#15 外出
俺が向かったのは、里琴が住んでいたという家だった。
もしかしたら、家を引き払ったというのは事実ではないのかもしれない。それを確かめておきたかった。
それにしても、この時間は仕事をしているはずだったのだが。まったくリズムが狂ってしまった。物書きのような自由業こそ、規則正しい生活が重要なのだ。
耳の奥には、掃除機の音が耳鳴りのように残っている。
一緒に生活など、できるわけがない。とっとと里琴を追い出さなければ。
里琴の家にまだ出入りできるようであれば、無理やりにでも里琴をそこに返そう。俺はそう決心していた。彼女ももう10歳だ。自分の家であれば、親がいなくてもきっと生活できる。
冷たい?
捨て猫のようにそこらに放置するよりは、うんとマシだろう。感謝して欲しいところだ。
あらかじめグーグルマップに打ち込んだ住所は、拍子抜けするほどに近かった。歩いて5分もしないうちに、俺は目的地に到着していた。
目の前には古いアパートがあった。古い、といっても並の古さではない。おそらく築30年は経過しているだろう。排水管や配電盤はドアの横に剥き出しになっており、錆びついた鉄製の階段が据え付けられている。
里琴の家は203号室とのことだった。階段を一段上がるたび、カンカンとレトロな音が鳴る。
203と刻印されたドアの横には洗濯機が置いてあった。ずいぶんと年季が入ったものだ。押しボタンがプラスチックでできている。
待て。洗濯機が置いてあるということは、まだ誰か住んでいるということではないか。俺は一縷の望みを掛けて呼び鈴を押した。キンコーン。これまた古臭い音が鳴る。
応答はない。もう一度押すが、結果は同じだった。ドアの奥には人の気配がないようだ。
「どなた様?」
驚いて声の方を見た。いつの間にか隣の部屋のドアが開き、婆さんが仁王立ちしていた。掃除中なのだろうか。水の入ったバケツを持っている。
「後藤さんなら、もういないよ。金を取り返したいなら、諦めるんだね」
「金・・・?」
婆さんはサンダルの音を響かせてこちらに近づいた。そして俺をジロジロと眺めた。
「ふうん。借金取りじゃなさそうだね」
「は、はい。怪しいものではありません」
後藤家の遠縁にあたるものだと、適当なことを言った。
「実は後藤さんと急に連絡が取れなくなって。心配して、訪ねてみたんです」
「ふん。もう戻って来ないだろうね」
「どうしてですか。この家には誰も住んでいないのですか」
「残念ながらね」
「引っ越されたということでしょうか」
婆さんは首を振った。
「夜逃げさ」
「・・・」
「かなり借金していたみだったたからね。そりゃひどいもんだったよ。毎日借金取りが押しかけて来てて。この通り壁が薄いボロアパートだからね。アタシも毎日うるさくて仕方なかったわ。大声を上げてドアは叩くわ洗濯機は蹴り飛ばすわ」
「それは大変でしたね」
「最近はアタシが水をぶっ掛けて追い返してたんだけどね。ほれ、今もアンタにぶっ掛けるとこだった」
俺は冷や汗をかいていた。実は親族でもない赤の他人だとバレたら、俺もずぶ濡れになる運命だろうか。
「安心しな。アタシは人を見る目だけはあるから。アンタは、悪い人じゃない」
「お褒めにあずかり光栄です・・・。ところで、そんなに借金があったのは、何か事情があったのでしょうか」
「そんなの、決まってる。アンタも親戚なら、あの母親を知っているだろ?」
「はあ」
「毎日夜に出歩いて、服ばっかり買って着飾って、家のことは何もせんで」
ヒョウ柄のコートにサングラス、シャネルのイヤリング。さもありなん。
「アンタみたいな親戚の人を前にして言うのも何だけど、アレは治らんわ。死ぬまで治らん」
「ここを出て、どこに行かれたかは分かりますか?」
「分からんね。夜中にゴソゴソやっとって、次の朝に何もなくなっとったから」
言うと、婆さんは後藤家のドアノブに手を掛けた。
てっきり鍵が閉まっていると思っていたドアは簡単に開き、ギーギーと音を立てた。
俺は玄関口から部屋を見渡した。ところどころ剥がれた壁紙。今にも外れそうな窓枠。家財道具は何もなかった。まだ昼だというのに、部屋全体が薄暗い。建物を見たときから思っていたが、もともと日当たりが良くないようだ。
「何もなくなっとるだろう?もう戻って来んわ、これはな」
「なるほど・・・。ちなみに、彼女には子どもがいたと思うのですが」
俺が里琴の話を切り出すと、婆さんは痛みを耐えるような表情を浮かべた。
「あの子・・・里琴ちゃんは、ほんに可哀想やった」
「・・・」
「アタシにも毎日顔が合うたびに挨拶してくれて、買い物の袋を持って上がってくれたり・・・。何度かうちに上げてご飯も一緒に食べてたんよ。食器洗いや、お掃除までしてくれて。アタシは不思議で不思議で。なんであんな母親にあんな出来た子どもが生まれるのか」
婆さんは涙でも流し出しそうな雰囲気だった。
「里琴ちゃんは、あなたにずいぶんなついていたのですね」
「本当に・・・。あの事件までは」
「あの事件?」
婆さんは、一瞬ためらった表情を浮かべたが、自分から口を開いた。
「あれは一ヶ月ぐらい前だったかな。アタシも里琴ちゃんがいると楽しくてね。一緒にテレビを見たり、おかきを食べたり。笑いの耐えない日々でね・・・。ただ、あの子は自分からウチに来るようなことはなかったんよ。遠慮がちなところがあるからね。ところがある日、あの子が自分からウチを訪問したときがあってね。珍しいもんだから、どうしたんだと思ったのよ。これは何か相談事でもあるんじゃないかって。でも、特に何もなくて、時間が過ぎて」
婆さんは一度言葉を切った。
「ピンと来るものがあってね。やっぱり子どもだから、その辺は隠せないわな。アタシはわざとトイレに立って、ドアの隙間から様子を見ていた」
「・・・」
「あの子がバッグに手を伸ばし、財布を手に取ったところで声を掛けた。間違いであって欲しい、と思ったんだけど」
里琴は泣いて侘びたらしい。
「もちろんアタシは分かっていたんよ。あの子が自分からそんなことをやる子じゃないってことは。誰が黒幕だってこともね。母親が、お金を盗むよう指示したということも」
「里琴ちゃんが、自分でそう言ったのですか」
婆さんは首を振った。
「言わないんよ。あくまで自分がお小遣いが欲しくてやったって」
「・・・」
「マインドなんとか?ってやつやね。洗脳。ほれ「万引き家族」って映画と同じじゃ。・・・里琴ちゃんには「お母さんの指示なんかに従う必要はない。今回のことは気にしないから、また来たくなったら来ていいから。里琴ちゃんは悪くないから」って言うたんだけど」
その後、里琴が婆さんの家を訪ねることはなかったという。
「アタシは心配でね・・・あの子、整った顔立ちをしているでしょう?もうちょっと年齢がいけば、母親に働かされると思うんよ」
「働かされる・・・それは、いわゆる違法な店とかで」
「そう。そこで働かされて、その稼いだお金を母親に渡すようになる」
「そんな酷いことが・・・」
「いつの時代もそういう家庭はあるんよ。お兄ちゃんは知らないかもしれんけど。この世界の、吹けば飛ぶような片隅にはね」
婆さんは凝った言い回しをして、俺の腕を握った。意外と強い力だった。
「アンタは遠縁いうてたね。もし、リコちゃんをどこかで見つけたら、あの母親の元に戻したらいけんよ。あの子は・・・どこかちゃんとした、幸せな場所で暮らすのがええのよ」
「幸せな場所・・・」
「あの子はええ子。人のことを考えてあげられる、人を喜ばせることが好きな純粋な子。・・・どうか、あの子を救ってあげてください。お願いします!」
婆さんはもともと曲がった腰をさらに曲げ、頭を下げた。




