僕はあの3分間のワクワク感に浸りながらじっとカップヌードルの容器を見つめます。そしてカップヌードルを宇宙に見立てます。お湯を注いだ瞬間、”ビックバン”が起こります。今までずっと眠らされていた卵やネギ、メンマ、肉が踊り出します。卵の素粒子がネギの素粒子とぶつかり合います。メンマの素粒子が肉の素粒子とぶつかり合います。そういった中でダシが形成されていきます。この”3分間の宇宙”を俯瞰的に眺める僕は神です。神である僕がいなければお湯を注ぐことができず、“宇宙”は作られなかったことでしょう。僕は3分間だけ神になれるのです。まさに快感です。これ以上の快感は未だに経験したことがありません。ほかの待ち時間での3分間では神にはなれません。あの密閉された容器とそれを俯瞰できる自分自身との距離感が必須条件であるのです。カップヌードルでなければ神にはなれません。それもカップヌードルが好きな理由のひとつです。いやいや、正確に言うとここでいう神はカップヌードルの工場だろって思う方もいるかもしれませんが、それって本当に正確ですか?その工場って誰によって作られたんですか?その工場を作った人は誰によって作られたんですか?“根源”を神と定義するなら、本当の神って具体的によくわからないものです。そのよくわからないものを人間は”神”という言葉で片付けてしまうのです。だから本当の神などわからない。故に僕が神でもいいのです。誰も間違いを指摘できない。
そうこうしているうちに3分間経ちました。僕は容器の蓋を全開にします。その瞬間密閉空間が無くなり、宇宙は消え、僕は神ではなくなります。ただのダメ人間にもどりました。あとは食べるのみです。ダメ人間の僕は最初に塩分多量のダシを飲み、そして麺をすすっていくのです。