#7 小学生オーディション⑥
橘くんと別れてから、俺はフロア内のトイレに向かった。慣れない立場は緊張する。個室に入り大きなため息をついた。
何となく気になり、スマホで「後藤里琴」を検索してみる。しかし、めぼしい検索結果はヒットしない。過去のドラマすら出てこないということは、やはり芸名を変えたということなのだろう。
俺は続けてドラマ名も検索しようとして、やめた。もう会うこともないかもしれない女の子を調べたところで、何も得るものはない。時間と労力の無駄だ。俺はブラウザを閉じ、個室を出た。
◇
ビルの一階ロビーには、ちょっとしたソファなどが配置してあった。ネット配信で最先端をいく会社らしく、ポップな色使いやデザインが目立つ。
と、そのソファに一人の女の子が座っていることに気づいた。さすがに忘れるべくもない。不相応なほどに大きなキャリーバッグを傍らにそこに座っているのは、里琴当人だった。
目が合うと、里琴にぱっと笑顔が浮かんだ。無理やり作った笑顔ではなく、自然な笑顔に見えた。
「先生!おはようございます!」
「どうも」
里琴はガラガラとキャリーバッグを引いて駆け寄り、深々とお辞儀をした。背中にはランドセルが背負われている。学校の帰りなのだろうか。ご苦労なことだ。
「あの、さっきは、ありがとうございました!」
声がロビーに響き、何人かがこちらを見た。
俺は怯んだ。オーディションのような場であればともかく、アドリブで人に接することは、俺が大いに苦手にするところだった。俺は秋葉原の路上にいるメイドと同じように接しようとした。つまり、素通りだ。
「あ、待ってください!」
メイドのようにはいかなかった。里琴は俺のコートの袖を掴んだ。里琴はこちらをまっすぐに見上げ、足を踏ん張り、俺を歩かせまいとしていた。
改めて近くで見ると、やはり整った顔立ちをしている。少し上がり気味で切れ長な目。眉間のあたりから通った鼻筋。ナチュラルに上がった口角。
なるほどこれはドラマにも出られるはずだ。
橘くんなら、デレデレと相好を崩して里琴の相手をしているだろう。
だが、残念なことに俺はロリコンではない。俺はコートを引き、里琴の手を離させた。
「ごめん、忙しいから」
「話が・・・」
話とは、オーディションに関することだろう。原作者に媚を売ってオーディションを有利に進める。きっとそういう魂胆なのだろうが、それはお門違いというものだ。俺にはオーディション合否決定権限など与えられていないのだから。
と、後ろから女性の声がした。
「里琴?」
「あ!お母さん!」
声のした方を見ると、女性が立っていた。年の頃は三十手前ぐらいだろうか。髪はかなり明るい茶色に染められ、ウェーブが掛かっている。耳にはシャネルのイヤリングがつけられ、特徴的なデザインがこれでもかと自己主張していた。が、それよりも目立つのは彼女が着ていたコートだ。見事なヒョウ柄のロングコートだったのだ。
彼女は大きめのサングラスを少し持ち上げ、こちらを見やった。不審者を見咎めるような気配を感じた。それはそうだろう。我が子が得体のしれない男と一緒にいるのだから。
「や、その、私は・・・」
「この人、先生だよ!オーディションの」
「先生・・・?」
里琴は少し興奮した口調で、ここにいる男は自分が受けたオーディションの原作者なのだと説明した。
「あら。それは・・・お世話になりました」
「いえ、・・・どうも」
俺は軽くお辞儀をした。初対面の人と社交的な会話をするというのも、俺が苦手とすることだった。しかも、最大級に。早くここから逃げ去りたくて、俺は視線を泳がせた。
次の瞬間、俺は手に冷やっこい感触を覚えた。驚いて自分の手を見る。里琴の母親が、俺の手を両手で握っていた。
「あなたが先生なんですね!・・・お会いできて、光栄です」
「あ、あ、あ。ど、どうも」
彼女は俺の手を離すどころか、ぎゅうと力を込めてきた。脇の下に汗が滲むのを感じた。なにせこの数年間、女性のいる店はおろか、仕事以外で女性と会話する機会すらなかったのだ。だが、彼女はそんなことはお構いなしに、俺の手を握り続け、身体をこちらに寄せた。緊張で倒れそうになった。香水の香りが鼻をつく。
「先生。・・・里琴のこと、お願いしてもいいですかぁ?」
「お願い・・・?」
いや、実は私はオーディションの審査員ではありますが、何の権限もないのです、ロリコン編集者が彼の私欲のために私を利用して・・・などと説明するわけにもいかず、俺は曖昧に頷いた。
「先生ならお願いできると思うんです」
「はあ」
「お願いできますか?」
「ええ、まあ、はい」
「良かった!ありがとうございます!」
里琴の母親は俺の手を放し、深々と頭を下げた。ジャラジャラ。ハンドバッグの金具が音を立てた。
「では、私たちはこれで失礼します。里琴、行くわよ」
「はーい。先生、またあとでね!」
里琴は手を振りながらキャリーケースをゴロゴロと引きずって、カツカツとハイヒールを鳴らす母親のあとをついていった。
俺は母親の圧から脱せたことに内心ほっとした。そして、好奇心に満ちた周りの目に気が付き、足早にビルを出た。
それにしても「またあとでね」とは。子どもというのは、ときどき妙な言葉使いをする。
里琴と会うのは早くて2週間後。そして、その機会があるかどうかも分からない。彼女が一次審査を通過するかどうかは、神と、あと俺以外のスタッフのみぞ知るのだ。「あとで」は永遠に来ないかもしれない。
――しかし、このときの俺は知る由もなかった。
「またあとで」が、本当の意味で「またあとで」だったことを。




