#9 ドアを開けたら小学生が座り込んでいた件
長め
「・・・!」
俺は息を呑んだ。インターホンの下、ちょうどカメラの死角にあたるところに、壁にもたれかかるように女の子が座り込んでいた。女の子はランドセルを背負っていたが、下を向いていて顔は分からない。
だが、俺は彼女が誰だか分かっていた。彼女の傍らには、見覚えのある大きなキャリーバッグがあったから。
「ご、後藤さん・・・?」
「先生・・・」
顔を上げた女の子は、まさに後藤里琴本人であった。
体育座りの姿勢から俺を見上げた里琴の目は、とろんとしているような、どこか焦点の合わないものだった。
なぜここに里琴がいるのだ。さっき、オーディション会場のビルで別れたはずではなかったか。まさかこのマンションに住んでいるのか?母親はどこにいる?俺はどうすればいい?
頭にはいくつものはてなマークが浮かんだが、里琴をこのまま放置するわけにはいかないだろう。
「と、とりあえず、立とうか」
「うん・・・あっ!」
里琴は立ち上がろうとして、そのままお尻を落としてしまった。そして、こちらに弱々しげに手を伸ばす。インターホンの画面に映っていなかったのは、そもそも身長がカメラの画角に届いていなかったということともあれど、立っているだけの元気がなかったからということか。
俺はためらいながらも手を伸ばし、その細く小さい手を握った。
(冷たっ!)
里琴の手は指先まで冷え切っていた。この寒さの中、手袋もつけていなかった。いったい何時間、この寒中にいたのだろうか。よく見ると、ガチガチと歯が鳴っている。
里琴は俺の腕を支えにふらつきながら立ち上がる。
「ちょ・・・」
足元がおぼつかず、里琴は俺に倒れ掛かるように身体を預けてきた。小さな身体を抱きとめると、その軽さに驚く。そして、脇の下に汗を感じる。子どもとはいえ、生身の人間をこんなに間近に感じるのは、絶えて久しいことだった。
「お母さんはどこ?」
「・・・いない」
「いない?電話してみる?」
「・・・嫌」
里琴は首を振った。ケンカでもしたのだろうか。とはいえ、他に解決方法はない。
「じゃあ一人で帰れる?」
「・・・帰れない」
確かに、この状態で、一人で帰るのは難しいかもしれない。
どうする。善人であれば、いったん家に上げて、少し休憩させるかもあしれない。だが、残念ながら俺は善人ではなかった。そんなことをして面倒に巻き込まれるのは御免だ。客観的にみれば、知らない女の子を家に上げているわけで、誘拐犯と変わりないではないか。
「・・・あっ!」
里琴がその場に崩れ落ちそうになり、俺の腕にまた重さが加わる。俺はいよいよ困り果てた。
むしろ、この姿を見られる方がリスクなんじゃないか。正体不明の子どもを連れ込もうとしている現行犯ではないか。この瞬間、隣家のドアが開いたとしたら・・・もう言い逃れはできない。
「いったんウチで休んでから、帰る?」
「・・・うん」
「わかった。じゃあ、少しだけ休んで、すぐ帰ろう。それか、お母さんに迎えに来てもらう。いいね?」
「・・・」
里琴はこくりと頷いたようだった。俺は片方の手でドアを支え、もう片方の手で里琴の肩を抱いて、玄関に招き入れた。
俺は里琴の身体を支え、だが必要以上に身体に触れないように注意しつつ、里琴をソファに座らせた。まったく身体は軽いというのに、妙な汗をかいてしまった。
大きなキャリーケースも玄関に引き入れた。想像以上にずっしりと重い。いったい中には何が入っているのだろう。せいぜいオーディション用の衣装ぐらいだろうと考えていたが、こんな重いものをオーディション会場まで持って来ていたとは。訝しく思ったが、今はそんなことはどうでも良い。
里琴はソファの肘掛けに、崩れるように身をもたれかけさせていた。俺は早くも里琴を家に入れたことを後悔し始めていた。吐かれてはたまらない。
「大丈夫?気分が悪いのか」
「・・・大丈夫。ずっと外にいたから、寒くなっちゃって。・・・ありがとう、先生優しいんだね」
里琴の感謝の言葉に、俺は気まずさを覚えた。
「熱は?」
「・・・わかんない」
里琴は自分のおでこに手をあてた。先程よりは顔色も良くなったようだが、まだ目に生気が完全には戻っていないような気はする。
「・・・熱、あるのかな?自分じゃわからない。先生が手をあててみて」
「あ、ああ・・・」
俺は遠慮しながらも、軽く里琴のおでこに手をあてた。相変わらず冷えた感触はあるが、熱はなさそうだった。だが、このまま放置して体調が悪化すれば、面倒なことになってしまう。
とりあえずエアコンの温度を28度まで上げる。里琴の着ている洋服は冬にしては薄いような気がした。ジャンパーのようなものを羽織ってはいるものの、なんだか生地がペラペラとしているのだ。母親はヒョウ柄の厚手のコートを着ていたというのに。
俺はキッチンに行き、お湯を沸かした。棚の奥からココアを引っ張り出す。幸いにして賞味期限は切れていないようだった。少し砂糖を多めにしてやる。マグカップはいくつか常備していたものの、自分以外が使うのは初めてのことだ。さっきまで飲んでいたコーヒーを捨てて、ついでに自分にもココアを淹れる。
「ありがとう・・・うん、美味しい!」
里琴の顔に笑顔が広がり、生気が戻ってくるのを見て、ほっとした。里琴の体調回復にも安堵したが、ココアが受け入れられたことにも安堵していた。自分の作ったものを誰かに出すのは初めてのことだったので、なんだか不安だったのだ。
「それは良かった。飲み終わったら帰」
そこまで言って、俺は盛大にむせこんだ。
里琴はソファに立て膝で座り、マグカップを膝に置いていた。彼女にとって、それはマグカップの置き場を作る合理的な姿勢だった。だが、大人であればその合理的な姿勢を取るのを避けただろう。なぜなら、その姿勢になることで、スカートの奥に着けている肌着、つまり、いわゆるパンティの白い布地と模様が丸見えになってしまうから。
俺はそれを見て盛大にむせこんだのだ。
「ちょっと先生?大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。ちょっと甘すぎたかな、ははは」
「そんなことなかったけど・・・」
俺は床に吹き出されたココアをティッシュで拭いた。里琴も手伝ってくれたので、おかげで俺は彼女のパンティから目を反らす必要がなくなった。
それにしても具合が悪い。客観的に今の状況は「昼間からブラブラとしている中年男性が、小学生を家に連れ込み、足を開かせて下着を鑑賞している」案件以外の何物でもない。
早く母親に迎えに来させなければ。
「そろそろお母さんに連絡しよう」
「連絡?しなくていいよ」
「そういうわけにはいかない」
「いいってば」
「どうせお母さんとケンカでもしたんだろう?」
「ケンカ?してないよ。連絡しないのは、そもそも連絡をする意味がないから」
「意味がない?どうして?」
「住むから」
「え」
「住むから。ここに」
里琴は「どうしてそんな当たり前のことを聞くのだ」というような表情を浮かべ、ココアを飲み干した。ごちそうさま、とテーブルにマグカップを置く。そして、何食わぬ顔でスマホをいじり始めた。
俺は慌てた。わけがわからない。聞き違いか?いや、里琴は確かに「住む」といった。スムという言葉に別の意味があるのか?あるいは、若者特有の略語で。
「ちょっと待ってくれ。いま、住むって言ったか?」
「うん」
里琴は顔を上げ、笑顔で言った。
「ここに、住むの。先生と一緒に」
「・・・」
「・・・これ見て。お母さんから」
里琴は立ち上がってスマホを突き出した。スマホでは、動画が再生されているようだ。里琴がボリュームを上げた。声に聞き覚えがある。里琴がもう一度動画の頭出しをして、スマホをこちらに渡した。画面には里琴の母が映っていた。オーディション後に会ったときと変わらず、サングラスとヒョウ柄コートを着けている。
里琴の母はこちらに向かって一礼をし、話し始めた。
「里琴ママでーす。先程はありがとうございました。先生が里琴を預かってくれることを受け入れてくださって、とても安心していまーす」
俺は再度ココアを吹き出しそうになった。
預かる?里琴を預かる?それを受け入れた?俺が?は?
こちらに構わず、画面の中で里琴の母は喋り続けていた。
「私、用事で長期間留守にしなければいけなくてぇ。夫ともずーっと前に離婚していてー。残念ながら頼れるような家族や親族もいないんですよー。・・・だから、先生が里琴を預かってくれると言ってくれたときには、本当に嬉しくて。なんだろ、心にぱーって光が差すみたいでした。ホンットーに、ありがとうございまーす」
先程の会話がフラッシュバックした。
(先生ならお願いできると思うんです)
(はあ)
(お願いできますか?)
(ええ、まあ、はい)
(良かった!ありがとうございます!)
あれか?
あの会話が、里琴を預けるということだった?そういうつもりだったのか?で、俺がそれを受諾してしまった?
いや、そんなことはあり得ない。冷静に考えるとそう思う。だが、思い当たる節はそれしかないのだ。
「学校の教科書とかは、ランドセルに入ってまーす。着替えとか、生活に必要なもの?は、キャリーバッグに入っていまーす。なので、ご心配なく!」
俺は反射的に玄関を見た。やたらと大きなキャリーバッグが鎮座ましましている。あれは、生活必需品が入っているのか。だから、あんなに重かったのか。
「3学期の終わりまでには、それか、オーディションに里琴がもし合格したら帰ってきたいなーって思ってます。・・・あ、もし緊急の連絡があれば、里琴に教えている連絡先に連絡してくださいね。ないことを祈っていますけど。では先生、また会うときまで、どうかよろしくおねがいします。バイバーイ。またね」
笑顔で手を振る里琴の母。動画はそこで終わっていた。




