#26 夜②
◇
30分後、俺は膨らんだ腹をさすりつつ、空になった牛乳パックを逆さまに干した。しばらくは紙パックすら見たくない。
牛乳を流しに捨ててしまうことも、もちろん考えなくはなかった。普段の俺であれば、間違いなくそうしていただろう。それが合理的だからだ。
だが、今の俺は――合理性だけを追及することに、なぜだか後ろめたさを覚えていた。
「ごめんなさい」
里琴はしおらしく言った。あまり得意じゃない牛乳をコップ数杯も飲んだからだろう、明らかに元気がない。まだ目の前のコップには牛乳が残っている。口の周りにはヒゲのように白い輪っかがついている。
「今度から、学校の提出物とか、宿題とかは必ず報告するようにな」
「そうする」
「それだけじゃないな。ルールを決めないとダメだ」
「ルール?」
「郷に入れば郷に従え、というだろ?この家で守ってもらうルールだ」
俺はノートPCを開いた。テキストエディタを開いて、「ルール」と書く。
「まず、さっきのルール。提出物、宿題はぜんぶ報告すること」
「わかった」
「次。俺は少女誘拐犯にはなりたくない」
「うん?」
「だから、俺と一緒に住んでいるのは秘密にすること。学校では、ここから通っていることは秘密だ」
「うん。リコ、最初からそのつもりだったよ」
「よし。お母さんと、前の家でそのまま暮らしているという設定だ。・・・家庭訪問とかは予定されてないよな?」
「1学期で終わってるから、大丈夫」
続いて、お互いの電話番号とメールアドレスを交換し、地図アプリで学校までの道のりを確認した。俺にとっては人生初となる、異性との電話番号、メアド交換だ。
「あとは、帰宅する時になるべく人目につかないようにすること。」
「わかった。呼び方はどうする?」
「呼び方?」
「今日みたいにお外に一緒に出たとき、先生をどうやって呼べばいいか。お父さんでいい?」
「あ・・・、ああ。それしかないだろう」
「お兄ちゃん、じゃなくていいの?」
里琴はわざと声を高くして「お兄ちゃん」と発音した。
「家ではお兄ちゃんって呼んだ方がいい?そういうのが好きなら、そうするけど。お兄ちゃん!って」
「うるさい。先生でいい」
俺は内心の動揺を悟られないよう、声のトーンを落として言った。まったく、今の小学生はそういう知識をどこで覚えてくるのだろう。きっとネットが悪いのだ。
「リコの呼び方は?」
「ん?」
「いつも「君」とか呼んでるから」
「・・・なんて呼べばいいんだ」
「リコにゃん」
「・・・」
「リコぴょん」
「里琴でいいな。父親っぽいし」
「えー、つまんない」
俺は無視してPCを閉じようとした。
「待って。リコからも先生にルールがあるよ」
「・・・?」
「ご飯は一緒に食べる」
「・・・」
「ダメ?」
「いや、かまわないが」
「やった!」
里琴は喜色満面だった。飯を一緒に食うのがそんなに嬉しいというのか。俺にはよく分からない感情だった。
「ご飯は里琴が作るね!」
「宿題が終わってたらな」
「えー、・・・まあ仕方ないか」
里琴は渋々といった様子で頷いた。俺は今度こそPCを閉じようとした。
「待って!」
「まだあるのか」
「うん。・・・あのね。先生に一緒に寝て欲しいの」
里子はじいっと俺の目を見つめていた。俺はたじろいで目を逸らした。
「夜はベッドで一緒に寝る。これが最後のルール」
「いや、それは」
「ダメだって!昨日みたいにソファで寝てたら、また身体が痛くなるよ。身体を壊しちゃうよ!」
「それは、そうかもしれないが」
「リコ、先生が何で一緒に寝るのを嫌がるか、知ってるよ」
「・・・」
俺はどきりとした。里琴の言葉を待つ。最近の小学生は何でも知っているのか。どこで覚えてくるのか――。
「リコの寝相が悪いから、嫌がってるんでしょ」
「・・・?」
俺は拍子抜けしたが、その表情を勘違いしたのか、里琴は満足げに頷いた。
「やっぱり。なら安心して。たしかに寝相は良くないんだけど、壁を向いて寝ればマシだから」
「お、おう。・・・なら、安心かもな」
「じゃあ決まりね!書いて!夜は一緒に寝ることって」
俺は里琴の勢いに押され、ルールに追記した。相手は子どもだ。何をドキドキしているのか。
寝室には例の「資料」も置いてある。里琴を一人にさせて「資料」を発見されるリスクを考えると、一緒に寝る方が安全ともいえる。いつ何時、夜中に目を覚まして「資料」を発見されるかもしれないわけだし。
「あと、重要なルールを思い出した。仕事部屋を掃除するときは、ものを動かしたりしないこと」
俺はルールの最後にそれを記入し、今度こそPCを閉じた。




