第六十八話 証明してくれ
ゆりはアラスターに全てを話した。
不死者との戦いで傷つき、原初の獣に変貌したナオトを自分が癒したこと。その後も、時折自分の魔力を分け与えることでナオトの命を繋いでいること。
具体的な魔力の与え方だけは――ぼかしたけれど。
アラスターはゆりの話を理解するのに少々の時間を要した。
不死者に付けられた傷は大がかりな浄化の儀式でなければ中和できない。更に不死の王の接吻と言えば、一度受けた者はその生命を吸い付くされるまで消えないと言われる死の呪いである。
回復魔法などの技術や力が失われている現代にあって、個人の力で呪いを抑えたり傷を癒すなど、神の御業でしかない。
だが――教導セグヌンティリエは、ゆりの身体の内に膨大な魔力が眠っていることを示唆していた。もしそれを何らかの方法で使いこなしたなら、或いは。
アラスターは内心の動揺を悟られないよう、努めて平静にゆりに問うた。
「ゆりの望みは何だ? この話を聞かせて、俺にどうして欲しい」
その問いに、ゆりはアラスターを正面から見据え、答えた。
「魔道研究所の優秀な研究員さんを、紹介して下さいませんか」
――魔道研究所。
中央評議会の下部組織で、魔力や魔法、魔道具について研究するもの。連合国中から優秀な人材が集まり、魔力研究における先進性は他の組織の追随を許さない。評議会の虎の子である。
ゆりは先日の禁書庫で出会った男の言葉をきちんと調べていた。
「何のために」
アラスターは敢えて突き放すようにゆりに問い掛けた。
「ナオトの呪いを消し去る方法を探すため、です。まだほんの少ししか調べられてませんし、私の力では限界があるけど……少なくとも私があたった範囲では、解呪の方法は見つけられませんでした」
「研究員は皆それなりに多忙だ。貴女の要求に付き合うメリットは?」
「それは……。私の身体、じゃだめでしょうか。あの、変な意味じゃなく……研究対象として」
確かに、類い稀な魔力を身の内に持ち、回復魔法を行使したという人間が実在するならば――研究員にとってこれほど興味深い研究対象は他にない。
「貴女は、勇者殿の解呪方法を見つけるために、研究員が身体に触れることを許すと言うのか」
「ある程度は、しょうがないと……思ってます」
「……そう、か」
――気に入らない。
何もかも、気に入らなかった。
アラスターは立ち上がると、冷徹な眼差しでゆりを見下ろした。
「はっきり言おう。貴女が今日我々に聞かせた話――全て、証拠がない。あまりに荒唐無稽で、とても信じられない」
「そんな……!」
「仮に貴女の話が事実だとして、我々がそれに乗れば教会との軋轢を生む可能性もある。それに正直に言って……俺は勇者殿がどうなろうと、知ったことじゃない」
「アランさん、お願いです。助けて! 信じて下さい!」
アラスターがソファーを離れゆりに背を向けると、ゆりは乞うようにその背中にすがり付いた。
少しだけ振り返って様子を伺うと、顔を蒼白にして瞳を潤ませたゆりが、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見上げている。
それはアラスターの心に暗い喜びと、どす黒い嫉妬を湧き起こした。
勇者のために――。
ゆりはその身に眠る力を開花させ、真実を探している。更に、自らを研究対象として扱うことを許し、庇護元である教会を敵に回すかもしれない。そうして、彼を救うため、こうやって必死に自分にすがり付いてくる。
その事実が、アラスターの胸をざわつかせた。
「……ゆり」
アラスターは向き直りゆりの正面に立つと、腰に帯びた剣に手をかけて半分ほど引き抜いた。
「俺に証拠を見せてくれ。信ずるに足る、証拠を」
彼は最初からゆりが嘘をついているとは思っていなかった。だが、黒狼騎士団の団長として彼女に助力するなら、ただ盲目的に信ずるわけにもいかない。
目の前の抜き身の剣に、一体何をするつもりなのかとゆりがアラスターの手元を見つめていると――。アラスターは左手をその刀身に添え、人差し指を刃に滑らせた。
敵を屠るため、或いは身を守るため。極限まで研ぎ澄まされたその刃は、軽く触れただけで容易にアラスターの指を切り裂いた。
「アラン!」
レインウェルが、驚きと抗議の声をあげる。
身体が資本の武人が、例え利き手でなくとも己が身を傷付けるなど、あってはならないことだ。
ぱっくりと切り裂かれたアラスターの人差し指からは血が溢れ、手の甲を伝って流れ出す。
ゆりが驚きに目を見開いていると、アラスターは血に濡れた左手をゆりの眼前に突き出した。
「さあ。ゆり、証明してくれ。貴女は、他人の傷を癒すことができるのだと」
「…………」
ゆりは無言で息を飲んだ。
確かにゆりは、血を与えてナオトの傷を癒した。キスをすれば、彼の右肩の呪印の力は弱まった。
だが、目の前にある怪我を直接、それこそ魔法のように治したことはなかった。
本当に自分は他人の傷を治すことができるのか?
自惚れでも勘違いでもなく、本当に。
ゆりは覚悟を決めると、アラスターの左手に触れた。
「失礼、します」
そう言ってその大きな手を両手で包むと、傷付いた人差し指を――そのまま、自らの口に含んだ。
「!」
アラスターの耳がぴくんと震えた。
ゆりはアラスターの人差し指を咥えて吸い付くと、まるで愛撫するかのように口の中で転がした。時折吐息を漏らしながら、舌で舐り、じゅ、と音をさせながらしゃぶってまとわりついた血を飲み下す。アラスターの節立った長い指が収まりきらずに苦しげに口を半開きにすると、口の端から赤い血の混じった唾液がだらしなく流れた。
そうやって自分の指がゆりの小さい口の中を蹂躙する感覚に、アラスターの背をぞくぞくとした興奮が駆け抜ける。
「…………っ。ゆ、り」
ゆりの名を呼び、漏らした吐息が艶を含んでいるのをレインウェルは感じ取った。もしこの場に自分がいなかったら色事になっていたかもしれないと思い、レインウェルは自分をここに残した上司の判断(本人にとっては不運だったかもしれないが)に首を振った。
ほんの束の間の――アラスターにとっては永遠のような拷問の時間が終わり、ゆりがそっと咥えた指を口から離す。
すると、ゆりの唾液に濡れたアラスターの左人差し指は、まるで始めからそうであったかのように綺麗さっぱりと傷が消えていた。
「本当に傷が……消えている」
アラスターが驚愕の表情で自分の左手を見つめていると、真っ赤になったゆりが再びその手を強引に取り、ポケットから取り出したハンカチで拭った。
一瞬前までの大胆な行動と同一人物とは思えないその様子に、引き締めていたはずのアラスターの顔は自然と綻ぶ。
先程まで心を覆っていたドロドロとした感情はまるで指の怪我と一緒に洗い流されたかのように消え去り、彼の中にはただ、ゆりを愛しいと思う気持ちだけが残された。
アラスターはゆりの顎を持つと、その口の端に残った自身の血をぺろりと舌で拭い取った。
その紳士ならざる獣じみた行為に、レインウェルは見てはいけないものを見た気分になって二人から顔を背けた。
「ゆり、すまなかった。俺は……貴女を、信じる」
そう言ってアラスターが瞳の満月を細めると、見上げていたゆりの瞳にはみるみる涙が溜まり……ぼろぼろと零れ、泣き出した。
「ああ、泣かないでくれ。すまない、貴女を試すような真似をした」
アラスターが居ても立ってもいられずにその身体を抱き締めると、ゆりはしゃくりあげながら首を振った。
「ちが、違います。アランさん、自分を……傷付けるようなことは、しないで」
「ああ、悪かった。もうしない」
いつかゆりにされた時のように、アラスターはゆりの背に手を添えると優しく擦った。
「とんでもないことを知ってしまいましたね」
「ああ。ゆりの証言通りなら、教会が何かを隠しているのは間違いないな」
「……気にすべきは、そこではないのでは」
「わかっている」
ゆりを落ち着かせ、再度ソファーに座らせ、淹れたての紅茶を飲ませて。
暫し歓談した後、魔道研究所に紹介することを約束し、団員に神殿へ送らせた。教会側にこちらとの関係を邪推されないよう、自然な距離で護衛するようにと団員には伝えてある。
ゆりが置いていった籐のバスケットに入った手作りフィナンシェを頬張りながら、アラスターは自分の左手に視線を落とした。
ゆりは紅茶を飲みながら、自分の体液には魔力が含まれているらしいこと、とみに近頃はその量が増えてしまい、獣人には迷惑なくらい香ってしまうため魔道具で魔力を抑えている、ということを説明してくれた。
アラスターはゆりの首に嵌まった「魔力殺し」の鈍色が頭から離れない。
「ゆり嬢の体液に、人を癒す力が含まれている、ということですよね」
「いや、単純に、体内で生成された純粋で高濃度の魔力なんだ。それをたまたま彼女は、他人を癒すために使った」
「しかし、体液となるとその……色々、問題があるのでは」
レインウェルはゆりの説明を聞いた時、その瞳に光っていた涙が零れ落ちるのを見て、「もったいない」と思った。その涙を掬い集めれば、それだけで強力な薬となる。つまりゆりの身体には、それだけ利用価値があるということだ。
「どうやら勇者には、血を与えたようだな」
「!」
「左の掌に傷痕があった。左腕の動きそのものにも違和感があったから、袖の下にはもっと大きい傷があるんだろう。ここしばらく体調不良だと言ってたのはその治療のためだろうな」
「なんとも……。自己犠牲の精神ですか。まるで伝承に登場する聖女様のようですね」
「聖女そのものだ」
その言葉に賛美の色はない。アラスターは事実として、そう思ったのだ。
「レイン。今日のこと、絶対に他言するなよ」
「当たり前です。しかしそれなら紹介する研究員も信用のおける人物でなくてはいけませんね」
「ああ、それなら……」
アラスターは立ち上がると、ゆりの口内を犯した左手の拳を握った。そして、心底嫌そうな顔をして呟いた。
「かなり不本意だが、適任がいる」




