犯人特定
端末のアラームを止め身体を起こす。時刻は午前三時四十五分、いつも通りの起床時刻だ。
ベッドから降り手早く着替えを済ませ、脚を忍ばせ玄関へと向かう。するとそこには、いつものように白黒まだら模様の猫がいた。
「いってきます、バルバトス」
飼い猫であるバルバトスの頭を撫でて靴を履き、玄関を静かに出て走りだす。
少ない街灯を頼りに街を駆ける、普通の人は寝静まっている時間でも俺にとっては仕事の時間だ。
「お、来たな平太。今日も頼むぜっ」
「おはようございます、いってきます」
所長から新聞の束を二つ預かり、肩掛けに入れて再び暗闇の街へと走り出す。
新聞配達のアルバイトを初めて早一年。最初は誤配達なんかしたりして怒られることもあったが、家の名前ではなく住所で配達先を覚えるようになった今では、新規のお客がいない限り順路表を見ずに配達ができている。
俺が住む守邦市は地方都市とベッドタウンの中間に位置する地域で駅前はそこそこ栄えてはいるが、少し中心街を離れれば田んぼや畑があったりするような場所でもある。
本来新聞配達のアルバイトをするには原付の免許が必要だったりするのだが、所長と父親が知り合いだということもあり、俺は走って新聞を配達することが許されている。
「はっ……はっ……」
中学の頃、陸上部だった経験を生かし、一定の息遣いで身体が温まるのを感じながら所定のポストへと新聞を投函していく。
普通二輪の免許も原付の免許も持ってはいるが、俺が担当する配達箇所は入り組んでいるため自分の脚で走ったほうが断然速い。
「あと半分、いってこいっ」
「うっす」
空になった肩掛けに、用意されていた新聞の束を補充をして、次の担当区域にむけて走り出す。
担当している区域は販売店を中心に、北から始まり西の順路を辿って販売店へ一度戻る。そして新聞を補充したら南に向かって駆けだし、東の順路を使って販売店まで戻っていく。
その道中、昨夜に陽代美莉愛と話した喫茶店を通り過ぎたことに気が付く。
もしかすると彼女もこの近くに住んでいるのだろうか、となれば彼女はまだ眠っている頃合いなのだろうか。
女子の寝姿を妄想しかけたところで雑念を振り払うかのように脚に力を込めてひた走る。今は仕事中だ、集中しよう。
「やあ、おはよう」
「おはようございますっ」
家の前にいた恰幅のいい中年男性に新聞を直接渡し走り去る。人と話すことが苦手でも挨拶くらいは人並みにできるようになれと、父からの教えを今でも俺は守っている。
最後の新聞を配達し終わり、営業所に戻ると配達を終えた他の従業員や所長が雑談をしていた。
「お疲れさん、しっかし相変わらずスゲぇ体力してんな平太は。たったの一時間半で百五十部も配達できるんだから」
「しかも走ってだもんな、羨ましいね。若いってのは」
「いえ……もう、慣れたんで」
営業所で一人だけ汗だくになった俺を出迎えてくれた気のいい人生の先輩たち。
夕方のバイトとは違って、男だらけの職場は幾分か気が楽に感じる。
「おおっし、皆お疲れさん。そんじゃあ夕刊の配達がある者は遅刻するなよ」と所長が言って配達員はそれぞれの帰路につく。
空になった肩掛けを返し、俺はまた走って自宅を目指す。
帰りは走る必要もないのだが、汗だくの身体が冷えるのを防ぐためにもまた走る。
陸上部に居た頃は走ることを強制させられた、そして走ることを認められなくなった。その時に比べれば、順路はあるものの自由に走れる新聞配達は開放感があるので気は楽だ。
帰宅しシャワーを浴びて鏡の前に立つ。
髪は黒くて短髪。顔は夕方のバイト先の店長から言われた通り表情筋が死んでいる、というか感情の起伏があまりないだけなのだが。四月に実施された身体測定では身長は百八十センチ、体重七十キロ。背丈は高いほうだが、学校では俺より身長の高い生徒はいくらでもいる。
筋肉は中学の頃に比べればいくらかやせ細ってみえる。筋トレなんてしていないのだから当然だ。
身体を拭いて着替え自室に戻れば、隣の部屋で兄がゲームでもしているのかキーボードを叩く音がする。
時刻は午前六時、アラームをセットし直し俺は再び眠りについた。
午前七時半、部屋を出て居間に向かえばいつも通り母親が用意してくれていた朝食を温め直す。両親は共働きで朝早くに家を出る。子供のころは寂しくも感じたが、今ではこれが菊地家の日常だ。
歯を磨き制服に着替えて玄関に向かえば、餌をたいらげて満腹になった眠そうな飼い猫の頭を再び撫でる。
「いってきます、バルバトス」
五月の初旬、澄み渡る空を眺めつつ俺が通う県立守邦高等学校へ歩いて向かう。
守邦高校は全国でも数少ないマンモス校で一学年十クラスあり、生徒数は千人を超える。部活動も中々に盛んで、広いグラウンドでは朝練を終えた運動部がミーティングをしているようだ。
下駄箱で上履きに履き替えて二年C組へ向かう。
「きゃははっ、パンツみえてっし撮り直しじゃん」
廊下でSNS投稿用の動画を撮影しているのか、廊下で暴れまわる女子たちを華麗に躱して教室を目指す。笑い転げる女子たちのスカートは捲れ、パンチラならぬパンツがもろに見えたりするだが、もはや守邦高校の日常風景だ。
一年生の頃はそんな光景にどぎまぎもしたのだが、一年も通っていれば流石に慣れる。数年前に古い慣習にとらわれないために新しく打ち立てられた『自由』という校訓をはき違えた生徒が多く通うのが守邦高校だ。当然、偏差値も低い。
教室の扉を開き、中を見渡せばいつもの風景が拡がる。
女子は自分の机に化粧品を並べ立て、運動部の男子は馬鹿話に花を咲かせる。その誰もが制服を着崩したり、運動用のジャージに身を纏ったりで高校生としての統一感は皆無といえる。
そんな学校で制服を着崩さない俺は、教室内に入っても誰に挨拶をすることなく自分の席に着く。
そしていつものように端末を取り出しHRまで時間を潰す。しかし今日は違う。
昨夜、陽代美から送られてきた二枚の画像を眺めつつ思考を巡らせる。陽代美莉愛に相談をした鈴木と田中を見れば、ギャルグループの一つで談笑をしているようだ。
二年C組には明確に分かれたギャルグループが三つ存在する。
一つは陽代美がいるグループでこのクラスでも中心的な人物たちが揃うギャル五人衆。彼女たちを頂点とするなら鈴木と田中が属するグループはスクールカーストの中でも中位の位置にある。
ここで問題になるのが、誰が鈴木と田中の名前をネット上で暴露したかなのだが、あまりにも候補が多すぎる。
同じクラスの人間もさることながら、他のクラスにも彼女たちの知り合いはいるだろうし学校外まで含めればきりがない。
そこで俺は昨夜、兄に相談を持ち掛けた。もし兄の助言がなければ途方に暮れていただろう。
「おはよう、陽代美さん」
「うん、おはよう」
そこへ二年C組の女王、陽代美莉愛の登場だ。
彼女が教室内に姿を現せば、多くの生徒が彼女へ朝の挨拶をする。そしていつものように自分の席へと向かう、と思いきや。
「おはよう、菊地くん」
「う、うん、おはよう」
突然のことに慌てたが、陽代美莉愛がわざわざ教室の窓際に座る俺のところまで来て挨拶をしたのだ。
教室内が少し静かになる。これまで陽代美が俺に向かって朝の挨拶をするなんて異例の出来事だ。昨夜の相談を知らない他の生徒は当然疑問に思うだろう。
そして俺に挨拶をした陽代美は、別の男子のところまで歩き立ち止まる。
「酒井、ちょっといい」
「な、なに、陽代美さん」
「D組の子がそろそろ返事を聞かせてほしいって」
「あ……うん、わかった」
陽代美はそれだけを言い残し自身の席へと向かった。
話しかけられたサッカー部の酒井くんは頭を掻き、周囲の男子たちからは、からかわれるように小突かれる。
彼女が女王と呼ばれる由縁だ。
陽代美莉愛は覇王でもお姫様でもなく、誰にでも公平に物言いができる。だからこそ女王様と称されるのだ。人との距離を一定に保とうとする俺とは大違い。
そして、教室内を目配せした後に再びスマホの画面に視線を落とす。
見つけた。
女王様が登校して、一連の流れに気を取られることなく、鈴木と田中を気にかけている人物の姿を。どうやら兄から助言された内容は確かだったようだ。
しかし、いきなり俺みたいなスクールカースト底辺から話しかけられれば警戒をされる。放課後まで待ち、一対一の状況で真意を問いただすほうがいいだろう。
そしてチャイムが鳴り、二年C組の担任が扉を豪快に開け放つ。
「おるぁっ、廊下でタバコの匂いがしたぞォ、いい度胸してんなぁオイっ」
二年C組名物、雛形先生。通称ひなちゃん先生の登場である。
雛形先生は守邦高校のOGであり、教師だというのに髪は栗毛色に染まっていて、昔のドラマに影響されたせいか赤色のジャージを着ていることがほとんどだ。ちなみに二十代後半で彼氏はいない。
「いいかぁ、校内でタバコを吸ってるところなんて見たら即効で停学だかんな。わかってんのかぁ」
「ひなちゃん先生、アタシらタバコとか吸わんしぃ、つか時代遅れぇ」
数年前、校内全面禁煙に伴い禁煙を始めた雛形先生だが、街中で度々タバコを吸っている場面を目撃され、一部の女子たちから、笑い者にされる日常風景。
少しばかり残念な一面もご愛嬌。生徒たちからは人気のある先生だ。
「それならいいんだよっ、日直、号令っ」
「起立っ」
そして朝のHRが始まる。
そんな中、俺は放課後どうやって件の生徒に近寄るか考えを纏めていく。