第三節:フリーエージェント、少女のすすり泣く声に怒りを覚える。
ーーー悪くはないな。
シャワーを浴びて出て来たみゃーに対して、リビングの椅子に座ったトウガが抱いた印象はそれだった。
彼パジャマ、というのは実物を見ると言葉以上の破壊力を持っているようだ。
「に、似合いますか?」
「目の毒な程度にはな。そちらの部屋を少し片付けて布団を敷いた」
トウガは、自分のブカブカのパジャマを着てハンドタオルを首にかけ、口もとに両手を当てている彼女から目をそらした。
「完全に片付けるのはまた明日になるが、今日はそちらで寝てくれ。新しい歯ブラシなどは洗面所の棚にあるから好きなものを使え」
「……」
「なんだ?」
ミネラルウォーターをコップに注いで渡すと、みゃーは小さく首を横に振りながらおずおずと言った。
「トウガさんって気が利きますよね。私、言われるまで歯ブラシないことに気づきませんでした」
「他にもクシやドライヤーくらいはあるが、それ以上のものはないぞ。必要なら自分で揃えろ」
「お金もあんまりないんですが……ここまでしてもらってもいいんでしょうか?」
「養育費は振り込まれているらしいからな」
そこまで言って、トウガはダイニングテーブルをトントン、と指先で叩いた。
「座れ。……あらためて、君の体に関する質問がしたい」
「胸のサイズはBです。あまり大きくなくてごめんなさい」
「誰もそんなことは聞いていない。というか口にするな」
彼女の恥じらいポイントがイマイチ分からない。
水のコップを手にしたまま椅子に腰かけた彼女に、トウガはため息を吐いてから話の続きを切り出した。
「何か、今までの日常生活で違和感を覚えたことはなかったか? あるいは、今回の異変が起こるより前に【異界の門】と接したことは本当にないのか?」
「どういう意味でしょう?」
「たった数回、門に触れただけなら、君の変化は急激過ぎるんだ」
「え?」
トウガの言葉に、みゃーは形の良い目を大きく見開いた。
「門がなぜ現れるのか、異界というのは何なのか……その原理は完全には解明されていないが、人間が異界の影響を受けることは分かっている。それも長く触れれば触れるほどに」
「そうなのです、か?」
「公表はされていないがな。しかし今まで、君のように顕著な影響を受けた者たちは、門に長く接したか、あるいは門の中に入った者ばかりなんだ」
彼女の言葉が全て真実なら、たった一回の接触で影響を受けた最初の一人ということになる。
「私みたいな人が……いるんですか?」
「……いないわけではない。が、君と同じかどうかは分からない」
トウガは、みゃーの質問に慎重に答えた。
彼女にどこまで情報を与えていいのか、という部分を本条と詰める必要があるだろう。
「思い出してくれ。本当に全く、門を間近に見たことはないか?」
言われて、みゃーは少し考え始めたようだった。
世間的には、門はただ突然現れて異界の魔物を吐き出すだけの存在である。
が、真実はもっと過酷だ。
ーーーこの世界は、異界と融合、あるいは併呑されようとしている。
その事実を知っているのはごく一部の人々と、本条のような対異世界の最先端にいる冒険者のみだ。
デジタルイラストを描く際の多層レイヤーのように、この世界と異世界は現在重なっているらしい。
詳しい理屈はともかく、それが徐々に結合していっており、最終的に全て結合して一つの絵になろうとしているようなものだ、とトウガは説明を受けていた。
対処法は分かっていないし、結合した後にどうなるのかも不明だ。
トウガたち冒険者に出来るのは、現れた魔物が危険であれば退治し、危険のないものであれば保護をすることだけだ。
その中には、みゃーのように異界の影響を受けた者の保護も含まれている。
彼女は伏せていた目を上げると、やっぱり首を横に振った。
「本当に今まで見たことがないです。ニュースの中の出来事だったり、学校で門が出たって言われて言われて避難したことくらいしか」
「……そうか」
門の影響のうち、こちら側の生物の全身変質というのはほとんど末期段階に当たる。
与えられた変化に適合出来るかどうかは個人の資質によるが、最初の影響は精神面だったり、ほんのわずかに体の末端に変化が出るくらいなのである。
これ以上は何も出てこないだろう、と判断したトウガは、みゃーに告げた。
「では俺は風呂に入ってくる。テレビをつけてもいいし、先に寝るなら歯磨きやドライヤーの間くらいは待つが」
「えっと……疲れたから先に寝たいです……」
「分かった」
身支度を終えて、おやすみなさい、と部屋にみゃーが消えた後、風呂に入ったトウガはリビングで微かな音を聞いた。
残ったミネラルウォーターのペットボトルを飲み干してから耳を澄ますと、音はみゃーの部屋の方から聞こえてきていた。
それは、すすり泣くような声だった。
それを聞いて、トウガは静かにペットボトルを置くと、アロマ・シガレットを取り上げて一吸いする。
ーーー不安でないわけがないだろうな。
彼女の口ぶりから察するに、異変が起こったのはほんの数ヶ月前、下手をすれば数週間程度のことだろう。
その間に親元から離され、学校にも通えず状況に翻弄されるのは、あの年頃の少女には酷な話だ。
異変が制御出来ないのなら、彼女がせめてまともに暮らすためには冒険者になるしかない。
だからこそ本条は、彼女をトウガの元に寄越したのだろう。
出来る限り元の暮らしに近い環境で、少しずつ慣らすために。
「……それでも、もう少しやりようはないのか」
誰にぶつけたらいいのか分からない怒りを覚えながら、トウガはスマホを手にして事務所へ向かった。
ここなら、みゃーに会話は聞こえないだろう。
トウガはスマホの番号を検索して、本条に電話をかけた。