第六十四話 生きること
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その日は曇天だった。
左腕がほぼ完治したゆりは再び働き始めることとなり、やや緊張した面持ちで久しぶりに孤児院の門をくぐった。
「ゆり先生、お久しぶりです……! ご体調は、もう大丈夫なんですか?」
「はい。一ヶ月以上もお休みをいただいてしまってすみませんでした。あの、これからも、ここで働かせていただけますか……?」
「もちろんですよ! 貴女がいない間、子供達がどれだけ寂しがっていたことか! さあさあ早く、顔を見せてあげてくださいな」
久しぶりの出勤に多少の戸惑いがあったが、院長である中年の修道女の言葉に、ゆりは心から安堵した。
「ゆりせんせい!」「ゆりせんせいだ!」
子供達が集まる部屋へ顔を出すと、ゆりの姿を見た子供達が我先にとこちらへ駆けてくる。幼少の子供達に囲まれ挨拶を返していると、少し年上の貴族の少年達が照れ臭そうな様子で遅れて集まってきた。
「あれ。ゆりせんせい、お嫁にいったんじゃなかったの?」
「……出戻り?」
少年達の言葉にゆりは思わずつんのめった。
すると、ゆりを取り巻いていた幼少の子供達が侃々諤々の議論を始める。
「ゆりせんせいはおーじさまとけっこんしておひめさまになったんだよ!」
「ちがうよ! アーチボルトさまがゆりせんせいのこいびとなんだから」
「そうだよー、だってアーチボルトさまはよく、おうまさんにのってゆりせんせいにあいにくるじゃないか」
「でも、ゆりせんせいはとおくのくにのおうじさまにプロポーズされたのよ」
連合会議中の夜会で起こった事実とそれに尾ひれの付いた噂、更に子供達自身の経験と推測が入り混じり、幼い議論は混迷を極める。この孤児院には貴族の子弟も出入りしているので、夜会の一件が子供達の耳に入るのも無理からぬことだった。
なんと言ってこの場を収めれば良いのかわからず、ゆりがひきつった笑いを浮かべていると、噂好きで幼い子供達の間では中心的な存在の少女ルーシアが、ちっちっち、と指を振った。
「ふっ……あなたたち、あまいわね」
一家言ありそうなルーシアの態度に、子供達の注目が集まる。
「ゆりせんせいとおおかみのきしさまは、おやどうしがきめたこんやくしゃなの。でもほんとは、ゆりせんせいにはすきなひとがいるの! そのひととせんせいはひみつのこいびとどうしなのよ。そのひとはね……」
ごくり、と誰かが喉をならす音が聞こえた。思わせ振りに溜めを作ったルーシアは、栗色の髪を掻き上げると自信たっぷりに続けた。
「しろいローブをきた、じゅーしゃのおにいさんよ」
おお……! というどよめきの声があがる。
「そのひとなら、ぼく、しってる」
「いつもゆりせんせいをおむかえにくるひとだ」
「あのおにいさん、にらんでくるからこわいよ」
「じゃあ、アーチボルトさまは?」
自分が何と噂されようとも構わない。だが、アラスターとエメのことは彼らの名誉のためにも正しく伝えなければならないと思い、ゆりは口を開いた。
「みんな。何か誤解しているみたいだけど、先生とアーチボルトさんは婚約者でも恋人でもないの。お友達。とても親切で、いつも先生やみんなのことを気にかけてくれているのよ。あと白いローブのお兄さんは教会の人で、先生のことを心配してお迎えに来てくれているだけよ。見た目は怖いけど、優しい人なの」
ゆっくりと言い含めるようなゆりの言葉に、子供達は一度きょとんとした後、次第に顔を見合わせてうんうんと頷いた。
「そうなんだ……やっぱりゆりせんせいはアーチボルトさまじゃなくて、そのひとがすきなんだ……」
「ルーシアちゃんのいったとおりだ」
ゆりはもう何も言うまい、と心の中でエメとアラスターに謝罪した。
久しぶりに子供達と庭を駆け回り、オルガンで歌を歌い、この世界にはないイソップやアンデルセンの物語を語って聞かせたゆりは、目の回る忙しさの中にも充実した心地好さを抱えていた。
気がつけばあっという間に昼食の時間。束の間子供達の手を離れたゆりが食堂を見渡すと、長テーブルの端に手をつけられていない二つの食事が用意されていることに気が付いた。
「あれ、誰か、増えたんですか……?」
思い当たる子供達は全てきちんと食卓についている。休職している間に預かる子供が増えたのかもしれないと、ゆりは小さな声で院長に尋ねた。
「フィオルムと、フィアナだわ」
院長は瞳を伏せると、躊躇いがちに嘆息した。
「ちょうどゆり先生が休職したのと同時期に、ここから北の村で恐ろしい事件が起こって……。フィオルムとフィアナは、その村のたった二人の生き残りなの」
「……! それって、もしかして……」
ゆりが休職した一ヶ月と少し前。モルリッツ近郊の村で起こった事件。村人は全滅し、二人の子供だけが生き延びた。
ゆりはその事件を知っていた。
「村人が全員、不死者になってしまったという事件、ですか……?」
教会の一部の高官以外には村人の全滅の真の原因は伏せられ、局地的な流行り病とされているので、院長は少し驚いてゆりを見た。
「え、ええ……。家族や知り合いも皆亡くなられ、きっと、凄惨な現場を目の当たりにしたのでしょう。食事もほとんど手に付けず、まるで……。まるで、生きることを放棄してしまっているような有り様なのです」
“生きることを放棄してしまっている”
その言葉に、ゆりは怒りで震えた。
「院長、二人は……フィオルムとフィアナは、何処にいるんですか?」
おそらく孤児達の寝室にいるはず、という院長の言葉を聞くや否や、ゆりは食堂を飛び出していた。
“許せない”
それがゆりの抱いた感情だった。
――ナオトが命がけで救った命を、自ら棄てようとするなんて。ナオトは二人を庇って怪我を負い、今も不死の王の接吻による呪いに苦しんでいる。
それなのに、なんで……!
ゆりが孤児院の二階の隅、簡素な二段ベッドが並ぶ子供達の寝室の扉を開くと、その一番奥、窓辺に置かれた小さな机の前に二人の兄妹は座っていた。
落ち窪んだ瞳。この辺りの民族特有の栗色の髪は艶をなくして藁のように乾燥している。服から覗く手足は明らかにやせ衰え、まるで生きながらにして、既に不死者の眷属となってしまっているかのようだった。
表情をなくした二人の子供はゆりを見るとただ、無言でお互いを守るように袖を握り、抱き締め合った。
「……あ……あ……」
互いを庇い合う幼い二人を見た瞬間。
ゆりの怒りは一瞬で瓦解し、ぶつけるはずだったどす黒い感情は熱い涙になり零れ落ちた。
ゆりは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら駆け寄ると、痩せ細った二人を抱き締めた。
棒切れのように細い二つの身体は今にも折れそうなほど頼りないが、温かい。血が流れ、心臓が脈を打ち、呼吸をすれば胸が動き――二人は、確かにそこに生きていた。
「 生きてて……、生きててくれて、良かった、ああ……! ありがとう、良かった、本当に、ありがとう……!」
何故そんな言葉が出たのか、ゆりは自分でもわからなかった。だが、ナオトがその身を挺して助けた二つの命が、愛すべき稚き者が、間違いなくここに在る。その事実がただ、ゆりには嬉しかった。
知らない大人に突然抱きすくめられ、大泣きされ、最初は状況を理解できずに固まっていたフィオルムとフィアナの幼い兄妹。二人はやがて、枯れ果てた泉に再び水が湧くように――次第に瞳を潤ませ、わあわあと泣き出した。
そうして三人は、しばらく窓辺で身を寄せ合って泣き続けた。
次回こそはナオトが出てきます。




