第九十話 消える虹なら
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※R-15
久しぶりに見た、白いフード付きローブ。
帰って来た。エメが、トゥ=タトゥから。
「エメ! 帰って来たんだ……ね……?」
ゆりは嬉しさから思わず駆け寄ろうとして、何故か足元が凍った。
「ユリ」
空気を震わせることなく、静かに脳へ響く無機質な声。
「……エ、メ?」
「なんで」
エメが一歩、進み出た。音のしないその歩みに何故か底知れぬ恐怖を感じ取り、ゆりは一歩後退る。
「なんで、神殿を出た」
「え……?」
ゆりが聞き返すと、そこで初めて、エメは言葉を感情に揺らした。
「何故、――裏切った」
裏切り。
その強い怒りの籠った言葉に、ゆりは戸惑う。
「ユリ、アンタは言った。神殿こそが、自分の家、自分の、帰る場所だと」
「……!」
そう言われて、ゆりはエメが残していった言葉を思い出す。
“ユリ、お願い。教会にいて。オレの、目の届くところから、離れるな”
“オレの帰りを、大人しく待つと、今、ここで誓え”
“アンタの帰る場所が、此処なら――。オレの帰る場所も、此処だ”
約束を違えて神殿を出たことを咎められているのだと知り、ゆりはハッとした表情でエメを見た。
「エメ……ごめんなさい。あのね、あなたがいない間に、色々あったの」
「それで、今度はここで……アーチボルト卿に、飼われるのか?」
謝罪の言葉に聞く耳を持たない様子で、エメがゆりの顎を掴み、ぐいと上を向かせた。
「何を……言ってるの……?」
「家畜が、宗旨替え? ……いや、奴隷だった、か?」
その高圧的な物言いに、今度はゆりが怒りを覚えた。
神殿は、追われたから去らざるを得なかったのだ。そしてアラスターは、そんな危機から救ってくれた恩人だ。それを侮辱するような発言に、ゆりは思わず反論した。
「何でそんなひどいこと言うの? 私だって、神殿を出たかったわけじゃない……! もちろんいつかは自立しなきゃと思ってたよ。でも今ナオトがあんな状況で……離れられるわけないよ……っ」
ゆりは顎を掴まれたまま、それでも毅然とエメを見据える。だが向けられた光すら飲み込むように、エメの瞳は昏く沈んだ。
「アランさんは……、エメが『何かあったら頼れ』って言ってくれたんでしょう? 色々と便宜を図ってくれて、とても親切にしてくれてる。それを“飼う”とか、そんな言い方、」
「――もう、いい」
まるで彼の纏う冷気が刃になったかのように、ゆりの言葉を断ち切った。
ゆりはただ、エメに解って欲しかった。いつものように、少し冷たいその手を温めるように握り、笑いかけて、ただ旅の労を労いたかった。しかし、その想いは今のエメには届かなかった。
エメは蜥蜴族という特殊な素性から、生まれた落ちた時から『閃光』の一員となるべく教会の内部で育てられた。それ故、それ以外の生き方を知らない。
これまでずっとゆりの側にいたのは、トゥ=タトゥ本国より勇者と召し人を監視し、その身を守るよう命じられていたからだ。
――だが、ゆりが教会を離れるならば。
エメはその役割を失う。エメが誰よりも近くで、その手を繋ぎ、その身に触れ、その心を守ることは、もう叶わない。
ばさり。
突如エメが白いローブを脱ぎ、乱暴に床に投げ捨てた。
途端に露になる、美しい金髪、鮮やかな紫の瞳、引き締まって均整の取れた身体。これまで誰よりも近くで、いつも一緒にいたはずの彼は――ゆりの知らない、妖艶な雄の気配を纏っていた。
「駆ける鹿なら、脚を折る。飛ぶ鶫なら、翼を捥ぐ。消える虹なら――」
自らに言い聞かせるように。
顔を臥せたエメは、消え入るほど小さく呟いて後……再びゆりを見た。
――『閃光』のエメ。教会指折りの暗殺者と恐れられた、その眼光で。
「――オレが。オレがアンタを、聖女にしてやる」
次の瞬間、ゆりの身体は掴み倒され床に転がった。何が起こったのか理解できない程一瞬で、視界が空転し天井が目に入る。混乱したまま見上げると、エメが荒々しく馬乗りになり、自分の髪を束ねていた紫のシルクのリボンを解く。それは、いつかゆりが彼に贈ったものだった。
金の髪がはらりと波打って肩口に広がり、ゆりがその美しさに一瞬目を奪われたかと思うと――エメはあっという間に、そのリボンでゆりの両手首を締め上げた。
ガツッ!!
エメが銀のナイフをゆりの頭上、両手首の拘束ごと床に突き立てる。するともうゆりの身体は床に縫い付けられたようにびくともしなかった。
「エメ! ……エメ!?」
漸く状況を理解し、ゆりは震える声でその名を呼ぶ。既に光を無くした紫の瞳が容赦なくこちらを射抜いた。
エメは口元だけで笑みを作ると、身動きの取れないゆりの頬に触れる。その指はいつものようにひんやりとして冷たかった。
そしてエメは――初めて恋人に愛を告げるよう時のようにそっと、優しい声音で囁いた。
「アンタが聖女になったら……。オレが、側仕えになる。アンタが知らない男に抱かれて、傷ついて泣いていたら……オレが清めて、慰めてやる。オレは、オレだけは――。どんなにアンタが汚れても、何度でも……アンタを、赦す」
次の瞬間、エメは突如として二本目のナイフでゆりの纏う白綿を切り裂いた。
「っ!? いや、エメ、嫌だ!」
「……。良い声で啼け、よ……。――聖女様」
「やだ……! やめて、エメ、おねが、っ……」
その蹂躙は、泣きたくなるほど優しかった。
身体を這う冷たい感覚に、ゆりは漏れそうになる声を噛み殺した。口を引き結んで耐えていると、エメがせつなげに瞳を揺らし、真っ白になったその唇に口付けようとする。ゆりは嫌々と首を振り、抵抗した。
すると――一度光を取り戻したはずのその目が、再び怒りにギラギラと燃える。
ガヅッッ!!
「!!」
衣服を引き裂いた二本目のナイフがゆりの顔のすぐ横、黒髪の乱された床に突き立てられた。ゆりが恐怖に身を竦ませると、エメはそのままナイフの柄を握った拳をずるり、と刀身に滑らせる。手の平に銀の鋭角が食い込み、拳の隙間から大量の血が流れ出した。ゆりが驚愕に目を見開くと――エメは、苦しげに声を上ずらせた。
「――治して。オレの傷を。オレの心を、治して……ユリ」
まるで幼子のような哀願が、ナイフより鋭くゆりの心に突き刺さった。
エメの唇が重なる。ゆりはもう、抵抗しなかった。
「ユ、リ……」
貪るように唇を食み、舌を絡め、聖なる心を宿す甘い唾液を啜っても。この胸を穿つ痛みは消えない。
「ユリ」
露になった白い稜線を辿り、徒に掴んで崩す。柔らかくて温かくて、美しかった。だがそれだけでは、この渇きは潤わない。
「ユリ……!」
ならば最奥を暴き、消えない証を刻み付けて、その全てを手に入れれば。
力付くで開かせようとエメが己の上体を起こすと、ゆりが静かにこちらを見ていた。
怒りもせず、泣きもせず、ただ、哀しげに顔を歪めて。
何も言わず、諦めと共に全てを受け入れようとして……。ただ、審判を待つ身の如くそこに横たわっていた。
――オレはユリを守りたかった。誰よりも気高く尊い、ユリのキレイを。
「そんな目で、見るな……」
――違う。
オレが欲しいのは、そんなアンタじゃない。
憐れみに瞳を曇らせ色を失った、そんな目じゃない。
オレが。オレが愛したのは。
「そんな目で、見るな!!!!」
振り切るような叫びと共に、エメはゆりの顔に三本目のナイフを突き立てた。
キィィィイイイン!!!!
突然耳を裂くような金属音がして、エメの振り下ろしたナイフが床に転がる。
「……!」
それは、「自由の鎖」の護り。装着者の身に深刻な生命の危機が訪れた時、その身を助ける結界。
エメの与えたその鎖が、エメからゆりの身を守った。
「……あ……う……」
エメはゆりの頭上でその両手を拘束していたナイフを引き抜くと、よろめきながら立ち上がる。
ぽたり。ぽたり。
剥き出しのゆりの肌に、いくつもの雫が零れ落ちた。
「エメ……? 泣いてるの……?」
ゆりの言葉に、エメは混乱した様子で自らの両手を見た。ゆりの魔力で既に跡形もなく傷の塞がった手に、止めどなく流れ落ちる熱い滴り。
――それは、エメの涙。
「違う。……違う。オレは。オレは……!」
エメは床に落とした白いローブを掴み取ると、三階の窓から身を躍らせ、逃げるように消えた。
それが、「エメ」と「ゆり」の最後の別れとなった。
そして――この翌日、神霊薬は完成した。
本当の最後ではありません(念のため)




