命名
土曜日の昼下がり、俺は父の代からお世話になっているバイク屋にきていた。
「一応問題はないと思うけど、なにぶん二十年選手だ。タイヤも交換したばかりで皮むきもしなくちゃだからな、あんまり無茶な運転はしないようにね」
「はい、ありがとうございます」
「しかし時間が経つのは早いねえ、あんなに小さかった平太くんがこんなに大きくなるんだから」
バイク屋の店長と雑談をして、目の前にある車体の鍵が手渡される。
父から兄へ、兄から俺へと引き継がれた中型のバイク。今日この日のためにバイトを頑張ってきたこともあり感慨深い。
譲り受けたバイクは一切改造を施していないネイキッド型。一昔前なら教習所でよく見かけていたらしい車体も、今では骨董品の風格だ。
赤いタンクを撫で、鍵を差す。
「それじゃあ気を付けてね」
「お世話になりました」
ヘルメット、グローブの具合を再度確認しバイクにまたがる。
子供のころ、父に乗せてもらった時とは違い今日は一人だ。緊張を解くことなく鉄馬を発進させ道路に出る。
教習所で習った通り、エンジンの回転数に合わせてギアを上げていく。加速していく視界と風に心地良さを感じながらも、周囲への警戒は怠らず路上を駆けていく。
本音を言えば峠にでも繰り出したいところではあるが、残念ながら今日はバイトが入っている。なのでこのままバイト先に向かうことにする。
朝の新聞配達とは違い、守邦駅に近いバイト先は全国チェーンのドーナツ屋、マスタードーナツである。
駐輪場にバイクを停め、従業員用の入り口から入り、すれ違う従業員と挨拶を交わしつつロッカーへ向かう。
着替えを済ませて時計を見れば仕事が始まる時間まで余裕がある。特にすることはないため、端末を取り出すとメッセージアプリの通知が入っていた。
『今夜空いてる?』
陽代美からのメッセージだ。
バイトが終わるのは午後九時、この前彼女と会った時間帯だが、また遅い時間に会うのは気が引ける。
『ごめん 今日はバイトが終わるの九時過ぎなんだ』
『いいよ』
本気か。
最近思うのだが我らが女王様は危機感を覚えたほうがいい。一応俺も男なわけで、間違いを起こす気なんて毛頭ないが、少し心配になる。
まだ始業時刻前だが、俺は急いで店内に向かい店長に話しかける。
「おはようございます。店長、今日のシフトは九時までなんですけど八時に変更することってできませんか?」
「あら、彼女とデート? ムカつくわね」
「……違います。知り合いから誘われて」
「そ? まあいいわよ。菊地くんがそんなこと頼むなんて珍しいもんね」
「ありがとうございます」
店長に一礼し足早にロッカールームまで戻り陽代美にメッセージを返す。
どうしてこんな事をしているのか、自分でもわからない。
『今日は八時で終われるみたい』
『わかった またこの前の店に来てもらえる?』
『了解』
メッセージのやり取りを済ませ手を洗いに洗面所へ向かう。
我ながら単純だ。陽代美とまた二人で会える、そう思うだけで仕事を頑張ろうとする自分に苦笑する。いや、正確には表情は変わらない。なにせ先程話した店長から表情筋が死んでいると言われているのだから、鏡に写る自分は無愛想そのものだ。
仕事の時間、意識を切り替えよう。
ドーナツ屋において俺の仕事は掃除と運搬が大半を占める。調理は社内規定により資格をもった人物しかできない。
ヘルプで接客や店内のイートインスペースの片付けをしたりするが、俺に任された仕事は基本力仕事だ。女性ばかりの職場なので少ない男手は必然的に力仕事がまわされる。
倉庫にある原料袋を担ぎ店内の調理場まで運び入れる。およそ十キロの袋を担ぎ上げるのも慣れたものだ、それに新聞の束に比べれば持ち運びも容易だ。
運搬が終われば店内にある排水溝の掃除、あとは皿などを食洗器にいれたり、店長に指示された仕事をこなしていく。
途中で休憩もあり、まかないとして店内にある食べ物は好きに食べていいのだが、今日は遠慮をしておく。陽代美が以前食べていたハンバーグは実に美味しそうだった。晩御飯は彼女が食べていたハンバーグを頼んでみようか、そんなことを考えながらバイトに精を出す。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
バイトが終わり、急いで着替えを済ませてバイクに跨り走り出す。
昼間とは違い、視界の悪い道路を慎重に進み、目的の喫茶店の前にバイクをつける。
陽代美はもう来ているのだろうか。そんなことを考えながら店内に入ると、以前と同様明るい店内が俺を出迎えた。
「菊地くん、こっち」と、テーブル席に座っていた陽代美から話しかけられ向かいに座る。
以前とは違い、白いワンピースを身に纏った彼女はどこかのお嬢様にも見える。
そして今日はばっちりと化粧をしているのか、学校で見る彼女よりも一段と美しく思える。
「ごめん、遅くなった」
「ううん、時間通りだよ。それよりご飯はもう食べた?」
「いや、まだ。今日は俺もここで食べてみようかなって」
「そうなんだ、じゃあ一緒に頼も。はい、メニュー」
陽代美からメニューを渡され目を通してみると、愕然する。
高い、外食は普段牛丼屋にてワンコインで済ませていた俺は、高校生に似つかわしくない値段設定に思わず困惑する。
「いいよ、今日は昨日のお礼もかねて私が出すから」
「いや、大丈夫。俺もバイトで稼いでいるから。ええと、陽代美さんと同じものにするよ」
「そう? じゃあハンバーグセット二つだね」
そして彼女は叔母だという店長にハンバーグセットを二つ注文する。そして厨房の方で調理が始まり、香ばしい匂いが店内を漂い自然と喉が鳴る。
「ねえ菊地くん、ちょっと質問してもいいかな?」
「うん、なに?」
「昨日会った千堂さんって、菊地くんとはどういう関係なの? ああいう、悪っぽい人とは接点がなさそうっていうか、菊地くんのイメージとは、少し違うかなっていうか……」
言葉を濁らせる女王様。
そして俺もあまり知られたくはない事柄なだけに下を向いてしまい、沈黙が辺りを漂う。
「話したくないなら、別にいいから……」
顔を上げれば、またしても眉を八の字にしている陽代美を見て罪悪感が募る。
話したくはない、けれどそれ以上に彼女の困った顔は見たくはない。
頭を振って覚悟を決める。俺と同じ中学から守邦高校に進学した生徒は少なからずいる、彼女がその気になれば知られてしまう過去だ。
どうせなら俺の口から話した方が幾分かいいだろう。
「俺、中学の頃は陸上部にいたんだ」
「千堂さんは陸上部の先輩?」
「いや、先輩は確か野球部だったはず。それで先輩と知り合ったのは俺が二年の三学期、つまり先輩が卒業をする直前だったんだ」
「……なにか、あったの?」
「うん……少し長くなるけど、いいかな?」
俺の言葉に頷く陽代美を見て、意を決し自身の過去を話し始めた。
中学二年生の頃、陸上部に所属し主将を務めていた。
記録がいいからと顧問に推薦された主将も、慣れないながらそれなりにこなしていたと思う。そして二年の三学期に問題が発生する。
部活も終わり、一人居残り練習をしていた時、外部からきた大学生のコーチが女子陸上部の後輩に手を出そうとしていた場面に出くわした。
嫌がる後輩を確認した俺は、急いで二人の間に割って入り、コーチをしていた男は悪態をつきつつもその場は収まったかに見えた。
しかし翌日、コーチは俺から暴力を振るわれたと学校側に訴え出た。教師陣に呼び出された俺は当然反論もしたが『俺は何もしていない、女生徒からは誘惑をされていただけ』とコーチは返してきた。
そして運の悪いことに大学生のコーチは校長の息子であり、学校側で俺の味方をしてくれるのは顧問の先生だけになった。
それから学校内ではコーチに暴力を振るった生徒の烙印が押され、俺は陸上部を自らの意思で退部した。
「なによ……それ……」
向かいに座る陽代美が、怒りを露にした表情を見せる。
少し、驚いた。こんなにも彼女が怒る姿を初めて見た。先程までは八の字にしていた眉も、今では吊り上がり怒り心頭といった面持ちだ。
「もう昔の話だから……」
「――ッ。それで、菊地くんはその後、どうしたの?」
「どうって言われても、周りから腫れ物扱いって言うのかな。中学卒業までは極力一人で過ごしたよ」
「そう、だったんだ。でも千堂さんとの関係は?」
「陸上部の後輩が千堂先輩の妹だったんだ」
「……そっか。なるほどね」
憐れんで欲しいわけではない。
問題が起きた後も、顧問の先生や友人、卒業前の千堂先輩は俺の味方をしてくれた。
しかし同じ陸上部にいた生徒たちからは、途中で主将を降りるなんてはた迷惑なやつと言われ距離を置かれた。
陸上部のない守邦高校を選んだのも、それが理由だ。最初は走るだけでも楽しかった陸上も、言われた通りに走ることに嫌気が差し始めた時でもあったから、今考えればちょうどよかったのかもしれない。
ハンバーグセットが運ばれ食事を始める。
向かいに座る陽代美は何かを話したそうにしてはいるが、俺もこんな時どんな話題を提供すればいいのかわからない。
こんな時、世の中の男子高校生はどんな話をしたりするのだろう、と考えているうちに食事を終えてしまった。
ハンバーグ自体はとても美味しくて、分厚い塊にナイフを刺せば肉汁が溢れ、口に運べばホロッと崩れるやわらかさ。今まで外食で食べたハンバーグの中では一番だった。
そして向かいに座る陽代美は、またしてもブロッコリーと睨み合う。
「ブロッコリー、苦手なのか?」
「……大丈夫、ちゃんと食べるから」
そう宣言した陽代美はブロッコリーを口に運び、目を瞑ったまま咀嚼をする。
俺も昔、母から『好き嫌いをしていたら大きくなれないわよ』と言われ育っただけに、彼女の頑張りに心の中で称賛を送った。
食後のお茶が置かれ、一息ついたところで陽代美から提案が持ち掛けられる。
「ねえ菊地くん、私と友達になろ」
「……どうして、そんな急に?」
「ずっと不思議だったんだ、どうして菊地くんはクラスで孤立しているのか。でもさっきの話を訊いて、なんとなくわかったから」
「別に、同情して欲しくて話をしたわけじゃ――」
「うん、もう昔の話なんでしょ? だったらいいじゃない、新しく友達をつくったって。それに、私の目標なんだ。クラスの皆で仲良くするの」
女王様の言葉が、わからない。
陽代美莉愛はスクールカーストの頂点であり、何不自由ない学校生活を送っているのだと思っていた。
「皆で仲良くって、具体的にはどうするつもりなの?」
「え、そのままの意味だけど。おかしいかな」
正直に言えば変だ。
まるで小学生のような目標を聞かされ戸惑っていると、陽代美が背筋を伸ばす。
「私ね、小学生の頃両親が離婚したの。それまではこのあたりに住んでたんだけど、一時期お母さんと一緒に別の場所に引っ越したの。でも中学に上がった頃に再婚して、また守邦市に戻ってきたんだ」
「え? ああ、うん」
「でもね、私が転校した学校って少し荒れていて。学級崩壊っていえばいいのかな、とにかく学校の行事とかも滅茶苦茶で、全然楽しくなかったの。だからね、高校生になったら楽しい学校生活が送れたらって思ってたんだ」
陽代美の印象が、少し変わった。
彼女が口にした願いは幼いようでいて、信念のある目的に聞こえる。
そして目的の障害となるのがクラスでも孤立をしている俺なのだろう。彼女の家庭環境については色々とありそうだが、この場でその話に触れるべきではない。
向かいに座る陽代美はじっと俺を見つめ答えを待っている。だとすれば答えは一つ、友達になるくらいなら別にいいだろう。
「うん、わかった。俺でよければだけど」
「ありがと、それじゃあ菊地くんって何かあだ名とかある? あだ名で呼んだほうが友達っぽいし」
「あだ名って言えるかわからないけど、隣のクラスの友達からは『へえちゃん』って呼ばれてるかな」
「ううん、ちょっと子供っぽいかな。菊地平太だから……『キク』ってどうかな? なんかお洒落じゃない?」
俺は頷き、新たなあだ名が命名された。
どうして彼女が俺をあだ名で呼ぶことに嬉しそうな顔をするのかわからない。それでも今日一番の笑顔が見られたのでよしとしよう。
「キクも私のこと好きに呼んでいいから」
「それじゃあ……陽代美って呼び捨てでいい?」
「うん、いいよ。それでね、キク」
「なに?」
「またお願いしたいことがあるの」
もしもこの時、表情筋が死んでいなければ苦笑の一つでもしていただろう。
それから陽代美は、またしても別の生徒から相談を受けたことを明かし、耳を傾ける。
「うん、わかった。二人から話を訊いてみるよ」
「ありがとう、私じゃ……怖がらせてしまうかもしれないから」
今回の相談は前回と違い、大人しい生徒二人が対象なので幾分か気は楽だ。しかし今回も解決案はすぐには思い浮かばない。
互いにお茶を飲み干し席を立つ、支払いを済ませ店の外に出れば陽代美が俺のバイクに興味を示す。
「キク、バイク乗るんだ」
「うん、今日引き取りに行ったばかりなんだけど」
「ふうん。ねえ、今度後ろに乗せてくれない?」
それは、少し困る。
女子をバイクの後ろに乗せるなんて、兄に話せば嫉妬をされるかもしれないが、バイクとは危険な乗り物だ。教習所では他人を車やバイクに乗せることは、命を預かることと同じだと習っている。
どうにか断りたい。そこで一つの妙案が思い浮かぶ。
「悪いけど、法律的に無理なんだ。二輪は免許の取得後一年間は二人乗りできないから」
「そうなんだ、キクが免許をとったのはいつ頃なの?」
「確か……去年の七月かな」
「じゃあ再来月には乗れるんだね。楽しみだなあ」
墓穴を掘った。
法律を盾にすれば諦めてくれるかと思いきや、期待をするように先の話をする陽代美。こうなっては仕方がない、少しでもバイクの運転に慣れておくことにしよう。
どうやら、我らが女王様は俺に期待してくれているようだ。