女王様との謁見
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
俺の名前は菊地平太。
五月の大型連休が明け、学校が終わりバイト先へ向かおうとしたころに、携帯を教室に忘れていたことに気が付いた。
うっかりしていた。
来た道を戻り、二年の教室前まで戻ってきたあたりで、足を止める。
『んっ……ダメだってば』
『いいじゃん……誰も来ないって』
教室の扉を前にして聴こえてきた男女の艶っぽい声。
最悪だ、いくら自由を象徴とする学校でも放課後の教室で盛っていいわけではない。
だが、ここで俺がいきなり扉を開けば教室内にいる二人は怪訝な顔をするだろう、それにクラスで邪魔者扱いなんてされれば俺の平穏な高校生活が崩壊するかもしれない。
しかし、このまま退散しては携帯端末を教室に残したままだ。友人がほとんどいない俺でも、連絡を取る手段や暇をつぶせる端末が一晩でも手元にないのは不安が残る。
扉から数歩後退し、どうしたものかと考えあぐねていると、後ろから声をかけられる。
「菊地くん、どうしたの?」
振り返れば、同じクラス二年C組の頂点にたつ、陽代美莉愛がこちらに向かって歩いてきていた。
廊下の窓から差し込む夕日が彼女を照らし、金と銀の中間にあるような髪色が輝いているかのように錯覚する。彼女は腰のあたりまで伸びた長髪をなびかせながら、一人の美少女は俺の前で立ち止まった。
透けるような乳白色の肌。整った鼻梁に目尻の上がった鋭い目つきに気圧されてしまいそうになりながらも彼女の問いに応える。
「その、ちょっと、教室に忘れ物をして」
「そうなんだ、私も忘れ物をしたんだけど……入らないの?」
そう彼女が言ったところで再び教室から男女の声が漏れてくる。
これから本番が始まりそうな空気を察し、俺が頭をかいていると陽代美莉愛は大きく溜息をついた。
「わかった……私に任せて」
そして陽代美は俺の横を通り過ぎ、教室の扉を力強く開け放つ。
「ちょっといい、忘れ物を取りたいんだけど」
一切の躊躇なく、彼女は教室の扉を開き仁王立ちをしていた。
その姿は勇ましく、笑うことも嘲ることもせずに彼女は教室内にいた男女に言い放つ。そんな彼女の行動に、思わずひれ伏してしまいそうな衝動に駆られながらも、耳を澄ませば教室内から男女の声が聴こえる。
『ちょ……ヤバっ』
『ご、ごめんね陽代美さん。ウチらすぐに帰るからっ』
教室から慌ただしく出ていこうとした二人から咄嗟に目を逸らす。知らないほうがいいこともある。
「菊地くん、もういいよ」
「あ、うん……」
礼の一つでも言えばよかった。気が動転していたせいもあるのだろうが、突発的な出来事に俺は弱い。
教室に入る彼女の後を追い、俺は自分の席へ忘れ物を取りに行く。
グラウンドが見える窓際で前から三番目、机の中に手を入れ携帯端末を取り出す。
同じく忘れ物をした陽代美莉愛の席はこのクラスで一番後ろの真ん中、授業中であればクラス全体を見渡せる場所だ。女王の名にふさわしい位置にある。
そして、彼女もまた俺と同じく机の中から一つの端末を取り出しこちらへ振り返る。
「ねえ、菊地くん。そういえば私、菊地くんの連絡先を知らないんだけど」
当然だ。なぜなら俺はクラスメイトの連絡先を誰一人として知らないからだ。
隣のクラスにいる学校唯一の友人から、メッセージアプリだけは取っておくように言われたが、結局クラスの誰かと連絡先を交換することはなかった。
「ID、教えてもらえる?」
「あ……ああ、うん」
つかつかと俺の前まで来た彼女に促され、端末のアプリを起動した。
しかし、使い方がいまいちわからない。友人と何回かメッセージのやり取りをしたくらいで、アプリを起動するのも久しぶりだ。
このクラスの女王を前にして、あれこれと端末の画面を操作するも、どうやって連絡先を交換するのかがわからない。
「どうしたの?」
「……ごめん、いまいち使い方がわからなくて」
「そう……それなら私がやるから」と、彼女は手を差し出す。
俺は端末の操作を諦め、彼女に渡すと二つの端末を慣れた手つきで扱い始める。
「はい、これ。私の連絡先ね」
「あ、ありがとう」
端末を返され画面を覗くと『莉愛』と記された連絡先が追加されていた。
「菊地くん、今日はこのあと予定ある?」
「うん、このあとバイトに行くけど」
「そうなんだ、バイトが終わるのは何時ごろ?」
「今日は……シフトに入っている人が多かったから八時には終わるかな。普段は九時までだけど」
「そう……それならバイトが終わりそうな時間帯にメッセージ送るから」と、彼女は言い残し教室から去っていった。
そして、バイトが終わり家に戻った時に携帯を確認すれば、一件のメッセージが届いていた。
『相談したいことがあるの』
メッセージの送り主は陽代美莉愛。俺が通う守邦高校でスクールカーストでも最上位に君臨する人物が、どうして平民である俺に相談を持ち掛けるのだろうか。
俺に対して相談があるなんて理由がわからない、陽代美莉愛はクラスでも常に取り巻きがいる人物だ。相談なら別の誰かでも構わないはずなのに、どうして俺なんかに、と考えていると画面上に『莉愛』からの着信が入る。
慌てて着信に出ようとするも、画面には電話番号の使用許可がどうとかの確認が記され、通話が切断されてしまった。
『忙しい?』と追撃のメッセージがきて、手に嫌な汗がにじむ。
彼女はクラスの中心人物だ。
普段人と話さない俺でも彼女がどういった人物かは噂程度には知っている。
陽代美は学校でも随一の美人だ。身長も女子の中では高いほうで容姿端麗という言葉がよく似合う。しかし、彼女が女王と呼ばれる理由は別にある。
どんなに人が言いにくいことでも彼女は堂々と言い放つ。下手をすればいじめの原因になりかねないような行動だが、彼女の下す決断は見事にその場を収めてしまう。
そんな陽代美をいつからか、周囲からは女王様と呼ばれたりしていた。
彼女を怒らせてはいけない。平和な高校生活を送るためにも俺は慌ててメッセージを送った。
『ごめん 通話の設定ができていなかったです』
『大丈夫』
『相談ってなに?』
『できれば直接話したい 今から会える?』
時刻を確認すれば午後九時に差し掛かろうとしている頃合い。
こんな時間に会おうだなんて、一体何を考えているのか。思考を巡らしていると再び彼女からメッセージが届き、そこにはどこかの店の情報が載ったURLが記されている。
『今この店にいるんだけど これる?』
女王の名に恥じぬ強引さだ。しかし、高校に入って初めての女子からのお誘い。
少し戸惑いながらも『了解 すぐに向かう』と返信して俺は部屋を出た。
五月の初旬、これから梅雨になり夏に向かって気温が上がっていく季節だが夜はまだ肌寒い。父から貰った鯉と桜吹雪があしらわれたスカジャンを着て、兄から自転車を借りて指定された店へと向かう。
自転車を漕いで十五分程で店先まで到着した。だが店に入るのには躊躇をしてしまう。
ぱっと見てわかるくらいの大人のお店。少し霞んだ店の小窓から中を覗けば、カウンター席の後ろにはお酒の瓶のような物が散見する。
未成年が入っていい店なのか、自転車を店先に停めつつ懐疑の念を抱いていると再びメッセージが届く。
『テーブル席にいる』
どうやら彼女からは俺の姿が確認できているらしく、俺は意を決し、店の扉を開いた。
店内は明るく、机や椅子がどれも木目調で統一されており、落ち着いた店だと感じる。
店内に入ってゆっくりと歩を進めているとテーブル席の一つから声が掛かる。
「菊地くん、こっち」